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追憶 雷業春香 その一

 雷業春香が十になった冬の終わり、始原島北部にある港を、ある船が訪れた。その腹の中にいるのは、墨色の瞳と長い銀色の髪を持った少女だった。赤茶色の服を着て、腰にサーベルを佩いた家臣の一団と共に雷生にやってきた彼女に、彼は一目で惹かれた。


「初めまして」


 流暢な東方語で挨拶するその声は甘く、聞く者の心を蕩けさせた。


「雷業春香だ」

「クィオウ・ニーウ。これから、よろしくお願いします」


 屋敷の玄関で握手を交わした時の微笑みに、彼は胸の奥を打たれた。


「こちら、ご挨拶にと思いまして」


 そう言って、彼女は家臣に紙袋を渡させる。春香がその中を覗くと、茶色い小麦粉の塊がそこにあった。だが、香ってくる甘さは、確かにそれが菓子であることを主張していた。


「故郷のヘヴノヴールでよく食べられるケーキです。乾燥させた果物を使っていますの」

「そうか、ありがとう」


 礼を言った時、足音を聞いた。


「お前の妻となる女だ」


 彼の後ろからそう言ったのは、春成。黒髪を後頭部の低いところで纏めており、その目は紅玉だった。左腰には雷業家相伝の紅い鞘の刀。


「妻?」


 今一状況の掴めない春香は、そう問うた。黒い鞘の刀は、彼には少し大きすぎるように見えた。


「そうだ。東部都市連合への加入を求めるヘヴノヴールとの間に、友好関係を築くためのな」


 春成は彼の背を叩く。


「部屋に行け。二人で話してこい」

「はい、わかりました」


 拒絶する理由もなく、彼はそれに従った。


「ここは暖かいですね」


 クィオウは隣の春香に視線を送りながら言う。それが疎ましくもあり、そしてまた、女という存在に慣れていない春香には未知のものだった。


「寒いのか? ヘヴノヴールは」

「ええ。船で丸一週間かかるほど北にありますから」

「敬語は使わなくていい」


 居室の襖を開いた時、春香が言った。


「……そう。なら対等に話させてもらうわ」


 当たり前のように話し方を切り替えるその語学に堪能であることに、彼は驚いた。同時に、大陸共通語すらまともに話せない自分を恥じた。


 彼の部屋には、窓の下に本の詰まった小さな棚がある。


「これ、何の本?」


 クィオウが一冊を取り出して開いた。


「論語というものだ。大昔の思想家の言葉を、弟子たちが本にしたものだ」

「面白い?」

「ああ。示唆に富んでいる」

「ふ~ん」


 クィオウはあまり関心のない様子だった。


「貴方も狩人になるの?」


 腰の刀を見たのか、彼女はそう尋ねる。


「ああ。既に龍の肉を食べている……父のようになると誓った身だ」

「もう、将来のことを考えているのね」

「君は考えていないのか?」

「だって、わからないじゃない。私と貴方の関係だって、親の都合でどうとでもなるわ。でも、私個人としては仲良くしたいと思ってる。ね、聞かせて、貴方のこと」


 グイと顔を近づけられて、春香はたじたじだった。見れば見るほど魅力的な女性だ。美の神というものがいるのなら、彼女はその寵愛を受けているのかもしれない。そんなことを思った。


「龍の肉って、おいしい?」

「硬かった。味は……あまりなかったな。喜んで食べるものではない」


 率直すぎる感想を述べた彼に、微笑みが向けられる。


「なんだ」

「正直だなって思って」


 褒められているのか、貶されているのか。表情を見る限りは、前者だった。


「嘘つき嫌いだから。安心した」

「俺も嘘は好きじゃない。人を騙すのは……いい気分がしないんだ」

「結婚するときって、好きなものが一致してるより嫌いなものが一致してることの方が大事なんだって。そういう意味じゃ、私たち上手くやれるかもね」

「そう、なのか」


 結婚、という問題について彼は真剣に考察したことはなかった。だが、目の前にそれはある。値踏みするわけではないが、彼はクィオウという人間がそれに値するのか、思ってみることにした。


「ね、この街のこと教えてよ」

「俺だって詳しくないぞ。それなら兄上に聞いた方がいい」

「貴方がいいの」


 射貫くような目。胸中を抉り出すようだ。結局、彼はそれに負けた。


「わかった。行こう。大したものはないが」


 連れ立って二人は出ていく。その様子を、春成は溜息混じりに見送った。


 夕方になって帰ってきた春香を待っていたのは、表情の硬い父だった。


「鳴崩も不完全だというのに、遊ぶ余裕があるのか?」


 投げかけられた言葉に、春香はただ


「……ありません」


 とだけ答えた。


「私が言ったんです!」


 クィオウが間に入る。


「私が行きたいって言ったから、春香は付き合ってくれたんです。だから責めないでください」

「……客人に免じて赦してやる。明日からは心を入れ替えることだ」


 春成は背を向ける。そして、奥へ入っていった。


 一月が過ぎた、昼のこと。二人は木漏れ日にあふれる森の中を散歩していた。春香はこの日、少し挑戦した。隣を歩く彼女に手を握ろうとしたのだ。伸ばして、いややめておくか、と引っ込める。


