図らずも仕事終わりの揃った矢上と一緒に課を出る。
「今日は珍しくぼんやりしてたな」
「すみません。昨日、なんか寝た気がしなくて」
自分ではいつもどおりのつもりだったが、ごまかせなかったのだろう。苦笑する私を、矢上はコートの前を合わせながら見下ろす。
「昨日の夜、夫がいなくて一人だったんです。怖くて家中の電気を点けて寝たら、やっぱり夢見が悪くて」
「子供かよ」
鼻で笑う矢上に、ですよね、と返しつつロビーを抜ける。別に理由を伝える必要はない。触れなくても、脳裏にちらつく足が不快だ。
「旦那、遂に家出したか」
「そこまで鬼嫁じゃありませんよ。葬式だったんです。ちゃんと帰ってきてます」
携帯には四時過ぎに『帰ったよ、先生のとこ行ってくる』とメッセージが届いていた。寺本に慰めてもらいに行ったのだろう。以前は私を一番の理解者だと話していたのに、今はもう口にすることはない。耳が痛い私の意見も、合わないものと割り切って流しているのが分かる。寺本にアドバイスされたのだろう。
ただ、と呟きつつ正面玄関から庁外へ出る。途端に吹きつけた寒風に、巻きつけたストールへ首を竦めた。
「整骨院の先生の教えに、どっぷりはまってしまって。投資セミナーの生徒さん達まで連れて行って、怪しげなプログラムを受けさせてるんです。やめた方がいいって言ってるんですけどね」
「大丈夫かよ、洗脳されてんじゃねえのか」
洗脳、の言葉が不意に引っ掛かる。これまでも何度となく感じたことはあったが、呆れと皮肉を混ぜて思い浮かべただけだった。でも今は、もっと現実的な感触だ。
「そう思いますよね」
吉継が整骨院へ岸川達を連れて行き始めたのは、十月からだ。BRPもおそらく数度受けていたはず。吉継は変わったように見えなかったから、どうせなんの効果もないのだろうと高を括っていた。
――この前帰ってきてから『俺はレーサーだ、試合に出るんだ』って言い出して、昔の知り合いに連絡を取ってたらしい。
まさか、岸川は。
「大丈夫か」
「あ、はい。すみません」
矢上の言葉に我に返り、苦笑する。さすがにちょっと飛躍しすぎたかもしれない。岸川がBRPのせいでおかしくなったのなら、吉継はとっくに変わっているはずだ。
矢上は駐車場へ向かう信号を渡ったあと、軽く周りを確かめる。
「お前、女の友達いるか」
「昔ほど密な付き合いはないですけど、年賀状のやりとりしたり年に数回会う程度の子ならいますよ。どうしたんですか」
赤っぽい街灯の光の中で見上げると、矢上は照れたように頭を掻く。
「うちの嫁さんが、お前に会ってみたいって言うんだよ。友達になりたそうな感じでな」
突然すぎて驚いたが、嫌悪感はない。それなら、ちょうどいい材料がある。
「じゃあ来週は飲みじゃなくて、うちでぼたん鍋しませんか。もし良ければ、息子さんも一緒に」
「ありがたいけど、いいのか。うちの、浜の女だから気性荒いぞ」
矢上は市の西側に隣接する
「大丈夫ですよ。矢上さんの奥さんですから、信用してます」
緩んだストールを巻き直しつつ、指差された月極駐車場へ入る。
「うちにもお前みたいな嫁が来ねえかな。任せといたら全方位丸め込んでくれそうな奴」
「無理ですよ。家族が調整できるんなら、こんな気苦労してません」
「お前んとこは旦那がぶっ飛びすぎなんだよ」
矢上が鍵を押すと、近くで車のライトが点滅する。光を抜き取る影が見えた気がして、思わずびくりと身を引いた。
「なんだ」
「一瞬、影が変な形に見えた気がして」
一瞬、影に長く伸びるあの足が見えたような気がした。でも、そんなはずはない。
「俺の家、海の近くだから夜になると」
「刺しますよ」
「容赦ねえな」
矢上は軽く笑い、助手席を勧める。車は矢上によく似合う、少し厳ついRV車だった。