極寒の空気が、純白の龍の背中に乗る春香とカガリに吹きかかる。外套を纏っているといはいえ、体は震えていた。
龍が重低音と共に着地する。二人が降りると、龍は見る見るうちに小さくなり、凪彩の姿になった。春香は黒い布を渡す。彼女はそれで隠すべきところを隠した。
「龍になれるとは、驚いた」
「そう長い時間は維持できませんよ。十五分が限界です」
着地点は、廃村。あばら家が雪の重みで今にも崩れそうだ。だが、一つ、まだ生活感を保った家がある。そこに三人は入った。
冷たい。しかし、風のない分外よりはましだった。凪彩は床にある重々しい鉄扉を開いた。
「ヘヴノヴールにある隠れ家に続いています。そこで
春香とカガリは頷いて、地下空間に足を入れる。地上よりは暖かい。
「クィオウのいる塔は、敵の待つ異空間、ヨジドンドによって守られています。現在クィオウの監視に就いているのは三巨頭……彼らに加えて、その腹心や、我々を妨害する者を全て打ち倒す必要がありますが……かなり激しい戦いになります」
「クィオウのためだ。覚悟ならできている」
「流石です」
短い返答だった。
「カガリ、龍の血はあるか」
先頭から二番目を歩きながら、春香が問うた。
「ありますが、どうされましたか?」
「お前が戦うなら、必要だろう。どれだけある」
「スカートの中に、注射器二本です。保って……半日でしょう」
「そうか。あまり時間はないな」
龍の血は、急速に呪いを進行させることで龍の再生能力さえも得ることができる。万が一の場合には、春香も使うつもりだった。
靴底が混凝土を叩く、カツカツという音が響く。
「北方十二将、あと八人はどうしている。横槍を入れてくる可能性はないのか」
「一枚岩ではない、というのが現状です。実を言うと、私もそこに名を連ねる者ではあります。しかし、私は間諜として春成様の下に潜り込む、という状況を活かしてこうして雷業一族に協力しています。他の七人も同じようなもの。皆、鷹眼と誓いを立てて真なる不死の恩恵に与ろう、というところでしょう。そして、イェルラに協力するのも鷹眼との関係性を維持するため。もし鷹眼がイェルラを裏切れば……十二将は崩壊します。鷹眼についていくのか、龍仕人の側につくのかは、わかりませんが」
長い言葉を聞き終わって、春香は暫し思案した。
「クィオウを監視しているという三人が離反することはないのか?」
「現実的ではありません。彼らはイェルラの腹心ですから」
「凪彩は真なる不死が欲しいのか?」
「いえ。私は元より人間ではありませんから」
「そうだな、忘れていた」
龍をその身に宿すのが、凪彩だ。その過去を春香は詮索しようとは思わない。ただ、人ならざる存在だということで十分だった。
彼女が如何ほど信用できるのか、という点において彼は確信的な答えを用意できていない。だが父と引き合わせてくれた。その事実が担保となる。ならば信じようとしてみるが、結局はクィオウの生存をこの目で見るまでは、全幅の信頼を、とはいかないのだった。
どれほど歩いたろう。日の見えない場所では時間の感覚が狂う。そんなことを思い始めた頃、凪彩が立ち止まった。
「ここです」
梯子に足をかけるところを見て、春香はようやく終わるのかと安堵した。持ち上げられた鉄扉から這い出る。かび臭い家だった。暖炉に炎はなく、閉じ切られたカーテンが光を遮っている。が、男がいた。黒い髪と明るい色の肌。目は青い。蒼玉とまではいかないが。
「東影です」
彼は春香に歩み寄って、握手した。腰には打刀と脇差がある。東の狩人か、と春香はそこで判断した。
「雷業春香だ」
「雷業様とご一緒できること、光栄に思います」
「俺はそんな大した人間じゃない。期待しないでくれ」
手を離して、春香は適当な椅子に腰かける。
「東影、何か作戦はあるのか?」
