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追憶 雷業春香 その二

 そこで、稲妻が彼らの行く先を塞いだ。


「まさか、紅雷龍こうらいりゅうなのか?」


 そう呟いた時、稲妻の着弾点に四本足の龍が着地した。その名に相応しい深紅の鱗が陽光を反射して煌めく。頭には大きな角。背中から生える、蝙蝠のような翼。口を開いて、その中に雷の球を生み出していた。


「来る!」


 クィオウの一声を聞いて、春香は横に走る。そこを、電撃が過ぎていった。


 あまりゅう、と呼ばれる分類が存在する。無数に存在する龍の内、特に最強と称される四種類の龍だ。一つは転剣龍、そして一つは紅雷龍。そこらの狩人ではまともに戦えない、まさに天災にも等しい龍である。


 それを前にして、春香は恐怖していた。ここから生きて帰る算段などない。だが何もしなければクィオウが死ぬ。それだけは、それだけは何としても許してはならなかった。


 とにかく、脚を動かした。時折飛んでくる、大木を容易く折る電撃は、おそらく当てる気もないのだろうというものだ。じゃれている。その可能性を彼は考えた。


 しかし、だからといって見過ごすこともできない。街に入れば何人死ぬかわからないのだ。


(父上……!)


 胸の中で助けを求める。だが声には出さない。強がっていたかった。


 紅雷龍が飛び立って、二人の行く手を阻むように降り立つ。羽搏きの起こす風に、春香は吹き飛ばされそうだった。


 最早已む無し。春香はクィオウを下ろして、抜刀した。


「近くに隠れていろ。これは……俺が狩る」


 跳躍。頭を狙うが簡単に避けられてしまう。着地の隙を突かれ、蹴り飛ばされた。龍の周囲に発光する球がいくつか生成されたと思えば、弾丸となって彼を襲う。貫通のしない、性質で言えば彗霆に近いものだった。だが、その威力は彼の体を重くするのに十分過ぎた。


 僅かな間に無数の打撃を食らった春香は倒れ伏す。起き上がろうとしても、不可能。生物として格が違う。それを思い知らされた。


 紅雷龍は春香の襟を咥える。投げ上げた。落下すれば、角で串刺し。だが何ができようか。力のない肉体に、抗う術はない。死がすぐそこまで来ている。覚悟など、できていない。


 だが、そうはならなかった。雷鳴と共に馳せ参じた春成が、空中で春香を掴んだのだ。


「無理をするな」


 彼は冷たくさえある声音で言う。


「すみません」


 謝る息子を見ないで、彼は両刃の刀を抜く。


「一瞬で片をつける。よく見ておけ」


 春成は地面を蹴った。そして瞬きをする時間もない間に戻ってきて、紅雷龍の肉体が爆ぜた。


 春香はその様子を具に見ていた。龍の周りを、空中で方向転換して螺旋状に飛ぶのと並行して、雷の杭を打ち込んでいたのだ。その後、春香の前に着地したと同時にそれを炸裂させ、内側から龍を破壊した。


桎光しっこうだ」


 納刀しながら春成は技の名前を告げた。


「纏術と導術、二つを極めることでしか実現できない技だ。お前は鷹眼と連携してできるようになれ」

「はい。わかりました……」


 できるだろうか、という不安が首を擡げる。やらねばならない、という思いがそれを抑え込む。


「お前たちは先に帰れ。後処理はこちらでする」

「ありがとうございました」


 春香は深々と頭を下げた。


「失礼します」


 木の陰にいたクィオウの手を握って、歩き出した。


 赤い夕陽に照らされる屋敷の門の前で、鷹眼が待っていた。短い銀髪を揺らしながら、手を振っている。


「災難だったな」

「ああ、父上が来なければ二人とも食われていた。恥ずかしい限りだ」

「ま、今日は生き残ったことを喜ぼうぜ。で、だ」


 鷹眼は春香の耳元に顔を寄せる。


「どこまでした」

「何をだ?」

「なんだ、つまんねえの」


 困惑する彼を置いて、鷹眼は屋敷に入っていく。


「師匠が帰ってきたら飯だぜ」

「わかった」


 二人もそれを追った。居室に戻れば、向かい合って座った。暫し談笑していると、


「春香」


 と父の声がした。どっしりとした安心感があるが、ピリピリとした緊張感もあった。


「今参ります」


 急ぎ出ていくと、やはり無表情に近い顔があった。


「お前に遊んでいる時間などないはずだ」

「……はい」

「所詮、政略結婚だ。真の愛情など期待するな。それだけ深い傷を負うことになるぞ」

「わかり、ました」


 愛してしまった、とは言えなかった。北部の街であるヘヴノヴールが東部との繋がりを持つために、雷業に取り入っている。そういう事実は理解している。クィオウはそれを維持するために人質でもあるのだ。


