春香とカガリは、霧の中に踏み出した。あまりに濃い。一寸先すら見えない。
「これも試練、ということか」
「でも、奇妙ですね。視界を塞ぐだけなんて」
春香はしゃがみ込んで、地面に刀を刺した。
「また脱出不能な空間かもしれん。目印としておこう」
巨大な白い箱の中に閉じ込められているようだな、と彼は感じる。恐らくここに自然は存在しない。慎重に歩いていても、その足音の反響は遠くからしか返ってこないのだ。
「術を使って吹き飛ばせないでしょうか」
「俺の術はそういうことに向いていないからな……カガリ」
「私、導術の方はからっきしで……」
「やはりきょうだい、か」
苦い笑いを交わした。
どれほど歩き続けただろうか。何もない場所では時間の流れも掴めない。前に頸創が言っていたことを思い出す。人間は感覚を遮断されると狂うのだ、と。
カツンカツンという硬い足音が、ピシャリ、という水音に変わる。
「水?」
途端、霧が晴れた。水位の浅い湖がどこまでも広がっていた。遠くには小島らしいものがある。
「よく来たな」
上から重々しい声がした。
「俺はブルガ。三巨頭が一。だが、俺と闘う前に一つ、腕試しをさせてもらう」
湖からハイゼが現れる。影のような鎧、臙脂色の光を放つ揺らめく顔面。黒い長剣。
「ハイゼは無限に現れる。三十分耐えられたら、相手をしてやろう」
高慢な物言いだ、と反感を抱くのも束の間、黒い兵士が襲い掛かってきた。単純な剣筋の一撃を弾き返し、首を落とす。
「これでカミハテを殺せると思わないことだ」
「さて、どうかな。消耗した貴様らならわからんぞ」
ハイゼの攻撃は止まることを知らない。一体を倒せば二体、二体を倒せば四体と、数は無尽蔵に増えていく。さしもの春香も、息が上がってきた。あれだけ戦ったのだ、既に限界は近い。
無意識的に、春香は下段に構えていた。隙だらけの攻撃を避けて、的確に喉笛を裂く。脚を斬り払い、仰向けに倒れたところで額を刺す。単調な時間だった。
カガリも既に龍葬を維持する限界に達していた。炎の玉は輝きを失っている。
「カガリ、大丈夫か」
「お兄様こそ。疲れが見えていますよ」
二人は背中を合わせる。それを取り囲む、影の戦士たち。相手が敵である以上弱音は言えなかったが、春香は失敗を悟っていた。
「まずい、かもな」
そんなことも呟いてしまった。
「お兄様は休んでください。私だけで……」
「冗談を言うな。俺はまだやれる」
そうは雖も、敵の数が多すぎることに変わりはない。一体を突き倒し、喉を掻っ捌いたところで、背後から組み付かれた。
(抜かった──)
死の一文字が、脳裏を駆け抜ける。しかし、それは来なかった。代わりに、一本の太い矢がハイゼの頭を貫いた。
「遅れました」
凪彩だ。
「龍の血、よく効きました。腕も脚も、動くようになりましたよ」
彼女は翼を生み出し、龍のそれへと変えた腕でハイゼを薙ぎ倒していく。それを受けて精神を立て直した春香も、果敢に戦う。そして。
「時間だ」
天井から声がした。
