炎の鞭が振り抜かれると、無数の火球が飛び出し、一斉に春香を襲った。その直前に走り出していた彼は、追尾するそれらを壁にぶつけた。
「天声!」
空中から、春香は電撃を放つ。鞭が相殺し、光が部屋を満たす。
(視界が潰れた、今なら!)
爪先が床に触れた刹那、春香は前に進む。体の横に刀を構え、我武者羅に突進。やがて眼が慣れてきた頃、鞭が揺れるのを見た。飛来する炎の下を滑り、接近。刀を振り抜く──しかし、斬ったのは服だけ。
されども、それは止まる理由にはならない。逃げようとするイユに対し、彼は更に一歩踏み込み、脳天から叩き斬ろうとする。が、左の剣がそれを阻んだ、
「焦ってるんじゃない?」
不敵な笑みを浮かべたイユは、トットットッと退きながら言った。
「お前とてそうだろう」
一方で、春香はやはり正眼に構える。
その視線の先で、炎の鞭が揺れる。チラリ、カガリを一瞥。まだ動けない様子だった。
「あなたにとって、カガリは何?」
出し抜けにイユが問う。
「きょうだいであり、仲間だ」
「つまらない答えだね。そんなの、誰にだって言える。あなただけの一言はないの?」
「必要ない」
「ホント、つまらない男」
鞭が飛ぶ。パン、という空間を打つ音。猛速で来たるそれは、刀に絡みついた。
「これでオシマイね」
万力の如き握力も空しく、刀は奪われ、部屋の反対側まで飛んだ。徒手となった彼に向けて、イユは突撃を敢行した。二振りの剣。黒と紫。順手。跳躍からの、刺突。これで止め、と思考した彼女は、しかし、床に叩きつけられた。後頭部が石床へもろにぶつかり、イユは意識が飛びかける。剣が手から離れる。
「俺に柔術の心得がないと思っていたのか」
彼は馬乗りになり、右腕に雷の龍を作り出す。
「そちらこそ、詰めが甘いわよ」
カタカタと、主を失った剣が揺れる。異変を察知した春香が振り向く前に、それは浮き上がる。抜かったか、という思考より早く、紫の短剣が春香の左腕に突き刺さり、黒の短剣が右胸に刺さった。
奥歯を噛み締めて痛みに耐えた彼は、相手が意識を失っていることに気づく。ふらふらと立ち上がり、彼は、
「カガリ」
と短く呼んだ。
「抜いてくれ」
「はい、お兄様」
カガリの方も足元が覚束ない様子だ。それでも兄のところへ歩いて行って、剣を抜いた。どっと吹き出す血。
「龍の血をくれ」
「しかし──」
「無理矢理傷を治す必要がある」
「……わかりました」
カガリはスカートの中から注射器を取り出し、数滴を取り出して飲ませた。彼は、内側で何かが強く拍動するような感覚に襲われる。
「グッ……!」
傷口がざわつく。痛みは引き、呼吸に苦しさもない。
「最小限の量ですから、傷が治れば効果も消えます。無理はなさらないでください」
「わかっている……!」
苦しみが引いた彼は、カガリの肩に体重を預ける。暫し、その体勢のまま呼吸を繰り返し、やがて刀を拾いに行った。
「行こう。まだ止まるわけにはいかない」
◆
「さて、イェルラくん」
イェルラの執務室に入った東影は、尊大な態度で言った。ストーブから聞こえる、薪の割れる音。イェルラの背後に、押し黙ったまま降りしきる雪。
「どういうことかな?」
「その目、まさか──」
「そういうのはいいんだ」
イェルラは、その金で飾り立てられた椅子には似合わない、ちっぽけな壮年男性だった。銀色の髪に薄い黒の瞳。顔には深い皴。どこか怯えているような顔つき。黒檀の机に、体重を預けていた。
「どうして龍仕人の指示にないことをしたのかな? せっかく龍と人を融合させる方法を教えてあげたのに」
「もし、もしクィオウが雷業と結ばれれば、世論は東部都市連合との同盟に傾く。こうするしかなかった」
「そこじゃない。北方十二将をそのまま組織したことだ。三巨頭までは許したけど、十二人はやりすぎだよ」
東影は至ってにこやかだ。
「元々、十二将はヴォウが独立路線を貫くために組織したものだ。つまり、龍仕人に対する離反を意味する。君が権力に執着するのは分かるけど、立ち回りが良くなかったね」
イェルラは冷汗をかきながら相手を睨んでいた。
