新雪に覆われた山中を、駆ける男の姿があった。喪服のような黒い羽織に、紅い鞘の刀。彼は素早くそれを抜き、同じ黒衣の男に斬りかかった。真っ白な雪の上に、鮮血が広がる。
「これで、二十八人目……」
男の名は雷業春香。鷹眼との戦いから二年と幾らかの月日を経て、彼の顔から子供らしさは抜けていた。その隣に、緑の羽織を着た男が着地する。
「頸創」
春香はその名を呼んだ。
「龍仕人も必死だな。最近襲撃の頻度が増してる」
「よく手駒が尽きないものだ。それほどツンゾは数が多いのだろうか」
「大陸には腐るほどいる。殺しても殺しても減らねえよ」
「嫌な話だ」
春香は刀を納め、死体に背を向けた。
「帰ろう。リズが待っている」
日はかなり傾いている。夕食までに帰り着けるだろうか、という心配を彼は抱いていた。
狩人の脚で走り出した。
到着した時には、一番星が輝いていた。
「帰ったぞ」
春香は玄関から上がるとそう言った。
「お帰りなさいませ」
頬に傷のある佳代子が、素早く出てきて頭を下げた。
「今日の飯は?」
頸創が問う。
「鯖の味噌煮でございます」
「お、いいねえ。最近は佳代子も料理上手くなったもんな、期待してるぜ」
血の染み込んだ羽織を渡し、奥座敷へ。代わりに丹前を受け取った。
「お~寒い寒い」
頸創はそう言いながら座った。既に膳は並べられ、後は食べるだけといった様子だ。老婆もリズもやってきて、食事が始まった。
「春香さん、今度、本屋さんに行きたいんです」
リズだ。
「あいわかった。後で詳しい日時を話そう」
食事中にあまり会話はない。口に物を入れて話さないという暗黙の了解の上に成り立っているからだ。食器の擦れる音ばかりがあった。
春香にとって、この時間は大切なものだった。自分に向き合うことも、誰かを苦しめることもない。そういう時間。暖かい味噌汁を飲むと、ぼうっとした温度が広がる。
「いつもありがとう」
彼は自然とそう口にしていた。
「は、はい」
食事が終われば、風呂だ。
「春香さん」
部屋で瞑想をしていた彼に、リズが話しかける。
「ああ、そうだな」
連れ立って風呂に入る。右腕の届かない場所を洗う役目は彼のものだった。傷だらけの肉体を見せるのが怖い、というのが彼女の心情だった。同じ女である佳代子でも、人生経験を積んだ老婆でも、それは変わらない。文字通り裸の付き合いとなった彼は、時折リズを抱きしめる。その度に、彼女は優しく微笑むのだった。
同じ風呂桶に入る。春香はいつも彼女に背を向けていた。見られたくないものが、男にはある。
その背中に、リズは張り付いた。よくあることだ。しかし、少し成長した体は、深刻な影響を彼に与える。
「今日も、ツンゾが来たんですよね」
「ああ」
「すみません、私のせいで、また命を危険に晒してしまいました」
「俺が決めたことだ。君を、誰にも渡したくない」
「フフ、そういう言い方をされると少し恥ずかしいです」
小さな右手が彼の腹を這う。
「でも、本当に感謝しています。春香さんがいなければ、私は……」
生贄。重く伸し掛かる二文字。何のためにリズを守るのか。兄の裏切りにあった今、それは最早彼の自己満足でしかない。狩人であるという一点だけでは駄目だ、という天月の言葉を思い出した。
「鷹眼は、どうして真なる不死の力が欲しいのでしょう」
「呪いを克服できるとなれば、必死になる気持ちも理解できる。誰だって怖いものだ、いずれ獣となるというの」
「春香さんもそうなんですか?」
「──そうだな。俺とて呪いからは逃げられない。いつか捕まって……子に親殺しをさせることになる」
「子供の名前って、考えたことありますか?」
強引に話題を変えたのは、風呂場の湿気が苦しくなったからだ。
「長男には自分の一文字を与える、というのが雷業家の伝統だ。俺の場合は春を父上から受け継いだから、香をくれてやることになるな」
「どんな字が合うんでしょう」
「コウシロウ、というのはどうだろう。香に、武士の士、太郎の郎だ」
「香士郎……いいんじゃないですか?」
「我ながらいい名前を思いついたかもしれない。覚えておこう」
