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イユ、そして幻想

 階段の終わりが見えない。幾ら上っても、上があり続ける。乾燥した冷たい空気が頬を斬りつける中、冷えた石壁に触れる春香。


「お兄様、何かおかしいですよ」

「そうだな……」


 春香とカガリは一旦立ち止まった。腰を下ろす。


「空間術、でしょうか」

「そうだろうな。どこかで入口と出口を繋げているんだろう」

「問題はどう突破するか、ですね」

「ああ。だが、見当もつかん」


 カガリがやおら炎を纏って、斧槍で壁を殴る。砕けて外が見えたのも一瞬。すぐさま修復された。


「まずはループの繋ぎ目を見つけましょう」

「そのためにはまた歩かなければならない、か。無駄な体力を使わせる作戦だろうか」

「嫌らしい敵ですね」


 一歩一歩、慎重に歩む。


「目印を残しておこう」


 春香は刀を抜き、壁に十文字の傷をつけた。これから先のことを考えて嫌な気分になりながら、彼は再び進んだ。


 そこから、十五分。その傷が見えた。


「収穫はなし、か」

「壁を伝って歩くのはどうでしょう」

「そうしてみよう。カガリは反対側を頼む」

「仰せのままに」


 彼は壁にトン、と指を当てる。凍り付きそうだ。それでも離さない。僅かな違和感でさえも感じ取る必要があるからだ。


 それをツーッと滑らせながら、静かに上る。そのまま、何周か巡った。五、六ほどだろうか。そこでようやく、彼は一瞬だけ壁の感覚が途切れる場所があることに気づいた。


「ここだ」

「え?」

「ここに繋ぎ目がある」

「なら、どうしますか」

「導術を撃ってみるか……少し離れてくれ」


 感覚がなかった場所を注視する。すると、石の並びがずれているとわかった。


「空穿!」


 雷の龍が壁を食らう。また元の木阿弥──とはいかなかった。桃色を基調とした豪奢な部屋が見えたのだ。


「来た来た」


 その奥にある金で縁取られた椅子に、山葵色の瞳を持った少女が座っている。煌々と輝くガス灯に照らされて、ニッタリと粘度のある笑みを浮かべていた。


「私はイユ。三巨頭が一」


 彼女は椅子から飛び降り、太腿のホルスターからナイフを抜いた。その隣には、跪く柳色の目をした女性がいた。


「こっちはキバン。カガリを任せたよ」

「御意……」


 キバンはゆっくりと立ち上がり、指を鳴らす。すると、明かりの位置が変わる。光はカガリの背後に回り、長い影を生み出した。何をするのか。その意図を量りかねていたカガリは、一瞬の内に距離を詰められた。


 バックステップ──間に合う。彼女は一本の短剣を握り締めていた。それを振り回し、カガリを追い詰める。


「カガリ!」

「お兄様はイユを!」

「あいわかった!」


 春香は真っ直ぐに敵に向かう。


「正面から!」


 イユが左の手袋を捨てる。そこには紫色の水晶。春香がそれを何であるか推測するより早く、光が放たれた。


 気づけば、春香は故郷にいた。青い空を飛ぶ小鳥の声。笑いながら歩く民。


「よっ、何してんだ?」


 肩を組まれた。鷹眼だ。

「兄上」

「師匠が探してたぜ」

「父上が?」


 その時、時間が止まったように全てが停止した。が、すぐに動き出した。


(そうだ、俺は修行を抜け出して、街に出たんだ)


