夜が明けた。雨上がりの南港の街は死体と、それを運ぶ人夫、昨晩のことを囁き合う見物人で溢れていた。
「死体が動いたんですって」
「まあ、見て、あんな大きいのが暴れたみたいよ」
「鎌風様のお屋敷にも曲者が現れたそう」
「それを雷業様が叩き切ったと、新聞にはあったぞ」
事実と噂が交じり合って、人々の心に巣食う。そんな現状を知ってか知らずか、春香は庭で素振りをしていた。
「よく飽きないねえ」
そう言った頸創は、疲弊した顔だった。
「随分疲れて見えるが、どうした?」
「知りたがりが奉行所に殺到してるのさ。ほら、新聞屋だよ。ひっきりなしだぜ、ホント」
彼の手には一つの紙束があった。
「あんたも読むか?」
渡されたそれを、春香は広げてみる。一面には『天晴! 雷業春香の神速剣術!』と題した記事があって、死体の山に立つ彼の挿絵があった。
「こんなことをした覚えはないんだが……」
「新聞ってそういうもんなんだよ」
頸創はどっこいしょと縁側に腰掛けた。
「ただ、説明はしなきゃならねえ」
いつになく真剣な表情だ。
「どこまで話すか、だ。今の社会を転覆させるのが目的だったなんて話せば、俺たちへの信頼に関わってくる」
「嘘はよくないんじゃないか」
「嘘じゃねえよ。隠し事だ」
言葉遊びじゃないか、とは言えず、春香は承服しかねるという視線を送った。
「気持ちはわかる。だがこれが大人の世界だ。馬鹿正直が美徳なのはガキだけだ」
「そういうものなのか……」
そこで、遠くから
「鎌風様―! お話をー!」
という声がした。
「やべ、来やがった」
頸創は慌ただしく立ち上がる。
「後は頼んだ!」
それだけ言って、彼は奥に引っ込んだ。それからすぐに、鳥打帽を被った記者の男が現れた。右手には万年筆、左手には手帳。
「あっ、雷業様! お聞きしたいことが!」
承認を求めているようで、その実相手は話してくれるだろう、という汚い確信を持った声音だった。
「まあ、少しならいいが」
「はい、死体を操る者の狙いとは、ズバリなんだったのですか」
「あー……彼女は昔狩人に裏切られて、その復讐がしたかったらしい」
「個人的な復讐で街一つ襲うとは……とんだ悪党ですね」
そう言いながら、記者は手帳に書き込んでいく。
「死人をあまり悪く言うものではないぞ」
忠告はよそに、記者は期待する眼で春香を見る。
「黒い巨人の死体がありましたが、あれは何なのですか?」
「俺も詳しいことは知らないが、死体から作られた化け物だろう」
「それをバッタバッタと斬り伏せたと! まるで活劇ですね! それで、曲者の話は本当なのですか?」
「侵入を許してしまった。犠牲者も、出た」
「遺族の方々に、一言」
「全ては俺の力不足によるものだ。申し訳ない」
「ありがとうございます。それでは、これで」
記者は帽子を押さえながら一礼して、走り去った。記事にできるような大した話はできていないように思えて、春香は不思議そうに素振りに戻った。
「帰ったか?」
壁の向こうから頸創がひょっこり顔を出す。
「ああ、満足したようだ」
「それならよかった」
胸を撫で下ろす頸創。一方で春香は昨晩のことを思い出して嫌になっていた。
語ったことが、ゲルカルナの全てだったのか。死んでしまっては問い質しようもないが、それが彼の中で引っ掛かって飲み込めない。
(カガリがいなければ聞けていたのだろうか)
少し、虚しい気持ちになった。
「なあ、春香。写真を撮りに行かねえか?」
「写真? なぜだ?」
「あんたの兄貴が来たら、嬢ちゃんとも別れることになるかもしれねえ」
「思い出が欲しいということか?」
「みなまで言うなよ」
頸創は虫を払うように手を振った。
「しかし、高いんじゃないか」
「それほど貧乏じゃねえよ。心配すんなって」
その言葉に、春香は返事をしない。新聞を握って、虚空を見つめていた。
「どうした?」
「もし、兄上の目的がフザンと同じだったら、俺はどうしたらいいのだろう」
「俺だったら兄貴をひっぱたく。兄弟なんだろ、わかってくれるさ」
「そうかもな。そうなら……いいんだが」
彼は少し肩が軽くなった心地だった。
「リズを呼んでくる」
「おう」
彼は縁側から屋敷に入る。名前を呼びながら歩いていると、
「はーい」
という声が二階の奥の方からした。カガリのいる座敷牢だ。