誰との子なのか、という想像を彼は一瞬した。おそらく今の自分にとってその相手はリズだろう、という結論に至る。子の成し方は本で学んだ。それ以上の知識も経験もない。ただ、抱き合って寝ただけだ。
惚れた、のかもしれないと彼は思い始めていた。『疲れた』心に向き合ってくれた優しさに、だ。自嘲気味に自己観察を行う。簡単な男だな、と一言。
「そろそろ上がりましょうか」
「そうだな。そうしよう」
十七。大陸で使われる満年齢にすれば、十六歳。成人と認められる年齢だ。普通ならもうすぐ妻を迎える頃合いだが、今は普通ではない。
服を着るにも、リズは助けが必要だ。春香が着付けをしてやって、二人は並んで風呂場を出る。
「リズ、君さえよければ、という話なんだが──」
と言いかけたところで、
「ごめんくださーい」
という声がした。カガリのような、男とも女ともつかない声。春香は刀を持って玄関に向かった。
「こんな夜に、何用だ」
客人の短い髪は青。目は翠玉。見る限り、絶世の美女といったところだ。年齢は二十ほどだろうか。それはいい。だが、冬だというのに、ほぼ裸に近い格好だった。局部を黒い布で隠しているだけ。腹も、脚も、腕も、全てが月光の下に照らし出されていた。
「
そう名乗った彼女は、雪の積もった地面に跪いた。腰にはポーチと三尺の弓、大きな矢筒がある。その中には短槍と見紛うほど太い矢が入っていた。
「お前など知らない」
警戒心を剥き出しに春香は言った。
「……私は、春成様の乳母なのです」
「何?」
俄かには信じられない言葉だった。ここまでの美貌を保っていられるはずがない、と彼は否定したくなった。
「春成様は、生きておいでです」
「何?」
「未だ人であられます。そしてもう一つ」
顔を上げる。
「クィオウ・ニーウもまた、生きています」
「……嘘だ」
「真実です。しかし、今その自由が制限されております。どうか、お力を貸してはいただけませんか」
「クィオウは死んだ。くだらない嘘はやめろ」
「あの手紙にどれほど信憑性があるのでしょう」
「何が言いたい」
「遺書を活字にする……その工程では第三者に内容を見られることになります。そのような選択を、クィオウ・ニーウはするでしょうか」
春香は黙った。彼女が生きているならば、それに勝る喜びはない。だが、誰が何故その死を偽装したのか、という点が引っ掛かる。
「お考えはわかります。しかし、どうか信じていただきたいのです」
「それこそ信憑性がないではないか」
「仰る通りです。こちらをご覧ください」
と彼女はポーチから一葉の写真を取り出した。最新式のカラーフィルムを使った写真だった。窓際で外を見ながら憂げな表情を浮かべる、女性が映っている。銀色の髪、墨色の瞳。そして、美の寵愛を受けた美貌。間違いなく、クィオウだ。
「これはつい先日撮影したもの……今彼女はある塔に幽閉されております。幾つもの求婚を断り、春香様を待ち続けているのです。その想いに、お応えください」
いつの間にか、彼は握り拳を作って震わせていた。会いたい。
「……わかった。明日出発しよう。船を用意しているのか?」
「バズとここを繋ぐ、春成様が作った転移門がございます。移動は一瞬です」
「だが聞きたいことがある。何故父上はその死を偽装した」
「それは春成様のお口から直接聞きなさってください」
凪彩の視線を受けて、彼は一度頷いた。
「リズ・ユヤデオナも、来ていただきたいのですが」
「どうしてだ?」
「春香様がいない隙を狙ってツンゾが襲い来るやもしれません」
「そうか。一理あるな」
「加えて、激戦が予想されます。ヘヴノヴールの現領主、イェルラは十二人の狩人から成る北方十二将を組織しております。助っ人は用意できておりますが、できることならもう一人連れて行くべきかと」
暫し、彼は思案した。
「……カガリというのがいる」
「春香様のきょうだい、でしたね?」
「知っているんだな。そうだ、俺の言うことをよく聞くから都合がいいとは思う」
「では、明日、丑三つ時にお迎えいたします」
立ち上がった凪彩の背中から龍の翼が生えた。
「よくお休みになってください」
飛び去る。月夜に、人影が消えていった。
春香が居間に入ると、布団の上で頸創が待っていた。
「何の話だったんだ?」