「扉を開けてやる」
虚空に四角い光が現れたと思えば、それは扉となり、開く。
「行こう」
踏み込んだ部屋は、あまりに広かった。高い天井、遠い壁。しかし、開放感よりも圧迫感を生み出していた。それは、全てが黒いからだろう。一部には銀の装飾が為されているものの、黒曜石に圧し潰されそうになっているような錯覚を与えてくる。
「俺自身が戦うのは久しぶりだ」
当のブルガは部屋の奥で血に濡れたように赤い斧を研いでいた。巨大な戦斧だ。背丈六尺の彼と並ぶほど。
彼は徐に立ち、斧を床にぶつけた。異常に大きな、深紅の左目。その周りには金色の鱗が生えている。右目は紺鼠。
(全属性への適性……)
春香は相手の手の内を想像しながら正眼に構える。
「だが、俺だけではない」
ブルガが指を鳴らすと、その隣に鼈甲色の瞳をした、戦鎚を握る青年が現れた。
「よう、カミハテ。それと龍擬き」
現れた男は狂ったような笑顔を浮かべていた。
「ジャカ……!」
凪彩が呟いた。
「ブルガ様、龍擬きは俺が抑えます。カミハテを」
「手早く済ませろ」
「御意」
ジャカは槌を振るって、凪彩の方に向かう。彼女もまた、龍の腕でそれを受け止めた。
「さて、俺は二人を相手することになるのか。気楽にはなれんな」
ゆっくりと歩み寄ってくるブルガに対し、春香は猛烈な威圧感を覚えていた。肌を刺すような殺気。足音もやけに重く聞こえる。今の自分で勝てるのか、という疑問すら湧いた。
(やるしかない)
そうやって苦し紛れの鼓舞をするしかなかった。
「さあ、行くぞ!」
鈍重そうに見えたブルガは、しかし、一瞬で距離を詰めてきた。上から下へ、薪を割るような勢いで振られる斧。春香は横に跳ぶも、今しがた去ったその場所が大きく割れたのを見て、唾を飲んだ。
「そらうが──」
「甘い!」
導術を放とうとした、春香の左手。ブルガはそれを握り、投げ飛ばした。宙に踊る肉体に、縦の回し蹴り。
受け身は間に合ったが、まるで龍を相手にしているような重すぎる一撃は、春香に常に死を意識させる。とにかく走りながら、隙を見出すしかなかった。
だが、ブルガは速い。カミハテの鳴崩とはいかなくとも、油断すればあっという間に近づかれて終わりだ。春香は最高速度を維持しながらの移動を余儀なくされた。
つまり、それだけ体力を消耗するということ。速戦即決といくしかない。
壁を蹴って、仕掛ける。左手に龍、右手に刀。どちらを使うか、彼自身決めていなかった。ただ、直感に従うだけだ。
結果から言って、それは間違いだった。空穿を拳に纏わせた一撃は、何の傷も与えられなかった。ただ、服の腹の部分を破り、その下にある金色の鱗を露にしただけだ。
「金縋龍の鱗⁉」
「察しがいいな。そうだ、俺は金縋龍の左目を移植されたことで、その鱗を展開できるようになった。導術は効かんぞ」
「……ならば、斬るまで」
その間に、カガリが追いついた。背中から斧槍を振りかぶって、一発。繰り出すも、外れ。雷を纏った高速運動で、ブルガは背後の敵を蹴り飛ばした。
(今!)