「話していたのか?」
問う。
「はい、昨晩のお礼がしたくて」
「そうか。俺からも言っておく。リズを守ってくれたこと、心から感謝する」
カガリは耳の先まで真っ赤にして俯いた。それを見ると、春香はどうにも言葉にし切らない感情を覚えた。かつてリズを傷つけたこと。血を分けたきょうだいだということ。自分のために戦ってくれたこと。ゲルカルナを殺してしまったこと。それらが混ざり合って、見た目にするなら味噌のような状態だった。
「カガリも来るか?」
「どこへです?」
「写真を撮りに行く」
「……遠慮させていただきます。わたくしは、まだお兄様とは並べません」
「そうか。わかった」
リズが残念そうな顔をしていたが、それは春香の視界に入らない。
そうして、三人は屋敷を出る。リズはカツカツと下駄を鳴らしていた。
「あんたの兄貴の話、もっと聞かせてくれよ」
地面に白墨で絵を描く子供を見ながら、頸創が言った。
「流行物が好きだったな。前に会った時は、懐中時計なんてものを持っていた」
「時計か。まだ高いだろうに、よく買えたな」
「ああ、この間、港の時計屋を覗いたが……とても手が出ないな」
「金縋龍の刀を持っているんだったな」
「導術を使うのに適している、と聞いた。実際そうなのか?」
「雷の導術ならそうだな。力を増幅して放つ特性がある」
「でも、脆いんですよね」
「そうだ。生きている間は身体強化で補っちゃいるが、取り出せばその効果もなくなるからな。まともに打ち合えばすぐ折れるぜ」
そういう、取り立てて実のない会話をしながら彼らは歩いていた。その時間の尊さを、春香は痛いほど理解した。狩人とは、なんてことのない日常のために存在する者。守るとは、背負うとは、その意味が突き刺さる。
写真館は、大通りから一本横道に逸れたところにある。古い長屋を改装したもので、風情のある建物だ。暖簾には『西ケ谷写真館』とある。
そのガラス戸を引いて、中に入った。すぐ出迎えの下女がやってくる。
「ようこそ西ケ谷写真館へ。どのような写真をお撮りに?」
「思い出を作りたいそうだ」
「おい、言うなよ」
「フフ、わかりました。奥へどうぞ」
下女の後を三人はついていく。
「当館は最新式の写真機を導入しており、瞬間的に写真を撮ることが可能です」
下女は自慢げに語る。
「フィルムカメラってやつか?」
「ええ。流石鎌風様。よくご存知で」
三人は髭面の店主の待つ撮影所に来た。大型の写真機と照明が並ぶ。奥には白い布がかかっていた。
「そこに立ってくださいませ」
黒塗りの写真機を前に、春香は少し好奇心を擽られた。これがどうやって写真を『作る』のか気になったのだ。
「あれから直接写真が出てくるわけじゃねえぞ」
それを見透かしてか、頸創が言った。
「そうなのか?」
「現像って処理をして初めて写真になる。ま、明日には終わるだろうな」
「そうなのか……」
「残念か?」
「……そうだな」
形として残るものは、一日でも早く欲しかった。いつ死ぬかわからない人生。遺せるものが如何ほどあるか。
「椅子、お貸ししましょうか?」
「そうさなあ……」
自分の内側を見つめる春香は置いておいて、頸創は顎を撫でる。
「一つ貸してくれ。座ってる嬢ちゃんを挟んで、俺たちが両側に立つ。春香もそれでいいだろ?」
「ん? ああ……そうしよう」
その通りに並ぶ。春香はリズの薄い体を見下ろした。心まで含めて──その言葉がやってくる。守れたか、救えたか。救われてばかりだったように思える。心の疲れは取れたのだろうか。わからない。ただ一つ言えるのは、もはや単なる庇護の対象ではないということ。そう、この気持ちは──。
「雷業様、こちらを見てください」
店主に言われて、彼は顔を前に向ける。
「では、撮りますぞー!」
雷業を継ぐ。
「さーん!」
それを理解していても、どこか生きることを拒絶しようとしている。
「にー!」
弱さか。
「いーち!」
否、生きねばならない。
閃光。
狩人としてあるべき様であれたのか。答えは出ない。
「はい、ありがとうございまーす!」
店主が駆け寄ってくる。だが、春香はまたリズの方を見ていた。
「春香さん?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
現像された写真が届いたのは、翌朝のことであった。