春香が目を覚ました時、バズの屋敷の一室にいた。柔らかいマットレス、暖かい毛布。首を起こして周囲を見ると、すぐ隣に、リズが座ったまま寝ていた。
「リズ」
名を呼ぶと、彼女は体を跳ねさせて起きた。
「春香さん、怪我はしてないですか?」
「ああ。問題ない」
上体を起こす。
「今は……夜か」
窓の外には星々が輝いている。
「雪の中で倒れてた、って東影さんが言ってました。何があったんですか?」
「……鷹眼を殺した」
力のない声でそう言った彼。リズがベッドの上に乗って、その頭を抱いた。
「殺すしか、なかったんですよね」
「最初は、慈悲を見せた。そしたらあっちから仕掛けてきたんだ。もう、和解する道はなかった」
「大変でしたね」
「……なぜ、こんなことになってしまったんだろうな」
「私が、産まれたからかもしれません」
「君に罪はないさ。責めるとするなら、君を作り出した人間だ」
「私、知ってしまったんです」
「何をだ」
「二百人の生贄の上に、私が成り立っていることを。それでも、一緒にいてくれますか?」
「ああ、勿論。君を守ると決めた身だ」
更に強く抱かれて、春香の固まった表情筋が僅かに動いた。
「お義父さん──春成さんと、話しました。結婚を認めてくださるそうです」
「結婚……そうだ、クィオウが、クィオウが!」
息が途端に荒くなった彼の胸を、リズの細い指が撫でた。
「クィオウさん、どうなさったんですか?」
「殺された。鷹眼に。不意打ちだったんだ。俺が、俺がもっと警戒していれば!」
涙が零れた。
「最期の言葉は聞けましたか?」
「幸せになってくれと、そう、言われた」
「なら、前を向きましょう。私も幸せを探したいんです。だから、一生を共にしてくれませんか」
春香は一旦頭をリズから離し、その顔を正面から見た。そして、抱き締めた。
「もう、俺には君しかいない……一生かけて、守らせてくれ」
きつく、きつく。小さな体は、鍛えられた肉体の中で苦笑していた。背中を摩るごつごつとした手も、すぐ上で嗚咽を漏らす顔も、全てが彼女には愛おしく思えた。
「春香さん、春香さんの思う幸せって、なんですか?」
「……わからない」
「見つけましょう、二人で」
「そうだな、そうしよう……」
啜り泣く声が、夜の部屋に木霊する。そうやって傷ついた身と心を癒していると、ノックが聞こえてきた。
「春香、いいか?」
春成の声だ。春香は慌ててリズを離す。
「どうぞ」
入ってきた父は、少し小さく見えた。
「お前に、謝らなければならないと思ってな」
「何をですか」
「すまない。今まで、息子だというのにまともに向き合ってやれなかった。どうだ、これからはバズで暮らさないか」
「南港に戻ります。友人を待たせていますから」
「そうか、友人もできたのか。……俺は、俺の幸せを認められなかった。だから、それをお前にも押し付けてしまった。これからは自由に生きてくれ。そして、リズを守ってくれ」
「誓います。真なる不死は、誰も渡しません」
彼は、父が微笑んだように見えた。初めて見る。
「俺にはもう、龍の力はない。だが、家族を守ることくらいはできるはずだ。俺たちを気にせず、幸せを見つけてくれ」
加えて、頭を下げるところを見るのも初めてだった。どう対応すればいいかわからず、彼は言葉に詰まった。
「いいねえ、幸せで」
突如割り込んだ声の主は、東影。春香は、その目の様子が変わっていることに気づいた。
「何用だ」
東影は少し笑った後、顔を手で隠す。再び現れた顔に、春香は、父を見出した。
「レルガ……!」
春成が呟いた。そう呼ばれた男の隣に、凪彩。
「ありがとう、雷業の諸君。君たちのお蔭で、僕はヘヴノヴールを手に入れることができる。本当に助かったよ」
蒼玉の目を持つレルガは、同じ目を持つリズに近寄ろうとする。その間に、春成が立った。
「春香、逃げろ。転移門はまだ生きている」
「しかし──」
「狩人でなくとも、剣の腕は鈍っていない。足止め程度ならできる」
