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ロイ

「お兄様!」


 カガリは川に飛び込もうとする。それを、凪彩が必死に抑えていた。


「いけません、あなたまで飲み込まれればどうなるか……!」

「お兄様はわたくしを救ってくれました。なら、わたくしはお兄様を救わねば!」

「成し遂げねばならないことがあるでしょう!」


 ついに彼女はカガリの頬を叩いた。


「何があったとしても、クィオウを解放することが我々の使命。共倒れを春香様は望んでいません」


 険しい表情を浮かべた彼女は、膝をついて俯くカガリの手を取る。


「進みましょう。ヨジドンド内部にいるのであれば、いつか会えます」


 不安に震える脚で、カガリは歩き出す。


「出口は、あるのですか?」

「これは東影から伝え聞いたものですが、屋上のみヨジヨンドではない、通常の空間に存在しているようです。つまり、そこから飛び降りれば脱出可能というわけです」

「一度入ったからには、最後まで行かねばならないと」

「そういうことです」


 二人の間にある空気は奇妙なものだった。片や春香を当面の主とし、片や鷹眼の下から救い出してくれた英雄とする。そこの隙間というのが、何故だか埋めがたいものであるように、二人には思えた。


「凪彩……様は父様の乳母なのですよね」

「ええ」

「おいくつなのですか?」

「さて……数えるのも億劫なほど年を重ねました。五百は超えるでしょう」

「そんなに……いつから雷業に仕えているのですか?」

「影行様の代からですね。もう何百年前になりますか……」

「何代前なのです」

「さあ。ですが、影行様は私を人にしてくれた方。その恩には、一生かけて雷業家を支えることで報いるつもりです」


 自分は兄への恩義に応えられているか、とカガリは考えてしまう。役に立ちたい。自分という存在の価値を確かめたい。そのために為すべきことは、何なのだろう。斧槍の柄を握り締める。


 少し歩いた。まだ小川。一足でそれを越えたところで、二人の背後からハイゼが現れる。その襲撃を、カガリは攻撃を受ける直前で感じ取った。振り向き様に斧槍を一閃。鎧ごと胴体を断ち切った。


「まともに相手をしていてはキリがありません。走り抜けましょう」


 凪彩が一体の頭を撃ち抜きながら言った。


「そうですね。一刻も早くお兄様と合流しなくては」


 二人は疾駆した。獣道を駆ける。目の前に現れるハイゼは一撃で仕留め、先へ。


 どれほど進んだろうか。カガリの呼吸は少しずつ弱っていた。


「どうされました?」


 ついに膝をついたその近くに、凪彩が寄った。


「あまりに、寒くて……」


 低体温症。寒さは容易く人を殺す。


「龍葬を使ってください。炎を纏えば楽になるはずです」


 カガリの周りに炎の球が現れる。本来なら龍葬として肉体を強化するはずの力が外に漏れたものだが、皮肉にもそれがその肉体を暖めていた。


「凪彩様は寒くないのですか」

「寒くはあります。ですが、服が肌に触れる感覚が嫌なのです。寒さ暑さに関しては、多少の我慢ができますからね、私にとってはあまり重大なことではありません」


 引き上げられたカガリは、再び歩を進める。


 木々の間に、白亜の壁が見える。窓にはステンドグラス。割れているものもある。そこから覗ける、紅玉の瞳。


「お兄様……!」


 カガリは走っていた。凪彩もそれを追う。強められた腕力が壁を砕く。そこには、氷の矢に囲まれた春香の姿が。


「チイッ……!」


 ロイは舌打ちしながら体を乱入者に向ける。そして、火を吐いた。カガリは高く跳躍して、上から斧槍を振り下ろす。一方で、凪彩は龍のそれとなった腕を振るって矢を一気に砕いてしまう。


「春香様、お怪我は」

「かすり傷だけだ」


 風車かざぐるまのように回転する斧槍が、ロイを少しずつ後退させる。


「そちらは任せた!」


 春香はそう言うと、クォラの方に向かった。大剣に幾度となく打ち込み、同じ雷を纏って逃げようとする敵を追いかける。降り注ぐ氷の矢は弾く。


「空穿!」


 そうやって放たれた雷の龍は幅広の刃に受け止められる。が、それで十分だった。防御のために視界を塞ぐ、その僅かな時間が必要だった。


(こんなに早く使いたくはありませんでしたが、仕方ない!)