「まあ、妾の一人くらいに思っておくことだな。正室はもっと格の高い狩人の血族を用意する」

「そのように、人を身分だけで見て良いのでしょうか」

「龍仕人が東部都市連合を相手取って戦争を起こす可能性もある。強い狩人を用意することが必要なのだ。わかるな?」

「それはそうなのですが……」

「ならばなぜ迷う。我々は役割のために存在するのだ。個人の幸せのためではない」


 反論はない。ただ黙って、言葉を受け入れた。


「距離を見誤らないことだ。執心すれば後悔することになるぞ」

「承知しています」


 いや、そんなわけもない。クィオウから心を離せなどというのは、十の彼には不可能だった。


「話は終わりだ。食事にしよう」


 羽織の裾を翻した父を追う前に、春香はクィオウを呼びに行った。


 そこから少し過ぎた、ある日のこと。夕暮れが近づいた庭で鷹眼に剣術の稽古をつけてもらっていた春香は、縁側のクィオウに


「ね」


 と話しかけられた。


「遊びに行かない?」

「稽古の最中だ」


 龍の骨を加工した、木刀の代わりを彼とその兄は握っていた。


「俺はいいぜ。師匠も見ちゃいないさ」


 選択権を移譲された春香は、逡巡の後に頷いた。


「よし、じゃ今すぐ出発だ。ちょうど行商人が来てるはずだ。珍しいものが入ってると思うぜ」


 春成は、普段奥の書斎に籠っている。そのため、多少稽古を放棄したところで彼には知りようもなかった。だが、監視のない環境下で自分を律する、という修行の一環でもあることは彼しか知らない。


 街は賑わっていた。腰に真剣を差して人の波を掻き分けるのは容易ではなく、春香はクィオウの手を強く握っていた。


 行商人の荷車が見えてくる。赤い傘がよく目立つ。


「よっ。なんかあるか?」

「これはこれは鷹眼様。南港からかすてらなる菓子を持って参りました」

「じゃ、それくれよ」

「へい、毎度……」


 鷹眼は懐から取り出した財布から、幾らかの小銭を渡す。それと引き換えに、三切れのカステラを得た。


「ほら、食って帰ろうぜ」


 紙に包まれたそれを渡されて、春香はどのような味がするものかと少しばかり思案した。だが、その間にクィオウは口をつけていた。


「おいしいね。私、これ好きかも」


 その言葉を聞いて、春香は迷いを捨てた。口に含むとほんのりと甘い味が広がって、口元が綻んだ。


「ヘヴノヴールだと、お祝いの時にケーキを作るんだけどさ、結構、なんていうかくどいっていうか。いっぱいはいらない感じなんだけど、これならいくらでも食べられそう」


 ご機嫌のクィオウを見て、彼はここに来たことの意味を得た。


(そうか、これが恋か)


 今、理解した。初めての慕情。時を同じくして、鷹眼と話してほしくない、という思いも湧いてきた。カステラの感想をにこやかに述べ合うところが気に食わない。臍を曲げたことをひた隠した表情で、手を引っ張った。


「何?」

「帰るぞ。あまり父上に知られれば大目玉だ」

「そうだな。俺も師匠に叱られたくねえし」


 鷹眼は春成を師匠と呼ぶ。どれだけ研鑽を重ねても彼は弟子であり、息子ではなかった。ただ、春香が十分な域に達しなかった時の予備。その可能性を彼は粛々と受容していた。


 一行は日が暮れるか暮れないか、という光と闇の境界線上で時が躍っている頃に帰宅した。幸い春成が出てくる気色はなく、平然とした顔で食事の席に着いた。


 下女が膳を並べたあたりで、春成が来た。


「春香、調子はどうだ」


 感情の籠っていない声で問われた。


「問題ありません」

「ならいい」


 今日の食事は牛肉の時雨煮。牛の肉は滋養強壮に良い、という漠然とした知識を春香は持っていた。台所の者たちがどこまで考えているのかは知らないが、やはり信頼に値するなと彼は再確認する。


 ふと、視線をクィオウに向けた。隣にいる彼女は玄米が口に合わない、と最初の晩に言った。それ以来白米が出されている。そんな彼女は、初めて見る時雨煮を警戒してから、一口に頬張った。


「これ、いいね」


 春香に顔を寄せて言った。


「ならよかった」


 淡々とした返事だった。


 食事の後、行燈の光で本を読んでいる春香の部屋を、クィオウが訪れた。


「ね」

「女性が夜遅くに出歩くものではない」

「いいじゃん、敷地の中なんだから」


 溜息を一つ吐きながら春香は本を閉じた。


「それで、どうした」

「一緒に寝ようよ」

「一緒に……⁉」


 既に布団は敷かれている。その中に彼女は入って、隣を叩いた。


「どうせ結婚するだもん。気にすることないよ」


 据え膳食わぬはなんとやら。春香は腹を決めてそこに横になった。


「おやすみ」


 抱き締められた上で、そう言われた。春香は、眠れなかった。


 二年ほどの月日を二人は共にした。春香にとってそれは蜜のように甘く、多幸感を齎した。叶うなら、いつまでもこのままがいい。そう願っていた。


 しかし、そうはいかなかった。

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