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第9話

 図らずも仕事終わりの揃った矢上と一緒に課を出る。

「今日は珍しくぼんやりしてたな」

「すみません。昨日、なんか寝た気がしなくて」

 自分ではいつもどおりのつもりだったが、ごまかせなかったのだろう。苦笑する私を、矢上はコートの前を合わせながら見下ろす。

「昨日の夜、夫がいなくて一人だったんです。怖くて家中の電気を点けて寝たら、やっぱり夢見が悪くて」

「子供かよ」

 鼻で笑う矢上に、ですよね、と返しつつロビーを抜ける。別に理由を伝える必要はない。触れなくても、脳裏にちらつく足が不快だ。

「旦那、遂に家出したか」

「そこまで鬼嫁じゃありませんよ。葬式だったんです。ちゃんと帰ってきてます」

 携帯には四時過ぎに『帰ったよ、先生のとこ行ってくる』とメッセージが届いていた。寺本に慰めてもらいに行ったのだろう。以前は私を一番の理解者だと話していたのに、今はもう口にすることはない。耳が痛い私の意見も、合わないものと割り切って流しているのが分かる。寺本にアドバイスされたのだろう。

 ただ、と呟きつつ正面玄関から庁外へ出る。途端に吹きつけた寒風に、巻きつけたストールへ首を竦めた。

「整骨院の先生の教えに、どっぷりはまってしまって。投資セミナーの生徒さん達まで連れて行って、怪しげなプログラムを受けさせてるんです。やめた方がいいって言ってるんですけどね」

「大丈夫かよ、洗脳されてんじゃねえのか」

 洗脳、の言葉が不意に引っ掛かる。これまでも何度となく感じたことはあったが、呆れと皮肉を混ぜて思い浮かべただけだった。でも今は、もっと現実的な感触だ。

「そう思いますよね」

 吉継が整骨院へ岸川達を連れて行き始めたのは、十月からだ。BRPもおそらく数度受けていたはず。吉継は変わったように見えなかったから、どうせなんの効果もないのだろうと高を括っていた。

――この前帰ってきてから『俺はレーサーだ、試合に出るんだ』って言い出して、昔の知り合いに連絡を取ってたらしい。

 まさか、岸川は。

「大丈夫か」

「あ、はい。すみません」

 矢上の言葉に我に返り、苦笑する。さすがにちょっと飛躍しすぎたかもしれない。岸川がBRPのせいでおかしくなったのなら、吉継はとっくに変わっているはずだ。

 矢上は駐車場へ向かう信号を渡ったあと、軽く周りを確かめる。

「お前、女の友達いるか」

「昔ほど密な付き合いはないですけど、年賀状のやりとりしたり年に数回会う程度の子ならいますよ。どうしたんですか」

 赤っぽい街灯の光の中で見上げると、矢上は照れたように頭を掻く。

「うちの嫁さんが、お前に会ってみたいって言うんだよ。友達になりたそうな感じでな」

 突然すぎて驚いたが、嫌悪感はない。それなら、ちょうどいい材料がある。

「じゃあ来週は飲みじゃなくて、うちでぼたん鍋しませんか。もし良ければ、息子さんも一緒に」

「ありがたいけど、いいのか。うちの、浜の女だから気性荒いぞ」

 矢上は市の西側に隣接する水薙町みずなぎまちの出身で、現在もそのまま暮らしている。妻は小中学校の後輩だと話していた。

「大丈夫ですよ。矢上さんの奥さんですから、信用してます」

 緩んだストールを巻き直しつつ、指差された月極駐車場へ入る。

「うちにもお前みたいな嫁が来ねえかな。任せといたら全方位丸め込んでくれそうな奴」

「無理ですよ。家族が調整できるんなら、こんな気苦労してません」

「お前んとこは旦那がぶっ飛びすぎなんだよ」

 矢上が鍵を押すと、近くで車のライトが点滅する。光を抜き取る影が見えた気がして、思わずびくりと身を引いた。

「なんだ」

「一瞬、影が変な形に見えた気がして」

 一瞬、影に長く伸びるあの足が見えたような気がした。でも、そんなはずはない。

「俺の家、海の近くだから夜になると」

「刺しますよ」

「容赦ねえな」

 矢上は軽く笑い、助手席を勧める。車は矢上によく似合う、少し厳ついRV車だった。


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