 クォラは腕を広げる。訝りつつも、春香は前に行くしかなかった。しかし、突きの構えを取ったところで、体が急に重くなった。まるで床に縫い付けられたように動けない。


「……この剣は、所持者に重力を操る力を与えます」


 カツン、カツン、とクォラが彼に近づく。


「私への負荷も大きく、使いどころが難しい術です。しかし、貴方を殺すならこうするよりなかった……」


 大剣が、振り上げられる。こんなところでは死ねない──そう思っても、春香は何もできなかった。今、それが、来る、来る、来る。


 然るに、彼は死ななかった。翼を生やした凪彩が、クォラに蹴りを見舞ったのだ。その反動で僅かに上昇した彼女は、矢を射かける。大剣の防御が間に合った。


「裏切者が……!」

「元より仲間になった覚えはない!」


 言葉を交わした後、両者は見合った。


「春香様、クォラの剣が対象とできるのは一つのみ。二人で掛かれば勝てます」

「そうか。カガリには苦労をさせることになるな。手早く終わらせよう」


 重さから解放された春香は覚悟を燃やす眼差しで立ち上がり、刀を正眼に構えた。


「クィオウは、この頂上にいるのだな」

「……ええ。しかし貴方方がそこに辿り着くことはありません。今からでも引き返しませんか? 出口までお送りしますよ」

「俺は進む」

「残念です」


 春香が走り出す。真向斬りを仕掛ければ、重力。だが、意識が彼に向いている内に凪彩も動いていた。飛来する矢を重力で落としたクォラは、彼の斬撃を受け止めつつ、距離を置いた。


 彼は正面から敵に向かう。一文字をスライディングで避け、懐へ。起き上がり様に蹴りを顎に食らわせ、そのまま姿勢を転換。落下の勢いを乗せて斬りかかった。


「舐めて!」


 クォラは重力の反対──斥力を生み出し、彼を引き剥がす。


「何故死にたがるのです。あの女に執着せずとも、幸せは存在するというのに!」

「これは俺のケジメだ」

「あの日救えなかったから、ですか? そんな未練で誰かを救えるほど、この世界は甘くない!」

「……貴様は、手の届かないところで何より愛した者が消えたことはあるのか」

「感傷ほど下らないものはありませんよ」

「そうか。そうか。そうか!」


 春香は無詠唱で空穿を放つ。同時に、凪彩に視線を送る。


「一度見た技を!」


 大剣で防ごうとした、その一瞬。彼女は背後に回り、弓を引いていた。見え透いている──クォラは矢を重力で落とした。そして導術を防ぐ。次いで重力の対象を変え、凪彩の右腕と両脚を折る。剣を動かし、春香を見ようとするも、いない。


 どこに、という疑問への答えが出る前に、彼は脳天を刺された。


 ひらり、春香はクォラから降りる。頬についた血を拭う。


「カガリ!」


 血振りをした彼の足先は反転し、ロイに向かう。カガリがバックステップでその横に並んだ。


「やるね」


 そのロイの声は震えていた。


「報いは受けてもらうよ」


 彼は雷を纏い、春香に向かう。当然ながらそれは春香も同じことであり、狩人でさえまともに認識できない、高速戦闘が始まった。


 ロイの槍が空間を薙ぐ。後ろに跳んで躱した春香を、彼は蹴る。やたら広い部屋を飛行した春香は、壁に着。そのまま走り出した。雷の杭が飛ぶ中を駆け抜け、跳躍。打刀の一撃を、ロイは柄で受ける。