「色々と探りましたが、正面突破しかなさそうです。自分はイェルラの方に向かい、他の十二将の動きを牽制しますから、持ち堪えている間にクィオウ様を助け出してください」
「あいわかった。いつ出発する?」
「イェルラに怪しまれないよう、ある程度は情報を流しています」
凪彩が言った。
「動きは掴まれている、と思ってください。そうすると、いつ出ても大して変わらないでしょう」
「俺は……」
春香は正直な心情を吐露しかけて、やめた。
「会いたいのでしょう。わかります。しかし焦れば死にますよ」
「焦っているわけではないんだが……」
気が逸っている、のは事実だろうと彼は把握していた。だが全てを曝せるわけでもなかった。
「心配なのは、むしろリズの方だ。父上が約束を違えるとは思えないが、万が一俺がいない間に殺されたらと思うと……」
「承知しました。夜が明けたら乗り込みましょう」
◆
「やだ」
まだ少女の域を出ない銀髪の彼女は、手の爪を黒く塗りながら、掠れた声で無愛想に言った。その手の甲には、目のようなものがある。
「だって雷業だよ?」
彼女の服装は男のようだ。白いシャツに黒のベスト。隣の椅子の背凭れにはマフラーがかけてある。机の上には黒い手袋。目の色は山葵色。
「だとしても、やらねばならん」
そう言ったのは、ブルガ。厚手のコートを着ており、その襟元にはファーがある。大木のような腕を組んでおり、その真っ赤な左目は、紺鼠の右目に比さずとも、異常なほどに大きかった。
「イユ、爪もそれくらいにしろ」
イユ、というのは少女の名前だ。
「夜が明ければ雷業たちはヨジドンド(ここ)を攻めるだろう……だが、動きは掴んでいる。状況はこちらに有利だ」
ガス灯に照らされた円卓を囲むのは、三人。ブルガにイユに、ロイ。最後の一人は、紅の瞳を宿した引き締まった体に、暗赤色のコートを羽織っていた。
「果たしてそうかな」
彼は頬杖をついてそう言う。
「雷業は強いよ。ヴィアクインクが雷業の一族って説もある。ポテンシャルを引き出せるなら、一番恐ろしい一族だ」
「フン……怖気づいたか」
ブルガは嘲笑を浮かべる。
「何とでも言いなよ。戦場じゃ臆病なくらいがちょうどいいんだ」
その表情を変えないまま、ブルガは立ち上がる。そして、円卓に背を向けた。
「刃を研いでおけよ。我々に敗北は許されない」
二人になったイユとロイは、何も言わない。やがて彼女はネイルの時間を終え、席を立った。その際に手袋をした。
「寝る前に一つ聞いておきたいんだけどさ」
両腿のホルスターから黒と紫の短剣を抜いた彼女は、それを照明に翳した。
「真なる不死になったら何をするの?」
「一人で生きる。誰にも頼らず、守られず、だけど全てを救える力を得る。その時間が欲しい」
「つまんないの。自分のために生きたら? 死なないなら、もっと大胆なことができるわけだし」
「そういう君は何がしたいんだ」
「戦いたいだけ戦う」
イユは不敵な笑みを向ける。
「殺して、殺して、殺す。私がどれだけ強いのか、世界中の人間に見せてやるの」
「下らないな」
「力があるんだもの、使わなきゃ損だわ」
「下種が……」
「何、やる?」
「僕らは大義がある。ここで浪費していい命じゃない」
「冷静なんだ」
「君の戦い方はいつか自分を殺すよ」
「いいじゃない、私を殺すのが私っていうのは、ある種の芸術よ」
ロイは返事をしなかった。その意味を見出せなかったからだ。
「何、急に黙っちゃって」
「……クィオウ・ニーウ、どう見る」
「別に? 美人だけど、それで雷業を誑かして政治を握ろうってのは感じられない。野心がない人間はつまらないわ」
イユは短剣を高く投げ上げ、掴む。次いで、右の切っ先をロイに向けた。
「だから、あなたもつまらない。貪欲さがないのよ」
「何とでも言いなよ。僕は君より早死にするつもりはない」
フッ、とそれを鼻で笑って彼女は剣を納めた。
「雷業の首を取るのは僕だ」
「そう。なら手早く終わらせてね」