「まあ、それも終わりだ。北方十二将は皆殺しにされる。今頃、ロイとイユが死んでるんじゃないかな」
「だが、ブルガまでは殺せない。疲労した状態で勝てるほど、弱い人間を選んだつもりはない」
「だといいね。でも、雷業は強い。恐らく、二つのカミハテの力を同時に宿している。十五分も保たないかもしれないね」
「……何が望みだ」
「絶対的な忠誠。二度と十二将のようなものを組織しないと誓ってほしい」
「何を差し出せばいい」
「必要ないよ。兆候を見出した時点で君を殺す。キカくん、だったかな? 息子によく言い聞かせることだ、命が惜しければ、そして、ヘヴノヴールを守りたいならば、忠実であれ、とね」
東影は顎を引き、上目遣い気味に相手を睨めつける。
「そして、もう一つ」
人差し指が立てられる。
「龍仕人は、ヘヴノヴールを直轄地にすることも検討している。バズを再び支配下にするための足掛かりにするつもりだ。悪くない話だとは思わないかい?」
イェルラは無言のまま、手を机の引き出しに伸ばす。
「快い返事を待っているよ」
東影は、やはり笑ったまま踵を返す。それを確認したイェルラは、素早く回転式拳銃を取り出し、引鉄を引いた。飛散する血液。
「残念だよ」
頭を撃ち抜かれたはずの彼が、軽蔑するような目をして言う。
「やはり、レルガ様──」
「さて、どうだろうね」
あっという間に傷口は塞がり、レルガと呼ばれた彼はその張り付いたような表情を崩さないまま振り向いた。
「殺しはしない。この街がなくなるのは忍びないからね。でも、忘れないことだ。君の命は、一息で消せる」
イェルラの腕が下がる。
「……クィオウは、いかがいたしましょう」
「好きにさせればいい。カミハテでもないからね、雷業の子を孕んだところで大したものは生まれないよ」
瞳を震わせる現領主は、拳銃を仕舞う。クィオウを解放してもいいのかもしれないが、根負けすることは彼の自尊心が許さなかった。
「十二将が全滅したら、セチアからいい狩人を紹介しようか? 龍が多い地域ではないけれど、備えは必要だろう」
「龍なら私が狩ります」
「厚意は受け取るものだよ」
その言葉に含まれた、宸意。監視役が入り込む余地を作れ、と言っているのだ。
「……それでは、ぜひお願いいたします」
屈辱。イェルラは俯いた。
「君の弟のような愚行は避けるように。面白かったねえ、子供に殺されるとは思わなんだ」
「ハハ……」
取り繕おうとして笑えば、レルガの顔に影がかかる。
「忠告をしているんだけど」
「も、申し訳ございません」
深々と頭を下げた彼を、レルガは蔑視した。
「クィオウを解放して、ここにおびき寄せるというのはどうだろう」
「私は三巨頭を信じております。彼奴がどれほど強かろうと、狩人三人と連続して戦えば、必ずや疲弊して隙を見せます」
「その言葉に賭けるとするかな。僕も正体をあまり明かしたくはないし」
レルガは再び身を翻し、ドアノブに手を掛ける。
「雷業はうまく処理してくれよ。それじゃ」
パタン、と出て行った彼を見送り、イェルラは深い溜息を吐いた。
(終わった)
静かに思う。これから、ヘヴノヴールは龍仕人の傀儡になる。迂闊な動きを見せれば、“処理”されるに違いない。
(皆、どうか生きてくれ……)
その願い虚しく、既に死体は生まれていた。
◆
リズら一行が屋敷に帰り着いた時、日は少し高いところまで上がっていた。夏目の腕には、膨らんだ買い物袋がある。ケーキは燈火が持っていた。
「只今帰りました」
玄関の吹き抜けの上には、春成の姿。それに向けて、燈火が言った。
「大事ないか」
手摺から身を乗り出して、彼が問う。
「ええ、至って平穏でした」
「それならいい」
それだけ言って、引っ込もうとする。
「お父様!」
緊張した面持ちで夏目が声を上げる。
「一緒に、お茶しませんか」
「……悪くないな」
パアッ、と彼女の表情は明るくなる。それを見たリズは、春成という人間が息子とは違うものだと思った。春香は素直な人間だ。嘘を吐けない、とも言える。だが、春成は自分の感情というものをひた隠しにしようとする。そこから漏れ出たものを感じ取るしかない。