簡単に事情を説明する。
「そうかい。寂しくなるな」
「必ず帰ってくる」
「おう、待ってやるよ」
突き出された拳。今、ぶつかった。
真夜中。カガリとリズを連れて、春香は玄関から出た。旅立ちには相応しくない曇天で、彼はかつての許嫁を思ってそれを見上げた。一切の荷物をカガリが持って、彼は刀以外のものを所持していなかった。
そこに、影。凪彩が降り立つ。人が着地したというよりも、龍がその巨体を地面に叩き付けたような衝撃が伴った。
「行きましょう。準備はよろしいですね?」
「ああ。頼む」
リズが春香の後ろに隠れる。鷹眼に襲われて以来、彼女は人を容易く信じられなくなっていた。
「大丈夫だ。俺がいる」
軽く頭を撫でてやった。
一行は静寂に沈んだ街を進む。悲しく雪が降る。
「春香さんのお父さんって、どんな人なんですか?」
「厳しい人だ。使命に忠実で、狩人としての模範だった」
怖かった、という感情は秘匿した。恐怖は狩人に必要ないものだからだ。
「着きましたよ」
北の外れにある、小さな家。古びたわけでもないが、新築といった様子でもなく、生活感のある建物だった。
戸を開くと、発光の術符に照らされた空間が待っていた。奥には扉がある。凪彩はそれに手をかけた。
「この先は、バズです。春成様のおられる部屋に繋がっております」
春香は唾を飲んだ。父。息子である自分までも騙して何をしたかったのか、それを質せばならない。
扉が軋む。少しずつ見えてくる、ガス灯の光。ついに、全貌が見えた。白を基調とした、豪奢な部屋だ。暖炉から放たれる熱。
「久しぶりだな」
父の言葉だ。紅玉の瞳を持った狩人は、一つだけある黒い椅子に腰かけていた。
「お体の様子は如何ですか」
「万事問題ない。お前はどうだ」
「……快調です」
「まあ座れ。リズも来い」
不遜な態度で呼ばれた二人は、ソファに並んで座った。カガリは行き場もなく、ただ春香の後ろに立っていた。
「なぜ、俺までも騙していたのですか」
「殺す直前に打ち明ける予定だった。が、予想以上にレルガの動きが早かった。それだけだ」
「死を偽装して、何をなさるおつもりだったのです」
「イェルラを監視するのだ。実力行使に出れば、暗殺するつもりだ……だが、お前が来たなら、任せてもいいだろう」
聞きながら、春香は手を握られていることに気づいた。俺だって怖い──それを共有するように握り返した。
「さて、大事な話をしなければならないな。リズを殺せ」
「え……」
二人の声が重なった。
「リズが何をしたというのです」
「生きているだけで騒乱を招く存在だ。わかっているだろう。鷹眼のように人を暴走させるのが、龍の祝福ということは」
「兄上のこと、ご存知なのですね」
「北方十二将に加わったのだ。真なる不死の提供を条件にな」
春成は繋がれた手を見て僅かに微笑んだ。嗤うようだ。
「そうだな、リズを殺せばクィオウとの婚姻を認めてやろう。これでお前には損のない取引になるはずだ」
「……考える時間を下さい」
「時間をおいたところで結論は変わらない。リズは死すべき存在だ」
相手が父でなければ、春香は掴みかかっていたところだった。
「まあいい。イェルラの野望を打ち砕くまでは、待ってやろう。それまでリズの身柄はこちらで預かる。いいな?」
「構いません」
「うむ。ならば寝ろ。明日にでも出発してもらう」
「どちらで寝ればよろしいですか」
「三階の奥に空いている部屋がある。好きに使え」
「失礼します。リズ、行くぞ」
二人とカガリは共にその部屋を出て行った。それを認めて、凪彩は春成に近づいた。
「春香様はリズを殺せないと存じますが」
「弑奉剣がある。あれを使えば、力を失った私でもリズを殺せるはずだ」
「恨まれますよ」
「そうなれば私を踏み越えて行けばいい。それもできないような覚悟のない人間が、この戦いを生き残れるとは思っておらん」
凪彩は黙って聞いていた。傅いてきた身として、言いたいことはある。だが、春成の意志が固いこともわかっていた。結果、沈黙という選択をした。
「明日、お前には春香とカガリを連れてヘヴノヴールに向かってもらわねばならない。休んでおけ」
「承知しております。おやすみなさいませ」