「君は名を揚げたくないのか」
「認められたいのはそうよ。でも、危険な橋は渡りたくない。それだけよ」
「イェルラ様が下さった力で、その恩義に報いようという気持ちもないのか?」
「感謝はしてるわ。だけど、真なる不死を手に入れる前に死にたくはないわ」
ロイの綺麗に整った顔が歪む。
「正直だな」
「嘘を吐く必要があって?」
彼は溜息を一つ吐き出してから、視線を窓の外に向けた。月光を雪が反射していた。
「まあ、いい。ヨジドンドの入り口をクォラの部屋に繋がるように設定しておく」
「へえ、自分は一番じゃないんだ」
「まずは実力を見る。危なくなれば手を貸すさ」
「その前に死んじゃったら?」
「クォラに限ってそんなことはないよ。僕は親友を信じる」
「そ。私はキバンと一緒に戦うとするかしらね」
イユがドアノブに手を掛ける。
「それじゃ」
暗い廊下に出た彼女は、階段を上っていく。
「イユ様」
ガス灯が揺らす影から、落ち着いた声が聞こえてきた。
「お休みになられるのでは」
「その前にクィオウを見ておかない? あの惨めな顔をさ」
「御意のままに……」
クィオウは、ヨジドンドによって通常の空間から断絶された塔の、その頂上にいる。現在の領主、イェルラの姪に当たる彼女がこうして幽閉されている理由を、イユは忘れていた。
基本的に、塔内部の空間は捻じ曲げられていると言っていい。西から入ってまっすぐ歩けば南に出るように。上下も同じだ。一階分上がったはずなのに、外から見れば十五
イユは扉の前に立つ。黒く、重たい扉だ。
「ノックノォ~ック」
ふざけた態度で戸を叩く。
「起きなさいよ~」
押戸が開かれた瞬間、彼女はクィオウに飛び掛かった。薄い絨毯の上に押し倒された銀髪の持ち主は、それを切り裂かれた。
髪の束を、イユは投げ捨てる。
「もう、やめて……」
クィオウの顔には痣がある。だが、美貌は損なわれていない。髪は乱雑に切られている。左側だけが執拗にカットされ、頭皮が見えている部分さえあるが、右側は長い。
「早く雷業を諦めなよ」
腕で顔を隠す彼女の顔の横に、イユは剣を突き立てる。
「私の女にしてあげるからさ」
空いた左手で、イユは彼女の秘部を触る。
「お願い、離れて」
興が冷めた彼女は立ち上がり、唾を吐きかける。
「ホントつまんない」
怯えるだけのクィオウを軽く蹴る。だが、龍の力を宿した一撃は、相手を嘔吐させるに至った。
「なんでイェルラはあんたを生かしてるんだろうね」
汚れた顔を見るためにしゃがみ込み、髪を引っ張って面を上げさせる。
「……私が折れて叔父様を肯定すれば、その権力が後ろ盾を得るから。簡単な話よ」
面白くない答えを聞いて、クィオウをビンタした。部屋を見渡す。茶色い絨毯、粗雑なベッド、汚れた机、破れたカーテン、隙間風が入ってくる窓。
「こんな部屋で死ぬのは嫌でしょ?」
「それでも、私は春香を愛してる。あの人は絶対に助けに来る」
「ハハ、信じてるんだ。そうだね、いいことを聞かせてあげる。雷業が来たよ」
疲れた墨色の瞳がイユを見上げる。
「ま、ここで死ぬけどね。首には合わせてあげるよ」
「死なない。私も、春香も」
「だといいね」
彼女は部屋を後にして、乱暴に扉を閉じた。
「お静かに」
影から声がする。
「いいじゃない。あんな女、眠れずに死んでしまえばいいのよ」
階段に腰掛ける。
「キバン、出てきなよ」
伸びる影から、ニュルリと、柳色の目をした女が現れる。まだ若いが、イユと比べれば大人だった。イユの腹心、キバンだ。
「多分、ロイは敗けるね」
「何故ですか」
「欲のない人間は生き残れないから」
「戦場では臆病なくらいがちょうどいいと聞きます」
「それは嘘。むしろ積極的にならないと、武運は掴めない」
イユは右腕の唇に接吻する。舌をねじ込み、暫く。水音が寂静に満たされた空間に響く。満足した彼女は自ら唇を離す。
「じゃ、おやすみ」