 シナリオを読むように彼は納得した。


「ああ、すぐ帰る」


 並んで歩いた。


「やっぱお前はすげえよ」


 鷹眼がだしぬけに言う。


「カミハテの力を持ってるしよ、何より美人な嫁さんがいる」

「嫁……?」


 また全てが停止した。それでも、同じように動き出す。


「ああ、そうだな。クィオウが待っている」


 サアッ、と爽やかな風が駆け抜けた。春の盛り。桜も咲いている。通りがかった者たちは、皆丁寧に会釈しながら過ぎていく。


 こういうことのために戦っているのだな、と春香は静かに感じていた。


 門が見えてくる。前庭に入ると前に毬が転がってきた。それを追いかける、夏目の姿。


「あ、お兄様! おかえりなさい!」


 まだ十代になったばかりの小さな妹。その頭をクシャリと撫でて、母屋に入った。


「春香」


 優しい笑顔で迎えたのは、クィオウだ。白い着物に身を包み、その甘い声を発していた。


「おかえり」

「ありがとう」


 春香はその手を取った。


「お義父さんが待ってるって」

「ああ、兄上から聞いた。だがまずは──」

「ご飯よね。行きましょ」


 奥座敷に入った彼は、父の隣に座った。


「春香、どこに行っていた」

「少々、視察に」

「そうか。修行に影響が出ない様にするのだぞ。お前ほどの才能、潰しては勿体ないからな」

「はい」


 今日の昼食は、塩鯖。手を合わせてから、食べ始めた。


「春香、今度、手合わせしてやろう」

「本当ですか」

「ああ。お前の成長が楽しみだ」


 父は書斎に引き籠っていたはず、という疑念は湧いてこなかった。積極的に修行に関与してくるのが自然なことのように思えた。


 反対側にいるクィオウと目が合った。


 食事を終え、自室に戻る。妻と手を繋いで。


「あなた、少し休んでからの方がいいわ」


 文机に向かう彼に、クィオウはそう声をかける。


「無駄にできる時間はない。俺は一刻も早く一人前にならなければ」

「そんなに焦ることはないわ。お義父さんだって、まだまだ現役じゃない」


 狩人は生涯現役。そんな言葉が降ってくる。


(そうだ、俺が急がなくとも父上がいるじゃないか)


 本を閉じた彼は、横になる。頭が、ちょうどクィオウの膝に乗った。


「使命感はわかるわ。みんなあなたに期待してる。でも、一番の親孝行は長生きすることだと思うわ」

「そうだな、そうだ……」


 目を閉じる。だが、頬に暖かい感触があって、開いた。


「まだ寝るには早いわ。お話しましょ」

「お話、か」

「何、私とじゃイヤ?」

「そんなことはない。君となら、一緒にいられるだけで嬉しいさ」


 クィオウに小突かれる。


(どうして、俺は……)


 この幸せを得られなかったのか。思考がそちらに傾いた瞬間、全てが止まった。


「あーあー、駄目じゃん」


 山葵色の目の少女がどこからともなく、火のないところに産まれた煙のように現れる。


「ちゃんと夢を見なきゃ。辛くて苦しい現実なんて忘れちゃってさ」


 春香の体は溶けたように動かない。


「ほら、帰ろうね。幸せな幻に」


 紫の水晶から放たれた光が彼に触れると、再び時間が流れ始めた。


「どうしたの?」


 怪訝そうな顔でクィオウが問う。


「いや……何でもない」


 とても悪い夢を見たような表情で彼は言った。


「君は、俺のどこに惚れてくれたんだ」

「先に惚れたのはそっちでしょ」


 返答に窮した彼は目を逸らした。


「真っ直ぐで、真面目なところ。好きよ、そこが」


 瞳のように赤い顔をしたまま、彼は起き上がって若妻に背を向けた。


「体を動かしてくる」

「そう。いってらっしゃい」


 庭に出て、蔵に入る。その壁にかけてある模擬刀を取る。


「熱心だな」


 背後からの声に驚いて振り向けば、父がいた。


「付き合ってやる。来い」


 春香は二振りの刀を抱えてその後を追った。屋敷を出て、山の中へ。


「この辺りでいいだろう」


 少し開けた、陽光の暖かい場所で止まった。

「好きに打ちこんで来い。一本取れたらお前の勝ちだ」

「行きますよ」


 地面を蹴り、相手に向かう。上段からの振り下ろしは相手の刀の上で滑り、反撃に蹴りを食らった。すぐさま姿勢を戻し、再び吶喊。


 一撃が、あまりにも遠い。どの角度から仕掛けても、春成は容易くそれを見切り、軽くいなしてしまう。


 だが、苦しかったわけではない。彼の顔には常に満足げな微笑があり、それが春香は嬉しかった。認められている。その実感を得られたからだ。


 本質的には、それはじゃれ合いであったのかもしれない。親子がその絆を再確認するための時間。故に、結果はあまり重要ではなかった。


 春香が一本取る頃には、日が暮れていた。だが、彼はその時間をこの上なく充実した気持ちで過ごした。父とこうして一緒にいられる。何故だか、たったそれだけのことが無上の幸せのように感じられた。


