「空穿!」
術の名前を口にしながら、雷の龍を繰り出す春香。龍は障壁を食い破り、破壊していく。木漏れ日の下、六層の壁はみな消滅したのだった。
「すっかりものにしましたね」
その様子を眺めていた悠馬が言う。
「術の名前を言うだけでも呪いの進行は大幅に抑制されます。実戦でも余裕がある際は意識した方がよいですよ」
「そうなのか」
冷たくさえある返事に、悠馬は微笑みを返した。
「今日の夕方、天月先生が確認に来られるそうです」
「なら、それまで鍛錬をしておこう」
「休みましょう。お話でもしませんか?」
「お話、か……」
気は進まずとも、彼は悠馬と並んで岩に腰掛けた。
「先代様とはお会いしたことがあります。随分と似ておられますね」
「よく言われたが……自分ではわからないものでな」
「そういうところも似ております。正直に自分の心を明かすところです」
真っ直ぐな目が、彼には煙たい。
「先生は、あなたを先代様と比較したがるところがあります。苦痛になっていませんか?」
「いや、大丈夫だ。及ばないのは全て俺の責任だからな」
「そうやってなんでも自分のせいになさると、苦しいだけですよ」
苦しい。そう感じる自分を、彼は否定したかった。苦しさなど、認めない。
「そういえば、君は天月を先生と呼ぶな。弟子なのか?」
「ええ、狩人としても、刀匠としても、天月先生に師事しております」
「君も、龍を食ったのか」
「私たちの種族はもとより龍の力を行使できます。寿命も長いんです。私、もうすぐ六十になるんですよ」
「そしたら、天月は幾つなんだ?」
「もうすぐ三百になります」
「すごい世界だな」
理解できないまま、彼は感想を述べた。
「ですから、こうして代替わりを感じるのは楽しくもあり、寂しくもあります」
「……俺は、父上のようになれるだろうか」
「残酷な言い方になりますが、先代様は規格外の天才でした。上を見ることは大事ですが、そればかりしていると、躓いてしまいますよ」
「躓く、か」
常に誰かの背中を追いかける人生だった。だが、今彼の前には誰がいる? 答えは出せない。一つ言えるとすれば、最早彼の人生はその段階を足早に抜けていったということだろう。これからは、自分で自分の生き方を、為すべきことを決めねばならない。
いや、兄。鷹眼はどこにいるのかもわからない。再会した時、導いてくれるだろうか。そんなことを考えていると、最後に見た背中を思い出す。突如転がってくる、眉間に穴の開いた死体。
呼吸が浅くなりかけたところで、肩に手が置かれた。
「何か、厭な思考に支配されていますね」
「なぜ、わかる」
「無駄に長く生きたわけではありません……ゆっくりと呼吸してください。そうすれば、落ち着きますから」
息をするだけで、泣きそうになる。事実、涙は零れた。ボロボロと大粒のものが、流れ出る。
「大丈夫です。ここには、敵はいません」
ヒック、しゃっくりのような音が出た。
「確か、お兄様がいらっしゃるんですよね? 聞かせてくださいませんか? あなたの、思い出を」
「……優しく強い、兄だった」
限界まで絞られた雑巾から零れる水のような、そんな声だった。
「よく頭を撫でてくれた。不出来な俺を、責めることもなかった。ただ、一緒に強くなろうと、励ましてくれた」
涙を袖で拭う。
「ずっと、一緒にいられると思っていた。だが、フバンハに行ってしまった。何かを調べると言って。いつもそうだ。共に生きていたいと思えば離れていく。クィオウ……」
「お兄様の話を聞かせてください」
「そうだ、すまない。……術の腕前なら、父上と並んでいたと思う。それだけ凄まじかった。質の悪い刀なら完全に溶かすほどだ」
「溶かす?」
「兄上は、雷と炎、二つの力を同時に扱えるんだ」
「それは……片手で拍手をするようなものですよ。しかし、カミハテでない者がカミハテに並ぼうとすれば、それくらいのことはしなければならないのかもしれませんね」
「らしいな。俺は雷しか扱えないからよくわからないが」
涙は引っ込んでいた。
「しかし、なぜ先代様は春香さんをここで修業させなかったのでしょう」
「推し量るしかないが、兄上の存在が大きかったのだと思う。俺が前に立ち、兄上がそれを導術で援護する。そういう戦い方を想定していたのかもしれない」
「しかし、今は一人です」
「そうだな、だからこうして教えを乞う機会があるのは嬉しい」
小さな鳥が、春香の肩に止まった。その時、集落の方から乾いた銃声がした。
「銃?」
悠馬は怪訝そうな顔を見せる。
「行こう。何かあったのかもしれない」
山を駆け下りる。そして集落へ。平屋の前では、天月が黒衣の男たちに囲まれていた。彼らの腰には刀、肩には銃。鎖閂式だ。
「貴様ら……!」
春香は無意識的にそう言っていた。
「雷業だ! 殺せ!」