リズの観測が間違っていなければ、春成は僅かに口角を上げていた。この人も人間なのだ、と安心した。
「奥の部屋に来い。待っている」
春成の羽織の裾が揺れて、去っていく。
「リズちゃんも来てよ。友達なんだからさ」
「……うん!」
友達。恩や義理や忠誠といったものとは違う、心からの対等。リズにとってそれは、初めてのものだった。
雷業家が借りているこの屋敷は、バズを治めるサメルダムールル家がかつて使っていた古いものだ。そのため、豪華でありつつも所々金箔が剥げている箇所がある。
二階の奥には、ティータイムで使われていた部屋がある。日常的な食事とは違う、間食のための部屋だ。
そこは質素な作りになっていて、廊下を埋め尽くすようだった黄金はなく、壁紙も白一色だ。椅子も高価なものではなく、クッションのない、安っぽいそれが使われていた。
白い机の周りに、使用人がそんな椅子を並べていく。別の使用人が術符で用意したティーポットを持ってくる。荷物を置いてきた夏目が席に着くと、苺のジャムがその前に置かれた。
「ジャム?」
リズは、夏目の隣でそう尋ねた。
「うん、ジャム。舐めながらお茶を飲むんだよ」
夏目はジャムをスプーンで一掬いすると口に入れ、紅茶を飲んだ。
「こんな感じ」
燈火もやってきて、使用人の灰色の髪をした女にケーキの入った箱を渡す。彼女は黄色いケーキを四切れ取り出し、綺麗な皿に載せ、それぞれの前に置いた。
「それでは、お楽しみくださいませ」
使用人一同は頭を下げて部屋を出る。
「いただきまーす!」
夏目は元気よく言って、ケーキを一口食べた。
「ねね、お姉様って呼んだ方がいい?」
その前触れのない問いかけに、リズは困惑の表情を浮かべた。
「なんで?」
「だって、お兄様と結婚するんでしょ?」
「決まったわけじゃ……」
苦笑いで流しながら、春成の方を見る。気迫のある険しい顔をしていた。
「リズちゃんなら、お兄様あげてもいいと思ってるよ」
「……クィオウさんは?」
「亡くなったって聞いたけど」
春成がわざと音を立ててカップを皿に置いた。
「ごめんなさい、変な質問だったね」
きょとんとした夏目に、リズは一抹の申し訳なさを抱く。この子もそうなのだ、知らされないで生きてきたのだ、と。
穏やかな雰囲気とは裏腹に、彼女は静かに春成の様子を窺っていた。何故自分が死ななければならないのか、問おうとして問えないでいた。より正確に言えば、それを知って春香の隣にいられなくなるのではないか、という懸念があった。
「お兄様のどこが好きなの?」
「真っ直ぐなところ。前にね、名前の由来を聞いたの。春成さんの春と、香車の香。名前がぴったりな人だと思う」
「わ~……」
感心したような、綺麗な金色の目を向けられて、彼女は少し参った。
「でも、まだ言えてないの。いつも助けてもらってるけど、私が釣り合う人なのかな、って」
「大丈夫。リズちゃんはお兄様を幸せにできるよ」
リズは幸せというものの実体を、未だ捕捉できないでいる。一緒に菓子を食べ、一緒に写真を撮り、そういうものが幸せなのだろうか、と断言できないままここまで来た。
「夏目、深入りするなと言っただろう」
「でも、家族になるのですよ?」
「ならん。クィオウが生きているとわかったからな、春香にはクィオウと結婚させる。無論、側室だが」
「……そんなこと、していいんでしょうか」
ぽつりと言った夏目に、春成は強い視線を向ける。
「狩人は強い子を育てなければならん。風張の女を正室に宛がうこととする」
「でも、リズちゃんはお兄様のことが好きなんですよ」
「これは春香にも言ったことだが、狩人は役割のために存在する。個人の幸福のためではない」
「でも、好きでもない人と結婚して、それで子供ができなかったら本末転倒じゃないですか」
「愛や恋などというものは、頭を曇らせる。狩人には無用だ」
「じゃあ、お父様は、お母様のことはどう思っているのですか」
「強い子を産ませるための袋だ」
リズは耐え切れなくなって、机を叩いて立ち上がった。
「そんなの、ひどすぎますよ」
