春香は、重い体を持ち上げる。
「……行こう」
疲労が滲み出る声で、呟きと変わらない声量で言った。ふらり、足元が覚束ない。
「塔の屋上はヨジドンドに含まれていません。そこから脱出できます」
「どれだけ登ればいい」
「すみません、正確なところは……」
龍の血が抜けてまともに動けないカガリの肩を持ち、彼は歩き出す。
「私が背負いましょうか」
「塔の上から飛び降りるなら、君に龍になってもらう必要がある。まだ温存してくれ」
「畏まりました」
一歩一歩、進んでいく。階段の僅かな段差があまりにも大きい。
凪彩の提案を断ったのは、面子の問題もある。クィオウに会いに行くなら、自分の脚で行きたかった。背負われた状態では会えない。
十分ほど登り続けた。今の彼を動かすのは、気力ですらない。ただ、かつて愛した者をせめて一目でも見られたら、という願いだけだった。それも、薄れゆく意識の中で消えそうだった。
やがて、黒い扉の前に立つ。
「ここか?」
「はい。そのはずです」
重い戸を開く。殺風景な部屋で待っていたのは、かつての美しさをそのまま保持した、一人の女性だった。
「クィオウ……!」
カガリを置いて、歩み寄る。
「春香、春香!」
抱き合う。
「ずっと、会いたかった」
彼は涙を流しながらそう口にした。
「私も。信じててよかった……」
溢れ出る無量の想い。彼は言葉にできなかった。力のない腕で、できる限りの強さで、抱き締めるしかなかった。
「雷生が龍に襲われたって聞いた時は、怖かった」
「ああ、俺も死ぬかと思った」
「でも、生きてる」
「生きている」
左右非対称に髪が切られた頭が、彼の胸板に沈む。
「フフ、ごつごつしてる」
「あの時よりは強くなったからな」
「紅雷龍に勝てる?」
「それは……自信がないな」
そこから、無言の内に愛を分け合った。カガリと凪彩は少し苦笑いをして、目を合わせていた。
「好き」
クィオウから言った。
「ああ、俺もだ」
彼女の抱く力は、時間と共に強まっていく。
「全部、聞いたの」
「何をだ」
「お父さまが殺されたのは、春成さんと揉めたから、っていうこと」
「……すまない」
「仕方のないことだったと思う。凪彩さんから聞いた限りじゃ、先に手を出したのはお父さまみたいだし」
「それでも、俺を選んでくれるか」
「うん。だから待ってた」
クィオウがそっと離れる。
「私を、連れ出して」
「ああ、勿論」
春香は彼女を抱き上げる。
「屋上に出る。凪彩、頼めるか」
「仰せのままに」
部屋を後にして、また階段を上る。春香は気力に満ちていた。カガリを背負った凪彩と並んで、一気に駆け上がる。
そして、屋上。冷たすぎる風が襲い掛かる。だが、眼下に見える街並みが、ここが出口だと証明していた。
凪彩が龍になる。その背中に三人が乗って、緩やかに降下が始まった。
「髪はどうした」
「切られちゃった」
「……」
「でも、復讐してほしいとは思ってない。髪なんていつか戻るし」
「そうか。なら、そうする」
春香としても、これ以上の戦いは望んでいなかった。疲れたのだ。
「改めて言うね。結婚、してくれる?」
「無論だ」
口をついて出た言葉だが、その時彼はリズの顔を想起していた。複数の女を同時に愛する器用さが自分にあるか、と問うてみる。
「ほかに好きな子がいるでしょ」
「……そうだ」
「それも、かわいい子」
「君がどうでもよくなったわけじゃない。ただ、生きているのを知ったのがつい先日なんだ」
「いいよ、狩人って一夫多妻制だし」
揶揄うような微笑みが、殺伐としすぎた彼の心を解してくれた。
「そこの銀髪の方は?」
「俺の双子の……弟か妹かわからないが、少なくともきょうだいだ」
「え、いたの」
「らしい」
当のカガリは首だけで礼をした。
「もうすぐ地面ですよ。衝撃に気を付けてください」
その声を聞いて、春香たちは手を繋いだ。ズシン、という音が街外れの平原に響く。
「少し休ませてください。そしたら、バズまであっという間ですから」
「そうか。なら──」
その瞬間。白い光がクィオウの左半身を消し飛ばした。
「え?」
倒れ伏す、彼女。
「クィオウ!」
その傍に跪く。
「春香……」
「どうした、なんだ」
「幸せに……なってね」
そのまま彼女は意識を失った。
「龍の血、龍の血はないか!」
「……ありません」
なす術なく流れていく血。彼女の手はどんどん冷たくなっていく。
「クィオウ……」
二度目の喪失。あまりに重かった。
「よう、ハル」
そう声を掛けたのは、雷業鷹眼。銀色の髪、銀朱の目、透明な刀。真っ赤な羽織を着ている。腰には革のポーチがある。
「久しぶりだな」
「兄上──いや、鷹眼。貴様か」
「ああ、そうだ。これで本気を出してくれるだろ?」
クィオウの遺体をカガリに預け、春香は刀を抜く。
「そんなことのために、殺したのか」
その時鷹眼が何かを言っているようだったが、春香の耳には届かない。
