雨の篠突く夕方のこと。春香は布団の中で目を覚ました。腹の辺りに重さを感じて首を動かすと、そこで金髪の少女が寝ていた。
「リズ」
力のない声で彼は言う。彼女はハッと目を覚まし、照れ隠しに笑った。
「ごめんなさい、あまり眠れていなくて」
左袖が虚しく揺れた。
「本当に、すまない」
言いながら、上体を起こす。脇腹に痛みが走った。
「私のために戦ってくれたんです。感謝はしても、恨みはしませんよ」
彼は何かを言わないといけない気がしていたが、言葉は喉で突っかかるばかりで出てこない。
「ありがとう」
ようやく出てきたのは、感謝だった。
「ありがとう……」
涙が湧いてきた。
「本当に、本当に……」
出てくる言葉はそればかり。そんな彼を、リズは慈母のような眼で、黙って見ていた。
「傷の具合はどうですか?」
嗚咽が収まった頃、彼女は落ち着いた声で尋ねた、
「動けば痛むが、それだけだ」
鼻声だ。
「君は大丈夫か? 痛くないか?」
「私はこんな体ですから」
彼女は俯き気味に目を逸らす。
暫しの沈黙、雨音と呼吸音だけがそこにあった。雨脚は強まるばかりで、止む気色を見せない。時折、ばしゃりという音が聞こえてきた。
「怖かった、です」
リズはか細い声で呟いた。
「左腕がなくなった時、とても痛くて、本当に死ぬんじゃないかって。フザンが近づいてきた時、殺されるんじゃないかって。でも、春香さんが戦ってくれたおかげで、今こうしてここにいられる。心から感謝してます」
咽ぶような声だった。
「私、これからどうしたらいいんでしょう」
「俺も、わからない」
彼の視線は一所に留まらない。
「兄が道を踏み外したなら、弟として正すべきなんだろうか」
「お兄さん?」
「フザンは……俺の兄。鷹眼なんだ。だから、その、申し訳ない」
認めたくない現実。だが、否定する材料はどこにもない。あの白雷を使った時点でわかったはずのこと。それでも、目を逸らしていた。
「春香さんが謝ることじゃないですよ」
救われようとしている。その事実が彼にとってあまりに気持ち悪かった。狩人とは気丈夫で、あらゆる災禍に対して折れることなく立ち向かう存在でなければならない。少なくとも、彼にしてみればそうだった。
しかし、自分は違う。そうであるための努力はしたのか。何をすれば努力したことになるのか。努力以前にふさわしい素質を備えているのか。思考は何重にも重なってとりとめのないものになる。
死体の山が見える。上から転がってくる、眉間に風穴の空いた死体。首を振る。だが消えない。誰もいない街。
「もし、もしですよ」
彼女の不安げな声が、春香を現実に引き戻した。
「この真なる不死がまた別の誰かの生贄の上に成り立っているなら……春香さんは私を殺しますか?」
「産まれた命に罪はない。罰せられるのは生贄に捧げた者だ」
赦しを与えてくれた彼女に手を上げるなど、できるはずもない。
「……ありがとうございます」
静かな答えだった。彼女は座ったまま春香の手を握る。
「起きてたのか」
頸創がやってきていた。
「頸創、なぜフザンのことを知っていた」
彼は苦い顔をしながら腰を下ろす。
「元々、俺はフザンと契約してたんだ。処刑される前に嬢ちゃんを連れ出して、引き渡せってな。悪い、ずっと隠してた」
「なら、なぜフザンと闘うことを選んだ」
「……自分を重ねちまったんだ。運命に翻弄されたまま死ぬのは、あまりにかわいそうでな。龍仕人も真なる不死も関係ない、嬢ちゃん自身の人生を生きてほしくなった。だから……フザンを裏切った」
「嘘ではないな?」
「ああ。本心だ。俺の魂に誓って、嘘じゃない」
「信じるぞ」
頸創の顔は真っ直ぐで、春香にそれを疑うことはできなかった。
「んじゃ、俺は清然と話してくるよ。若いの二人、仲良くしてな」
歩いていった。
二人になると、不思議な緊張が走った。春香はリズの空になった左袖を見た。己の弱さばかりが思考を埋め尽くす。何かできたはず、という思いを抱きつつもきっと何もできなかった、と諦めていた。
針の筵。生というものがまさしくそれに感ぜられた。歯を食いしばりながら顔を下に向ける。腹の底から何かが出ようとしている。それを押し殺す唯一の手段が、リズだった。ガバリと起きて、彼女を抱きしめた。
「春香さん、痛いです」
そう言う彼女の表情を、彼は見られない。決して拒絶しようという声ではない。それで安心できた。
「俺は……君を、守れなかった」
涙ながらの声音だった。震えている。
「生きてます。私、生きてますよ。だから守れたんです。守って、もらったんです」
喃語めいた音ばかりが彼の口から漏れる。今、腕の中にある体温が全ての証左だ。確かに抱いた。共有した。痛みを分け合った。守れたのなら、次にやるべきことは何か。
「これから、二度と、誰にも、君を傷つけさせない」
誓うことだ。
「そんなに自分を追い詰めないでください。春香さんは、頑張ってくれたんですから」
「俺は……」
もう、文章は生み出せなかった。雨音。空は、光を通してはいなかった。