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追憶 雷業春香 その三

 クィオウの父、ヴォウがやってきた。顔に皴が刻まれた彼はクィオウとの婚姻をなかったことにするよう、春成に求めた。


「馬鹿げている」


 そう唾棄する声を、春香は襖越しに聞いていた。


「今更龍仕人が怖くなったのか?」

「我々は十二人の狩人と、それが率いる軍隊によって都市連合にも龍仕人にもつかない独立勢力となる」

「北方の田舎にそんな力があるようには思えんな」

「見下すなら見下せば良い。後悔することになるぞ」

「まあいい。元より都市連合の中核はセディヴァーツだ。私ではない」


 セディヴァーツ。東方語では火生かしょうと呼ばれる。


「しかし、最高戦力は貴方、雷業春成。違うか?」

「さて……どうかな」


 スルーッ、という金属の音。


「春香!」


 名前を呼ばれて、彼は素早く座敷に踏み込んだ。そこには剣を構えたヴォウがいた。


「血迷っておいでですか」


 春香は斬りかかる前にそう尋ねた。


「至って冷静だよ。君を手にかけるのは心苦しいが……仕方ない」


 剣戟。刺突を中心とした連続攻撃に、春香は防戦一方だった。弾き、躱す。後退こそしないが、見えた隙に付け込めば罠だった。頭を掴まれ、押し倒される。くらくらする視界の中で、敵が高々と剣を掲げているのが見えた。どうにか体を転がして、避けはできた。


 ヴォウの戦い方は老獪だった。積極的に攻めながらも、相手に攻めたく思わせる一瞬を提供する。それに乗ってくれば反撃を行い、乗ってこなければ攻めを続けるだけだ。春香は、歯軋りした。


「clleso」


 ヴォウは一言呟いた。すると左人差し指の先から水の弾丸が飛び出した。頬を掠めて言ったそれは、襖を撃ち抜いて向こうの柱に深い傷を残した。


「せめて一撃で、と思ったが……そうも言っていられないようだな」


 ヴォウは苦笑する。春香はその背後で座っている春成を見た。何故動かないのか。


「春香、早く終わらせろ。不快だ」

「……わかりました」


 雨のように飛来する、水の弾丸達。その間隙のない弾幕を刀で切り開き、春香は前進する。しかし、剣の間合いになれば、やはり攻めきれなかった。巧み過ぎる防御。どこから打ち込んでもヴォウは軽々と受け流す。


 だが、春香は一つ策を考えていた。敢えて距離を取り、弾幕を誘う。予想通り展開される。ならば、と彼は鳴崩を使った。肉を抉られながら飛び、直撃するものだけを刀で受け止める。そうやってすれ違ったほんの刹那に、首を落とした。


「よくやった」


 春成は短く褒めた。


「何か──」


 そう言ってやってきたのは赤茶色の洋服を着た、ヴォウの護衛。素早くサーベルを抜いて斬りかかってきた彼を、春成の導術が貫いた。


「お前はクィオウを斬れ。裏切り者には報いを受けてもらう」


 春香はすぐに体を動かす。


「クィオウは何もしていません。それに、婚姻を破棄する理由もないと思います」

「裏切り者と繋がっているとなれば、都市連合の結束に罅を入れることになる。それは避けねばならない。今すぐ殺せ」

「……はい」


 表座敷を出て、奥の居室に向かう。肩や脚、至る所から血が流れていた。それでも止まることはない。急ぎ足で廊下を抜けた。


(できない)


 彼女を殺すことなど。


(父を裏切ったとしても……彼女だけは救わなければならない。いや、救うしかない)