「……どうか、生きてください」
春香はそう言ってリズを抱え上げて走り去ろうとする。が、凪彩がそれを取り押さえた。
「凪彩、何故!」
「春成によって北方十二将に送り込まれた間諜……それは、仮の姿。本来はレルガ様の指示で雷業に潜り込んだ、監視役。最初から敵だったんだ」
「貴様ァ……!」
春香の腕から零れ落ちたリズが走り出す。凪彩は腕を文字通り伸ばして掴んだ。
「逃がさないよ」
「リズをどうするつもりだ」
「元よりレルガ様のものだからね、取り返すだけだ」
彼女はリズを投げて主君に渡す。抵抗するリズを、レルガは強く抱き寄せた。
「それでは、おさらばと行こう。もしリズが欲しければ……フバンハに来るんだ。決闘をしよう」
彼の周囲の空間が歪み始める。それを阻止せんと春成が向かうが、脚を水の弾丸で撃ち抜かれた。膝をついたところで、全身を射抜かれる。
「凪彩」
その一声を聞いた彼女は春香から離れ、主の手を取った。
「春香さん、助け──」
消えた。
「はる、か……」
倒れ伏した父に呼ばれ、春香は近くに寄る。
「いいか、灼雷の炎は再生を妨げる……龍仕人に致命傷を与えるとするなら、お前だ。勝てよ」
そこで春成は意識を失った。春香はそれを抱え上げる。
「お兄様、何が⁉」
物音を聞いたカガリがやってきた。
「リズが攫われた」
「お父様は……」
「まだ息がある。医者を呼んでくれ」
カガリは一度頷いてから、駆け出した。春香は父をベッドに寝かせ、しゃがみ込む。
「リズ……」
掴みかけた幸福は、その直前で離れてしまった。
(フバンハで待つと言っていたな)
ならば、行くしかない。
それから二時間ほどで、春成は意識を取り戻した。だが、体を起こすには至らない。
「春香」
ベッドの横にいる息子に、彼はそう話しかけた。
「俺のことはいい、リズを追え。火生には火霊家と、俺の弟がいる。力になってくれるはずだ……」
「しかし──」
「行け! 惚れたんだろう、彼女に。なら、どんな手を使ってでも取り戻せ。俺にできるのは、背中を押すだけだが」
春香は暫しその言葉を噛み締めた後、立ち上がった。
「父上、ご快復をお祈りしております」
一礼して、去る。腰の赤鞘は一体何のためにあるのか。それを考えながら、彼は歩いていた。
「お兄様」
呼び止めたのは、カガリ。
「お父様の容態はどうですか」
「油断を許さない、と医者は言っていた。だが、話せるようにはなった」
「……これから、どうなさるのです」
「フバンハへ行く」
「その前に、南港へ帰ってはいかがでしょう。頸創さんが力を貸してくれるかもしれません」
「そうだな、そうしよう」
カガリから見て、その時の兄はやたら冷静であるように思えた。目の色も変わり、大切な者を失ったというのに。
「お兄様、その、お辛いのではないですか?」
「苦しくない、と言えば嘘になるが、フバンハに行けば会える。クィオウのように二度と会えないわけではない」
「フバンハに行って、何をなさるのです」
「レルガを殺す。決闘と言っていたからな」
「恐らく、刺客が差し向けられます。ソドオパ……
「いや、大丈夫だ」
「しかし──」
「それに、カガリには頼みたいことがある。家族を守ってくれないか」
「私が、ですか」
「ああ。龍仕人が、父上に止めを刺そうと手の者を送ってくるかもしれない。その時、戦える人間は一人でも多くあるべきだ」
「なるほど。ならば、そうします。お兄様、どうか、ご無事で」
春香は人の気配がある部屋に入る。夏目と燈火が、不安そうに座っていた。
「母上、俺はフバンハへ行きます。リズを取り戻すために」
「……私は何もできません。しかし、春香、後悔だけはしないことを約束しなさい。何があってもリズちゃんを取り戻して、幸せになりなさい」
「無論です。夏目、いい子でいるんだぞ」
妹は黙って頷いた。
「それでは、行って参ります」
来た時に使った門を通り、南港へ。懐かしき、木と漆喰の街並みが、そこにあった。