集団は十人ほど。勝てない数ではない。今は武器がない。だが、戦いようはある。
「空の果て、輝ける者よ──」
両手の間に球を作り、詠唱を始める。男の斬撃を避ける。
「今この手に来りて、全てを撃ち抜け!」
突き出す。
「空穿!」
飛び出した龍が、男の胸を貫いた。それも、三人まとめて。その威力に彼自身恐懼した。それでも、力は力だ。有効に使わねばならない。
再び詠唱に入ろうとするが、それを見過ごしてくれるほど敵も愚かではない。三方から同時に斬りかかられて、回避に徹するよりなくなる。
「春香さん!」
悠馬が声を上げた。彼は春香と敵に間に割って入ったと思えば、二本の腕で白刃取りを行い、残った方で相手の腹を切り裂いた。
一人の男が、天月を担いで逃げようとする。春香はそれを鳴崩で追い、髪を引っ張って倒した。
「お前たちはなんだ」
「い、言えねえ!」
彼は男の上に乗り、球を作って見せた。
「わかった、わかった! 俺たちはツンゾだ! クィサ・フォ・オウヤナを連れてこいって言われたんだ!」
「誰に?」
「い、言えねえ」
「そうか。寝ていろ」
彼は男を殴りつけて気絶させた。
「天月、怪我は?」
「大丈夫じゃ。さて、どうしてくれたものかのう」
そう言う天月はニヤついていた。
「久しぶりに、体を動かすかのう」
彼は消えた。次の瞬間には右手に脇差を呼び出して、黒衣の男の喉を刺していた。事態の鎮圧には、そう時間はかからなかった。
夜。丘の麓にある家。上にあるのが工房で、ここが住まいだ。囲炉裏を囲んで、春香、悠馬、天月、そして一人の男が座っていた。
「お前たちの目的は、天月をどうすることだ?」
春香が尋ねた。
「……俺もわからねえ。だが、武器の修復をしてほしいんだろう」
「直接訪れればよいことだというのに……」
天月が声を漏らした。
「なあ、俺は、殺されるのか?」
男は不安を隠さない表情で問う。
「無駄な殺しはしたくありません」
悠馬が口を開く。
「貴方が寝ている間に、この村を囲う結界を通り抜けられないよう、楔を打ち込みました。ここで働く分には、その命を保証しましょう」
「あ、ありがてえ……」
「それと引き換えに、知っていることを全て話してもらいます」
「俺はただの下っ端だ。誰に雇われてるのかも知らねえ。だが……噂じゃ、龍仕人がセチアを使って誰かを探している、というのは聞いた。その戦力を大きくするために優秀な刀鍛冶がいるんだとさ」
「龍仕人……」
春香は少し思案した。
「祝福、という言葉に聞き覚えは?」
そして問う。
「いや。それがどうかしたのか?」
「ならいい。こちらの話だ」
だが、春香は止まったわけではない。立ち上がり、男の襟を掴む。
「お前たちは、雷生を襲ったのか?」
「……そうだ。近々大きな事件が起きるから、それに乗じて好きに人攫いをしていいって言われたんだ。その時に、雷業を殺せとも言われた」
「何人攫った」
「銀色の髪をした狩人に邪魔されて、何もできてねえよ。ありゃ雷業鷹眼だな」
「それも龍仕人に関わるのか?」
「だから言ったろ。俺は下っ端だ。上の考えていることなんてわかりゃしねえ」
「そうでしょうね」
悠馬が言う。
「この集落には結界が張られています。ツンゾ特有の、精神に刻まれた楔を感知して侵入を防ぐ……しかし、あなたはそれを通り抜けた。楔すら持たない、捨て駒同然の存在なのだと思います」
「正解だ。悔しいが」
男は俯いて、呟くように言った。
「さて、行ってくるかのう」
天月が立つ。
「どこにだ?」
春香が質した。
「お主の刀を直しにじゃ。空穿、ものにしたようだからのう」
「ありがとう。これで戦える」
「しかし、最後に質問をさせてくれんか」
「構わない」
「お主、何のために戦う」
「狩人だからだ」
「そうではない。何か、こう、命を賭けてもいいと思えるものがあるのかと聞いておる」
「俺は……」
言葉は続かなかった。
「お主はまだ若い。今のうちに見つけておくことじゃな」
ストン、天月は出て行った。春香は、自分の内奥に沈んでいった。
そして朝が来る。春香は紅い刀を腰に、青い刀を背中に、ツンゾの持っていた銃を左肩に、天月の工房を出た。
「本当に助かった」
深々と頭を下げる。
「子供ができたら顔を見せい。導術を仕込んでやる」
「そうか。わかった」
背を向けた春香に、
「ああ、それと」
と声がかかった。
「夕べ言ったことをよく考えておくんじゃぞ」
「……狩人である。その一点だけでは駄目か」
「心が保たんぞ。人間、義務だけでは生きていけん。能動的に選ばなければ、魂を殺すことになる」
春香は、心が死ぬ、という言葉を思い出した。守りたいものを見つけることが必要なのだとすれば、今のそれはリズだ。
「ありがとう、肝に銘じる」
また一礼。晴れ晴れとした空を見ながら、彼は丘を下った。