 石突が突き出されるも、春香はそれを刀で逸らす。反撃の、喉を狙った突きは外れ。


 そういう攻防が続いた。拮抗。攻めれば防がれ、防げば攻められる。無数の創傷が生まれる中で、双方打開の糸口を見つけられないでいた。


 ロイが大きく息を吸う。春香は警戒して腰を落とした。それは正解だった。口から吐き出される、炎。横っ飛びに動いた彼は、真横に回ってから前進した。


 炎がそれを追いかける。窓に触れれば硝子が蕩けて床に落ちる。


 刀の間合いに、春香は相手を捉える。横一文字に振り抜く──しかし、腕を掴まれ投げ飛ばされる。追撃の、杭。どうにか防御は追いついたが、着地と同時にロイが来る。


 そこまでの、須臾。凪彩が暴風を起こし、ロイの姿勢を崩す。視認できる時間を待っていたカガリがそこに飛び掛かり、斧で床を割る。


「やはり、三対一では分が悪いね」

「通してはくれないか」

「君たちを止めるのが僕の使命だ。それは聞けないね」

「……死んでもらう」


 再び、攻防。飛び交う雷。火花を散らす骨と骨。汗が落ちる。血も落ちる。


 ロイの背中が壁に触れる。だが、春香はそんな簡単な好機に釣られはしない。服の襟を掴もうとするだけだ。


 手が届いた刹那、ロイは歯を食いしばって頭突きを繰り出す。クラリ、春香は蹌踉とした。刀だけはしかと握っていた。


「雷業の名は伊達じゃないね。僕に追いつく敵は初めてだ」

「俺は殺し合いをしたいわけではない。クィオウを解放すればそれでいいんだ。だから、通してくれないか」

「同じことを二回言わせないでほしいな」

「何故そこまでイェルラに従う。クィオウ一人、いなくなったところでお前たちは損をしないはずだ」

「イェルラ様は僕に力をくれた。それに応えることこそが、僕のできる全てだ」

「その力を正しく使おうという気はないのか」

「正しく? 恩に報いることは正しいだろう?」

「……」


 頭から垂れる血を拭いて、春香は構え直す。


「イェルラ様は、価値があると判断した人間に龍の一部を移植している。裏の世界で生きるしかなかった僕が、こうして表の戦場に立っているのは、偏にイェルラ様のお蔭だ。君にはわからないだろうけどね」

「その目、わざわざ私兵とならざるとも狩人としてやっていけたはずだ」

「狩人、か。僕は守るものを失ったよ。弟と家督相続で揉めて、鏖にされた。家族も、村の人間も。それなら僕は生きる意味を与えてくれた人のために戦う。君だって、同じ境遇に立たされれば同じ選択をしたはずだ」

「だが、無辜の人間を幽閉したことで得られる権力など、正しくはないはずだ」

「それを決めるのは歴史家だよ。ユヤデオナのようなね」


 ロイの顔が、嘲笑に歪む。


「……よくわかった。お前はここで殺していくしかないようだな」

「それが最期の言葉になってもいいのかい?」


 返答はせず、春香は踏み込んだ。回転する槍が刃を弾く。攻勢に転じたロイは、彼の足元を斬り払った。彼は跳んでから、不安定な姿勢から刀を振り下ろす。その白刃は、上体を仰け反らせたロイの鼻先を引っ掻いた。


 正攻法では勝てない。春香は確信する。ならば、奇策に走る。深呼吸をした彼の隣に、カガリが立つ。


「俺に合わせろ」


 そう言って鞘を帯から外し、投げ上げる。何があるのか、とロイが視線を上に動かした時、カガリも動き出した。


 全力の炎を纏った、重い一撃。それが、槍ごとロイを斬り伏せた。落下する、右腕。


「これで終わりだな」

「……殺してくれ」

「戦えない者を殺す趣味はない」

「ハハハ……なら、これでどうかな!」


 ロイは左手から雷の杭を撃つ──出なかった。矢がその頭蓋を貫いたのだ。


「凪彩」


 名を呼ばれた彼女は、残る腕を龍のものに変え、矢を投げたのだった。


「私はここまでです」


 そう言葉を発して、床の上に伏す。

「凪彩さん、これを」

 カガリが龍の血を一本手渡す。

「貴方に効果があるかはわかりませんが、もしかしたら」

「感謝します。どうか、ご武運を」

「助かった。しかし、これからどうする」

「頃合いを見て塔を登ります」

「あいわかった。また会おう」


 部屋の奥にある扉を開き、二人は階段に脚をかけた。

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