怒りと悲しみに震える蒼玉の瞳で、彼女は春成に非難の視線を送る。
「怖いんじゃないですか」
「何がだ」
「守れないことが、です。龍の力を失って、誰かを守る力を失って、それで、本当は大好きな家族を失ってしまうことが」
「大好き? 甘えた感情だな。鷹眼も春香も、レルガによる東部侵攻を食い止めるための道具に過ぎん。害を成すなら斬り捨てるまでだ」
「本当に、貴方は春香さんを殺せますか」
「それは実力の話か? 感情の話か? 前者ならわからんが、後者については断言できるぞ」
「嘘です。それは貴方なりの強がりです」
「春香が帰ってくる前に殺してもいいのだぞ」
「本当に家族を愛していないなら、夏目ちゃんがお茶に誘った時、笑ったりしません。喜んだりしません。心のどこかでは、家族を想っているんです。ただ、それを認められないだけ」
「……部外者が好き勝手なことを言うな」
「夏目ちゃんから聞きました。昔はよく笑う人だったと。何が、貴方をそうさせるんですか」
春成は暫く黙りこくっていた。緊張した空気が流れる。誰も、何も、言葉を発せられない。彼が質問に答えることしか、その場を動かすことはできなかいように思えた。だが、燈火が口を開いた。
「リズちゃんなら知っているかもしれない。群龍の惨劇。北にある村が、二十頭の龍に襲われた、災害。それを鎮めたのは夫なの。たった一人で群れを殲滅して、生き残った子供──鷹眼を弟子にして、それで……龍の力だけを失う呪いを、群れを操っていたレルガにかけられた」
春成は何かを言いたそうだったが、燈火を止められなかった。
「それから、夫は自分に代わる強い狩人を育てることに執着し始めた。でも、それで根底にある愛情が消えたわけじゃない。結婚を申し込むときは、私のことを愛していると言ってくれた。あなた、それは今も変わらないでしょう?」
「……」
「そうね、あなたはいつもそう。だけど、クィオウを殺さなかった春香に、何の罰も与えなかった。それは、あなたがどこかで春香の行動に納得していたから。例え父の命令であっても、愛する人を守るために背く。そんな感情を否定できない、人間らしさがあったから」
「やめろ」
「素直になって。春香はリズちゃんを守れるわ」
「やめろ!」
春成の手からカップが滑り落ちる。
「夏目、リズちゃんはね、龍仕人が作り出した、真なる不死と呼ばれる存在なの」
「どういうことですか」
「群龍の惨劇で亡くなった二百人の魂を生贄として得られた、魂を破壊しない限り決して死なない存在。それが、リズ・ユヤデオナ」
「え……」
唐突に明かされた、自分の出生。リズは、二年前春香に頼んだことを思い出す。自分が生贄の上に成り立っているならば、殺してくれ、と。
「だから、夫はリズちゃんを許せない」
「そうだ、俺はリズが憎い。わかるか、龍に全身を焼かれて、苦しみ悶えながら死んでいく者を目にする気持ちが。そんなものが生み出した命を、俺は肯定しない」
「でも、あなた、どんな命も産まれたなら祝福されるべきよ。産んだ人間の罪を転嫁させるべきではないわ」
歯軋りをする春成の姿が、リズの目には故郷を喪った春香のように映った。
「あの時死んでいった者たちに、俺は報いなければならない。二度と同じ過ちが繰り返されないように、強い狩人を育てなければならない。力を失った俺の、代わりに」
そこで、彼女は春香がなぜ苦しんでいたのかを理解した。こういう親の気質を、そのまま受け継いでしまったのだ。
「リズちゃん、春香のこと、好き?」
「はい」
「そう。なら、私は春香との結婚を支持するわ。あなたは?」
「……考える時間をくれ」
春成は拳を痙攣させながら出ていく。
「すみません、空気を悪くしてしまって」
リズは謝りながら部屋を後にしようとする。
「いいのよ。どこかで向き合う必要のあったことだわ。それに、ケーキが余ってしまったわ」
「そ、そうですね」
ぎこちない笑顔で返しながら、彼女は席に戻る。
(春香さん、無事なのかな)
はちみつの甘み。
(ううん、きっと何事もなかったみたいに帰ってくる。だから、私は待っていればいい)
雪は、まだ止まない。