「どうしたの?」

「……いや、なんでもない。気にしないでくれ」


 とは言いつつも、ちらちらと柔肌に包まれた手を見ていた。


「意気地なし」


 彼女がそう笑ったと思えば、彼は手を握られた。人の温もり。その熱が魂まで伝わって燃やすようだ。顔面が眼のように赤く染まりそうだった。


「ね、この花何?」


 淡い桃色と白が混ざり合った花が咲いている。彼女はそれを指差していた。


「沈丁花だ。俺が産まれた頃にも咲いていたらしい」

「花言葉は?」

「……すまない。知らない」


 手を握る力が強くなる。


「帰ったらさ、調べてみようよ。こんないい香りがするんだもん、きっといい言葉だよ」


 春香は花のことなどさして興味もない。だが、想い人がそう言うのなら気が進んだ。


 春を迎えた森は色とりどりの花に満ちている。クィオウはよくその名前を問う。春香は一つ一つに答えた。狩人として、野草の知識は重要だ。山野を駆け巡る際、毒を食らうことがあってはならないからだ。


 そうやって、日が西へ向かっていく。春香は幸せだった。繋がっているという実感が、彼の心を躍らせる。


 だが、それも長続きしなかった。


「よう、お嬢ちゃん」


 そう話しかけてくる、灰色の着物の者がいたのだ。腰には刀。目は淡い紅色。


「ちょっと遊ばない?」


 春香はクィオウを抱き寄せた。


「そんなガキよりもっと楽しい思いができるぜ?」

「失せろ」


 彼は短く言った。


「雷業とはいえ、ガキはガキだ。大人に歯向かわない方がいいぜ」


 両者は静かに刀を抜く。


「クィオウ。離れていてくれ。これからこいつを斬る」


 真向斬りが来る。それを受け止め、斬り返す。だが外れ。間合いの外に出た男を春香は追うが、雷の弾丸に妨害されてしまう。対応している間に距離を縮められ、蹴りを貰った。


 龍の力の乗った一撃に、彼は少しばかり飛ばされる。姿勢を立て直す間に男は接近しており、着地の瞬間に殴られた。


「なんだ、つまらねえやつ」


 膝をついた春香に、男は唾を吐きかけた。


「このお嬢ちゃんは貰っていくぜ」

「やめろ……!」


 今の春香は、鳴崩を使えば脚を痛める。高い魂の出力に体が追いついていないのだ。故に、一日に使える高速移動には厳しい制限がある。冷静に配分しなければならない。


 だが、クィオウの肩に男の穢れた手が触れることを思えば、そんな考えも弾け飛んだ。彼は雷を纏う。そして、駆けだした。


 加速する思考速度、反応速度。須臾が永遠に思えるように引き延ばされる。その間に、彼は刀を振るった。


 次の瞬間、男は首から血を吹き出して死んだ。赤い雨がクィオウを汚す。春香は刀を振り抜いた姿勢のまま、固まっていた。


「大丈夫か」


 その状態で彼は問うた。


「……うん」


 その沈黙の意味を、彼は解さない。ただ惚れた女を助けだしたという達成感と、それに伴う全能感に溺れていた。


 クィオウの方も、特段彼を責めようとは思っていなかった。命を守るために別の命を切り捨てるという世界は、よく知っていた。だが、人が死ぬ瞬間を見るのは初めてだった。あまりにも、恐ろしい。


「どうしたの?」


 動かない春香に、彼女はそう声を掛けた。


「動けないんだ。鳴崩を使うと、体が痺れる」

「何それ」


 と失笑するクィオウ。


「なら、待ってる」


 そうして、暫く。体を固めていた蝋が溶け切って、春香はゆっくりと刀を納めた。


「帰ろう」


 木の根元に座っていたクィオウに彼が近づいた、その時。地を震わすような咆哮が響いた。


「もしかして──」

「龍だ……俺が食い止める。屋敷に戻ってくれ」

「道わからないよ」

「そうか。なら一緒に行こう。失礼する」


 と春香はクィオウを持ち上げる。声が聞こえてきた方とは反対に走る。龍の力を宿した走りだが、空に見える影は徐々に近づきつつあった。

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