 部屋の前に立つ。心拍が激しくなる。この血濡れの刀でクィオウを一撃で殺すのか。否。


「クィオウ」


 襖を開けて、名を呼んだ。


「大丈夫⁉」

「……逃げろ」

「え?」

「君の御父上が裏切った。父は君も殺すつもりだ」

「どういう……」

「速くしろ! 俺が護衛に引き渡す。それからは……俺には何もできない。一刻も早く始原島を出るんだ」


 彼はクィオウの手を握って、担ぎ上げた。そのまま走る。父の姿は見えない。幸か、不幸か。


 玄関を飛び降りて、困惑したまま馬に乗り、抜き身のサーベルを握る家臣団の眼前に到着した。


「春香様……」


 一人がそう言った。顎に十字傷がある。


「一体、何が起こっているのです。急に足軽に襲われて……!」

「ヴォウが父上を裏切ったのだ。もう、敵だ」

「なら、なぜクィオウ様を。連れ去るおつもりですか」

「……クィオウはお前たちに託す。どうか生き延びてくれ。これ以上のことは、俺にはできない」


 真っ直ぐに目を見る。それを見て、家臣は静かに頷いた。


「承りました。この命に代えても故郷へ送り届けます」


 クィオウが馬に跨る。


「春香、約束して。大人になったら迎えに来るって」

「……あいわかった」


 政治がそれを許さないと理解しての約束。だが、彼はできないとは言わなかった。言えなかった。


 銃声が聞こえてくる。


「お待ちしております」


 走り去った。視界から消えたところで足軽がやってくる。


「若様」

「見失った。お前たちは屋敷の警護についてくれ。俺が追いかける」

「御意のままに」


 それから、六カ月。春香の体は全身の力が抜けたようだった。クィオウという存在が抜け落ちた彼は修行にも打ち込めず、いつか会えるという希望と二度と会えないという絶望を行き来していた。そんな、秋だった。


「若様、お手紙が来ております」


 居室で読書をしていると、使用人がそう言った。


「渡してくれ」


 襖が少し開き、白い封筒がすっと隙間から出てきた。その差出人は、クィオウ・ニーウ。活字だ。心臓が早鐘を打つ。開きたいのか、開きたくないのか。それさえも判然としなかった。新しい男を見つけたのかもしれない、と考えてしまう。唾を飲んでから、文机の上の小刀で中身を取り出した。活字で、そう長くない文章が大陸共通語で綴られていた。少しずつ訳しながら、彼は読む。そして、最後まで来た時、頬を涙が流れた。


『この手紙が届くころには、多分夏は終わっていると思う。こちらは相変わらず寒くて、上着が手放せないかな。


 春香、貴方と過ごした二年間は本当に楽しかった。ありがとう。


 共通語を教えたね。呑み込みが早くて、私も嬉しかった。この手紙もスラスラ読めるようになっていると思うから、敢えて共通語で書いてる。


 本題に入るね。


 死ぬことにしたんだ。春香がお父さまを、そしてギグを殺してしまったことを聞いて、貴方を恨んでしまったから。そして、そうなった以上私と貴方が結ばれることは決してないから。


 最期に貴方に会えなかったことが何より悲しい。もし、ヘヴノヴールに来ることがあったら私のお墓でお父さまを殺した理由を教えて。きっと聞いてる。


 さようなら。幸せになって』


 手紙を取り落とす。もしあの時一刀の下に斬り殺していたら、自殺などという苦しみに満ちた選択をすることは、少なくとも回避できたのではないか。死を知覚する前に死ねたのではないか。


 どのように死んだのか。飛び降りたのか、自ら喉を掻き切ったのか。即死できただろうか。死の淵でのたうち回ることはなかったのか。


 だが、何より己の弱さが最悪の苦痛を与えてしまったことに、彼は打ちのめされた。


 声を上げて泣く。後を追いたくなる。しかし、その前に襖が無断で開けられた。


「春香」


 春成だった。


「まさか死のうなどと思っているのではあるまいな。お前は雷業を継ぐ身。自分勝手な死に逃げるな」


 死は逃避。その一言が彼の心の中から自分というものを消し去った。


「使命に生きろ。それだけが我々に価値を与えるものだ」

「……はい」


 それからの彼は、彼女を忘れようと努めた。だが、消えない。あの声が頭から離れないのだ。


『幸せになって』


 結びの一言に縛られる。


『個人の幸せのためではない』


 父の言葉が頭の中で棘を生やして転がり回っている。


『幸せになって』

『個人の幸せのためではない』

『幸せになって』

『個人の幸せのためではない』

「わかっている!」


 いつの間にか一人になっている部屋で、彼は叫んだ。


「わかって、いるんだ……」


 仰向けに倒れる。目を閉じれば声が反響した。意味もなく、腕を天井に伸ばす。何かを掴み損ねたような動きを見せる。

 ぱたり、止まる。吐き出すような声音で泣く。泣くだけ泣いて、そのまま意識は闇の中に落ちていった。

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