意識が逸れた刹那を狙って、春香は突く。それも見抜かれていた。首を狙った両刃の刀は空を裂き、彼もまた、蹴りを食らった。
「下らん者の血をこの斧に吸わせたくはない。もっと全力で掛かってこい」
春香は蹌踉としながら息を吸う。それでも睨む。睨み続ける。目を逸らせば、負けだ。
「雷業、貴様はクィオウの婚約者だったそうだな」
「……だから何だ」
「あの女のどこに惚れた?」
「お前とは、そんなことを語る仲ではない」
「ただの世間知らずの坊ちゃんだと思ったが、そういう考え方ができるのだな。そうかそうか、死に際に訊いてやる」
彼は後ろに跳ぶ。それを追う、ブルガ。
「彗……霆!」
ありったけの力を込めて、春香は彗星を放った。
「効かんと言ったろう!」
やはり、鱗は術を通さない。だが、彗霆とは、質量を持った雷。その衝撃はブルガを反対側の壁まで弾き飛ばした。
壁に足が触れた時、春香は加速する。このまま勝負を決めるつもりだった。顔の横に、寝かせた刀を保持。額に突き刺さった。
然るに、ブルガは動いた。斧を一閃、刀を弾き飛ばす。傷はみるみるうちに治っていく。肉体の治癒力を龍のそれにまで引き上げる、水の纏だ。
「握力が落ちていたなあ!」
天井に突き刺さった得物を見上げながら、春香はまずはとにかく相手との間に距離を置いた。鳴崩を使えば一飛びだ。その間隙を与えてくれるかはわからないが。
「カガリ!」
呼ばれたカガリは、何をしていたのか。答えは簡単だ。龍の血を自身に注射していたのだ。カッと見開かれた黄金の瞳。消える火の玉、纏う炎。
「今行きます、お兄様!」
絶叫するような、喉を壊すような、そんな声だった。
纏術においては一般に、雷は一撃の速さ、炎は一撃の重さとされる。だが、その二つは不可分だ。速ければ重さは増し、重い一撃を繰り出そうとすれば相応の速さが必要になる。身体能力の純粋な強化である龍葬は、脚の筋力を増加させることで鳴崩に並ばずとも十分な速さを得られる。
その境地に、自分を無理やり捻じ込む。それを実現するのが、龍の血だった。
速さを得たカガリは、ブルガの左肘を、炎を纏った一発で切断する。そのまま斧槍を反転させ、首を直接狙う。が、斧が阻む。
その間、春香は刀を回収していた。落下しつつ、斬り下ろす。半身で躱したブルガの脚を、カガリが払おうとする。すると、相手はふわりと浮き上がる。宙返りして、着地した。
「風の纏か……!」
風と一体化し、鳴崩や龍葬といった瞬発力による跳躍ではなく、浮遊を実現する纏術。それが風の纏である。
「俺は全属性の纏術を使うことができる。どれかしか使えないカミハテとは格が違うんだ」
ブルガは勝ち誇った表情で落ちた左腕を拾い上げ、断面を合わせる。治るはずのそれは、治らなかった。
「……カガリ、と言ったか。貴様、俺の魂までも斬ったな」
生物は、生まれながらにその魂によってあるべき形が規定されている。水の纏は魂に肉体を合わせる術だ。だが、一時的に龍そのものの領域に足を踏み入れたカガリの斧槍は、意図せずとも、魂にも影響を及ぼす不死殺しの武器となっていたのだ。
「面白い。だが、長くは保たないと見た」
カガリの息は荒い。そして浅い。じっとりとした汗をかいている。
「カガリ、よくやった。それだけで十分だ」
そう言う春香の方も、余裕がある様子ではない。それでも、汗を拭って、立ち向かった。が、最初の行動は後退だった。
「逃げるつもりか!」
ブルガが追おうとしたその刹那、彼は床を蹴った。現状彼が出せる最高速度での、鳴崩。からの飛び蹴り。半長靴の硬い靴底が相手の腹にめり込んだ。飛んでいくブルガに彼は追いつき、喉を刺そうとする。だが、既の所で避けられた。
ブルガの背後から水が迸る。それは柔軟な槍のように曲がり、春香に向かった。逃げて、跳んで、避けて。やがて水は一本の剣となり、恥じらいもなく彼へと走り出した。
「空穿!」
術で相殺。転がるように着地し、また駆ける。斧と斬り合い、頬を掠める赤い刃を押し返す。相手が力んだところで脱力、つんのめった相手の胸を斬りつけた。
「フフ、雷業の剣術は流石だな」
癒えていく傷を見ながら、春香は思うように力を出力できていないことに歯がゆい思いをする。本調子であれば、刀に雷を纏わせ、疑似的に不死殺しとできたはずだ。だが、それが上手くいかない。
(全部出し切るつもりで当たるしかない)
広めに間合いを取り、呼吸を落ち着かせる。決着は、近い。