夜が訪れた。月が明るく自転車に乗った頸創を導く。
「さて」
件の港。人の気配はまるでなく、潮風が彼の鼻孔を擽るのみだ。その中、そっと建屋に近づく。その目には、赤く淀んだ靄のようなものが見えていた。
(なるほど、この建物自体が媒体か)
扉を開くか、彼は迷う。空間術で内部の空間を捻じ曲げ、別のどこかに繋がっているのだ。帰れる保証はない。そこで、彼は懐から二枚の札を取り出す。そこに空間転移の呪文を書き、片方を地面、片方を懐に配した。
(術を遮断する空間じゃなけりゃ、これで帰れるな)
長巻を抜き、扉を押す。
「鎌風だ! 武器を捨てて這いつくばれ!」
そう叫んで押し入れば、大陸風の、洋食屋じみた光景が待っていた。部屋は広くない。少し走ればあっという間に壁に触れるか、というほど。白いクロスが掛けられた円いテーブルに、ステーキが乗っている。
「来ると思っていたよ」
そう言ったのは、それを食べている背丈七尺はあろうかという全裸の大男。しかし、四肢は病的なほどに細く、そして、そこからは想像できないほど大きな赤い目を持っていた。髪は蛇のように畝っている。
「私はラハン。この辺りのツンゾを管理している者」
「へえ」
ここ二年ツンゾに襲わせていたのはこいつか、と彼は確信を得る。同時に、全裸である理由を問い質したくなった。
「で、なんでこんな空間を仕込んだ」
「わからないのかい?」
「効率よく『商品』を『入荷』するため、だろ?」
「正解。君たちが大勢殺したからね」
「だが、ここでお前も死ぬぜ」
「どうだか」
立ち上がったラハンは赤い指輪をした右手に段平の剣を出現させる。同時に、机もステーキも消えた。
「舐めないでほしいな」
胸を大きく開いて誘ってくる相手。頸創は、そこに飛び込むことを択んだ。長巻を振ったそのタイミングで、ラハンが消える。
(転移術!)
敵は上にいた。振り下ろしを弾き、彼は二、三歩下がる。
「龍の肉を食ってまで賊になる神経が理解できねえぜ」
「順序関係が逆だよ。賊になるしかなかったから、龍の肉を食った。身を守るためにね」
「そうかい」
頸創は果敢に立ち向かうが、ラハンは消えては出てきて、出てきては消える。
(まともに追ってたら疲れるだけだ……癖を掴まなきゃな)
刃を下に向け、相手の瞬間移動を観察し続ける。時折来る斬撃は、容易く防いだ。その間に周囲を確認したが、扉が消えていた。
(剣の腕自体はそれなり。奇襲戦法が主軸と見た。なら、待たせてもらうぜ、隙を見せる瞬間をよ)
素早いだけの敵なら、春香と何度も手合わせをした。雷の纏は肉体全てを高速化させる。青の力を持つ頸創なら、それについていくこともできる。勝てる戦だ、と確信した。
斬撃の頻度が増す。防御は余裕を持って行える。脚を払ってしまいたいが、今はまだその時ではないと彼は踏んでいた。
「イウメ・ダ・ヴェナ!」
稲妻が彼の背後に迫る。それを斬り払った時、ラハンは更にその背後に回っていた。
「チイッ……!」
一撃浴びて、舌打ち。ポタポタッ、と血が滴った。
「おやおや、それでおしまいかな?」
「いや、見切ったさ。次はないぜ」
「虚勢を!」
ラハンが飛び上がる。
「イウメ・ダ・ヴェナ・ルド!」
先程よりも太く、強く輝いている光線が放たれる。撃った自身も、命中したかどうかを即座に確認できないほど。それが、致命的だった。
「風見一閃!」
光の中から、風が飛ぶ。刃ではない。ただの、烈風。しかし、剣を引き剥がすには十分だった。
「なぜ──」
「春香に教えてもらったんだよ、導術を効率的に受け止める方法。本当ならそのまま返してぶっ殺すつもりだったが、事情を聞かせてもらうぜ」
頸創が腰のポーチから手錠を取り出し、掛けた。
「と、その前に。服着たほうがいいんじゃねえか?」
「服が嫌いなんだ。布が触れる感触が」
「へえ。行くぞ」
手錠の縄を引っ張り、転移の札を使った。
外では、既に清然と足軽数人がが待っていた。
「いらねえって言ったろ」
「親友の力になりたいと思うのはおかしいか?」
「いや、それは違わねえけどよ」
「なら、素直に受け取れ。尋問はこちらでやる」
足軽がラハンの尻を蹴って歩かせる。
「……奴は変態なのか?」
清然が真面目な顔でそう問うもので、頸創は笑いを抑えられなかった。止まらない。夜の街に、少々甲高い笑い声が響いた。
「ヒー……服が肌に触れるのが嫌なんだとさ」
「無理にでも服を着せなければ、尋問中に風邪を引いてしまうかもしれん」
「そうだな。ツンゾの侵入してきた経路と、龍仕人の関係について訊いておいてくれ。対策を立てておきたい」
「了承した。指示を出す」
「それと……連れ去られた連中の居場所もだ。どうにか助けに行きたい」
「大陸に送られていた場合はどうする」
「東部にいるなら都市連合の情報網が使えるはずだ。春香の名前を借りて、雷業を動かすのも視野に入れてる」
「そうか。西部に行っていた場合は?」
「そん時は……俺の知り合いに当たるさ。安心しろ、俺の顔は広いんだからよ」
「俺は、お前に頼ってばかりだな」
「んなことねえよ。清然がしっかりしてくれるから、俺は俺のやることに集中できるんだ」
固い表情のまま、ほんのり安堵の笑いを浮かべた清然と、彼は拳を突き合わせた。まだ、夜は長い。