「お前たちはバズに戻れ。こいつは俺が殺す」
「お兄様、私はまだ戦えます」
「いい。一人にしてくれ」
二人と一つは去っていく。
「どうだ、あれから成長したか?」
「貴様と語る言葉はない」
「おいおい厳しいこと言うなよ。兄弟だろ」
「これだけのことをしておいて、まだ兄弟の縁が続くと思っているのか」
「そうだなあ、そうかもなあ。クハハ……」
「何がおかしい」
軽蔑と憎悪の目を向けながら、彼は刀を握りこむ。
「なあ、春香。俺はお前を越えたかった。いや……そういう風に、師匠に認めてほしかった」
「……」
「雷業って苗字は貰えても、一度たりとも息子とは呼んでもらえなかった。だから、お前が羨ましかった。俺は、お前の予備なんだ。お前が灼雷に目覚めなかった時のための、次善策」
「それでも、俺は一緒に戦えると思っていた。支えてくれると信じていた」
「そのつもりだったさ。だがなあ、知っちまったんだよ、真なる不死ってものを」
「故郷を出てから、か」
「ああ。身分を隠してフバンハに潜り込んだ時、聞いちまった。師匠はそれを殺したいみたいだが……勿体ないだろう? だから、どうせ死ぬなら俺のために死んでもらうことにした」
鷹眼は服をはだけさせ、胸元を見せる。心臓の付近は、鱗で覆われていた。
「リズの腕を食って真なる不死の力を手に入れたが、それじゃ元ある呪いは打ち消せなかった。どうやら俺は生来呪いの進行が速い体質らしくてな、二十三でもうこれだ。五十までは生きられなかっただろうな」
「故に、リズを欲したのか」
「正解だ。今ならお前も仲間に入れてやるよ」
「断る。無辜の命を踏み躙ってまで生きようとは思わない」
「変わらないな、お前は」
鷹眼は刀で天を差す。
「白雷」
白い光が春香を襲う。出涸らしのような空穿でそれを打ち消し、酷使しきった脚で積もった雪を散らす。神速を誇った彼の太刀筋にその影はなく、容易く鞘で受け止められた。
「遅いんだよ!」
組み伏せられ、脇腹に刺突を貰う。
「ほら出してみろよ、お前の灼雷を!」
鷹眼は春香を毬のように蹴り飛ばす。
「それとも、まだ俺が殺せないか⁉」
雪の上に鮮血を散らす春香。
「……クィオウ、使い心地のいい穴だったよ」
それは、挑発のための嘘だった。だが、彼にとってその言葉は、人が人であるための壁を壊すほどに強力だった。
「助け出したころには俺のガキを孕んでたかもな」
「貴様ァァァ!」
彼の魂に、黒い光が差し込む。途端、肉体が燃え盛るような熱を放つ。
「それでこそだ!」
春香の姿が鷹眼の視界から消える。が、読めていた。一瞬の内に背後へ回っていた彼の斬撃を、再び鞘で受け流す。
恐らくこの一日の中で、いや、これまでの生涯を通して、彼は最も激しい剣戟を繰り広げた。飽くまで導術の間合いで戦おうとする鷹眼に追い縋り、小さな切り傷をいくつもつける。時折放たれる白雷は刀で斬り払い、顔が密着しかける距離まで近づいた。が、人知れず鷹眼が投げていた術符から放たれた彗霆で、腹を殴られる。
そうやって浮いた肉体に、鷹眼は刀を突き刺した。引き抜き、投げる。無防備になった弟に、白雷。不可避の一撃だったそれは、避けられた。
(こいつ、無意識に鳴崩の神髄に至っているのか⁉)
春香は空中で加速する。そして、鷹眼の首に傷をつけた。傷そのものは一瞬で治ったが、彼は舌を巻いた。
「いいぞハル、それこそだ!」
四方八方から、ほぼ同時に斬りつける春香。それを危ないところで防御し続ける鷹眼。伯仲していた。
後者が逃げた。白雷を放つ──熱を持った空穿がそれを食らい、逆に左腕を消し炭にされる。次いで右腕を斬り落とされる。蹴られ、倒れる。
その首元に、白い切っ先が突き付けられた。
「貴様は、これで満足か」
そう問う春香の右目は紅玉、左目は黄金に輝いていた。
「俺を殺すなら……ハル、お前しかいないと思ってた」
「身勝手な願いだな」
「最期に一つ教えてやる。鳴崩の神髄は加速じゃない……空間圧縮による自在な方向転換だ。お前はその領域に到達した。兄として、誇りに思うぜ」
春香はその顔に唾を吐いた。
「殺すなら殺せよ。痛くてたまらねえ」
彼は右腕を拾い上げて断面を合わせる。
「温情のつもりか?」
「クィオウは、自らを傷つけた者への復讐を望まなかった。今問うても同じ答えを出すだろう。だから左腕だけにしておく」
兄だった男に背を向けた。終わらせたい気持ちと、積み重ねた思い出とがぶつかり合う。今からでも振り返って止めを刺すべきなのかもしれない。だが──その時、不穏な気配を感じた。獣的直観。
「白雷!」
放たれた白い光を刀で受け止める。
「なぜ、死にたがる!」
それを、そのまま放った。心臓を貫き、鷹眼はついに動かなくなる。仰向けに倒れた兄だったそれを認めた瞬間、嘔吐した。胸が苦しい。涙も止まらない。
膝を突き、大したものが入っていない胃の中を空にする。どうにか立ち上がろうとすれば、横に倒れる。そのまま、意識を失った。