「よくやったな」


 春成は優しく彼の肩を叩いた。


「父上のお蔭です」

「お前に才能があるからだ。後は、鷹眼のように導術を扱えるようになれば、言うことはない」


 春香ははにかんで、頬を掻く。


「帰るぞ、皆が待っている」


 ふと、春香は、父がこうも温かっただろうか、と考えてしまった。すると止まる。


「あなたのパパは優しくて、あなたを認めてくれる。そうでしょ?」

「そうだ、父上は、俺と一緒にいてくれて……」


 動き出す世界。


「どうした?」

「いえ。何でもありません」


 一番星が、木々の間で輝いている。何故だか、春香はそれを掴みたくなった。星というのはどこにあるのだろうか。そんな思考もあった。


「お前はきっといい狩人になる」


 前を向いたまま、春成はそう口にした。


「だから生きろ。無駄にしていい命ではない」


 生きる、というものが途轍もなく巨大な影となって、春香に襲い来る。


(俺は、どこまで生きることができるんだ?)


 内心の問いは表に出さない。命を賭ける生き方しか知らない。逃げ出そうと思ったこともない。だが、死が実体を伴って迫ってきた時、本当にそう言えるのだろうか。


 裏門から屋敷に入る。


「帰ったぞ」


 父がそう言うと、使用人たちが集まって頭を下げた。


「おかえりなさい」


 座敷で待っていたのは、金髪と蒼玉の瞳。リズだ。


「二人の女の子の間で揺れてるんだね。煮え切らないのはよくないよ」


 掠れた声に耳元で囁かれる。


「でも、今は見たい幻想を見せてあげるよ」


 振り返っても、声の主はいない。


「どうしました?」


 リズの綺麗な目を見て、春香は何もなかったように振舞った。


「行こう」


 彼はリズの左手を握ろうとする。その時脳裏を貫いた、違和感。


(リズに左腕はないはずだ)


 そして止まる。


「夢の中でくらい理想を描こうよ」


 あの声。


「それとも、逃げ出さないことが贖罪だと思ってるのかな? やめなよ、つまらないことはさ」


 右手に温い感触。


「ほら、リズちゃんにキスでもしなよ。二年も一緒にいたんだから一回くらいヤってるでしょ?」


 両腕のあるリズを、彼は抱き締めた。あまりに生々しかった。知っているが故に、忌避したくなるほどの。


「どうしました?」

「……気にしないでくれ」


 幾らかの間、そうしていた。春の風に当てられて少し温まった体が、その熱を別の形に変えていくための、過程。それにはリズが必要だった。


「今夜、いいか」


 搾り出すように彼は囁きかけた。


「はい」


 その声にどのような感情があったのか、彼は推し量りきれない。だが、応えてくれたという、ただそれだけで十分だった。


 食事の間も、リズのことが気になって仕方なかった。襲い来る、猛烈なズレているという感覚。檸檬とかいう果物を使った牛肉料理も、その味を楽しめなかった。


 そのズレを修正する術を持たないまま、食事を終えた。手を引かれて、彼は脱衣所に入った。一人で服を脱ぐリズを見て、またも違和感。露になった白い素肌は奇麗だった。そして違和感。


「君に責任はないよ」


 掠れた声。


「だから、今はこの幸せを享受しなって」


 その言葉に従って、彼は風呂場へ。見慣れたはずのリズの裸は、嫌に魅力的に思える。何かがないからだ。その何かについて、彼は掴めない。


 少しぷっくりとした乳輪から可能な限り目を逸らしながら、春香はリズの体を洗おうとする。


「自分でできますよ」


 世界が停止する。


「……そうだったな」


 動き出す。彼女には不自由などなく、痛めつけられたこともない。そういう認識が刷り込まれる。


 リズが夫の手を掴み、頬に持っていく。


「どうした?」

「私、ずっと不安だったんです。春香さんが私を好きでいてくれるか、って。だから、一緒にいることを選んでくれて、嬉しいんです」


 自分に正直になり切れない春香は、何も言えなかった。


「春香さんにとって、私ってなんですか?」

「抽象的な質問だな……具体的な答えを出すのは難しいが、何より守りたい存在だ。本音を言えば、兄上とも話さないでほしい」


「それは無理ですよ」


 リズは笑っていた。


「わかっているさ」


 春香も笑い返した。そうだ、こういうことがしたかったのだ、と心を確認する。


 狭い風呂桶に二人で入る。春香の股の間にリズが入る格好だ。


「明日、お出かけしませんか?」

「そうだな、そうしよう」


 どこに行く、という情報は必要なかった。ただ、愛する者と共にいられるだけでよかった。そんな明日が待っていれば、艱難辛苦も乗り越えられる気持ちだった。


 ぼんやりと、高窓から夜空を見上げる。輝く星々は、死んでいるように冷たい光を投げかけてくる。火照った体に、それは心地よいものであった。


 ほぼ無意識的に、彼はリズの前に手を回していた。小さなこの体躯は、しかしそれに見合わない宿命を背負っている。


「そんなものはないよ」


 掠声。


「ほんと、あなたは現実主義者だね。夢の中でくらい、自分が狩人であることを忘れるべきなんじゃない?」


 山葵色の目をした声の主が停止した世界に現れて、春香の手を取り、リズの胸に触れさせた。


「積極的になりなよ。もしかして、この先が思いつかないのかな?」


 揶揄われる。途端、時間が流れ出した。


「きゃっ!」


 リズが声を上げる。


「す、すまない」

「もう……まだ早いですよ」


 赤らんだ顔は恥じらいか、それとも風呂場の熱か。


「子供の名前、考えませんか?」

「前にも話した気がするな。俺は香士郎という名前を出した」

「そうでしたっけ」

「ああ。俺としてもいい名前だと思うが」

「いいですね、コウシロウ。東風の名前って、私思いつかないんです」

「そういうものなのか?」

「やっぱり私の感性って、北部やフバンハのものでしかないですから」

「大陸共通語の名前でも悪くないと思うが」

「雷業に嫁いだからには、それに合う名前をあげたいんです」

「なら、応えよう。香を入れた名前か……」


 ぼんやりと頭を動かす。


香斗かと


 特に理由もなく、頭に浮かんだ文字列を出力した。


「不思議な響きですね」

「そうか?」

「ええ。本の知識でしかないですが、東方にはあまりなさそうな名前です」

「難しいな、名づけというのは」


 春香の胸板に、リズの頭が乗った。


「焦らずいきましょう」

「そうだな、時間はいくらでもある」


 そういう穏やかな雰囲気の中で湯に漬かってから、二人はそこを後にした。


 ギシギシと音を鳴らす床板の上を歩き、彼らは居室に戻った。使用人がくっつけた二つの布団。幾らかの気恥ずかしさを抱えながら、春香は片方の上に座った。隣に、リズ。腕を組み、頭を預けてくる。


「私、春香さんのこと好きですよ」


 呟くような、か細い声。


「俺もだ」


 春香は体勢を変えて、リズを押し倒す。すると、その髪色が金となった。墨色の瞳。と思えば、再びリズになる。


「どっちかとしかできないなら、どうする?」


 掠れた声。


「決められない?」


 喩えるなら、写真をパラパラと捲っていくよう。目の前の女は、そうやって姿を変え続ける。


「お兄様!」


 知っている声だ。


「目覚めてください!」

「カガリ……?」


 部屋が崩壊し始めた。


「そうだ、俺は、クィオウを救いに来たんだ」


 春香が立ち上がる。今いるのは、桃色の部屋。三巨頭が一、イユを殺さねば。

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