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ピジョとツンゾ その四

 どんよりとした、曇り空。その下を春香と頸創は進んでいた。殺風景な峠。南港の北の山地にある、尺八峠だ。岩の間を風が抜けていく音が尺八のそれに聞こえることからそう呼ばれている。


 崖際の細い道を歩く。一歩間違えば死ぬ、危険な場所だ。慎重に、慎重に。本当は狩人の持つ身体能力を存分に活かしたいところだが、慢心ほど恐ろしいものはない。ようやくそこを抜けた。すると緑が広がっている。春が訪れた森は花々の香に満ちていた。


 狩人が本気で走れば、その速度は駿馬に匹敵する。今までは脚を滑らせれば落下する場所にいたが、その心配がなくなれば好きに駆けることができた。


 やがて、洞窟の前で止まる。その入口の横には煤の痕がある。


「偵察隊の情報じゃ、この先に門があるらしい」


 頸創はその痕跡を撫でながら言う。


「ならば行こう。一刻も早く佳代子を助け出さねば」


 春香はずいと前に進む。二人は、中に入った。


 入口こそ暗いが、少し行くと明かりを放つ札が壁面に貼ってあり、夕方くらいの明るさはあった。それに、切られた糸と落ちた鳴子が照らされていた。


「先に偵察隊を行かせて正解だったな。罠が全部排除されてる」


 長巻を背負った頸創は悠々と歩く。


「だが気を付けろよ。未発見のがあるかもしれねえ」

「ああ、わかっている」


 そう会話をした矢先、足元に一本の糸があった。そこから視線を上げると、棍棒が天井に張り付いていた。


「よっこらせ、と」


 そんな気の抜けた声を出しながら頸創は糸を跨いだ。春香もそれに続く。


 そうして四半刻ほどかけて、洞窟の奥にたどり着いた。出口を塞ぐのは木の門だ。背丈を軽々と超えるそれを、頸創と春香は力を合わせて蹴り飛ばした。


 ズドン、と大きな音を立てて倒れた扉。小さな村がそこにあった。あばら家から出てくる子供連れの女。刀を腰に差した男。奥には丸太小屋が見える。


「んだよてめえら」


 その男が言った。


「狩人だ。佳代子ってガキを返してもらいに来た」

「なっ……! 敵襲! 敵襲―!」


 男は叫ぶ。春香は冷静に刀を抜き、襲い掛かってきた彼の右手首を一瞬で切断した。首を掴み、押し倒す。


「佳代子はどこにいる」

「し、知らねえ!」

「次は左手を落とすぞ」

「ほんとに知らねえんだ!」

「そうか。なら他の者に聞く」


 と春香は男に背を向ける。しかし、男は左手で落ちた刀を拾い上げ、斬りかかった。それが致命的だった。春香はすぐさま対応し、一刀の下に首を刎ねた。


「次は誰だ」


 目の前にいるのは、十数人の戦士。勝てる戦だな、と春香は踏んだ。


 頸創の方も、一人の男を拘束していた。


「春香! 奥の丸太小屋だ!」

「あいわかった」


 鳴崩で戦士達を飛び越える。小屋の扉を蹴破って、踏み込んだ。


「よう、雷業」


 まず彼の目に入ったのは、椅子に座る、赤髪とどす黒く赤い眼をした大柄な男。彼は上裸で、左手に野太刀を握っていた。その両側に、裸の女。片方の目が薄紅色で、頬に傷があるのを認めた。佳代子だ。


「佳代子を解放しろ。さもなくば殺す」

「やってみろ。このザシナに勝てるものならな」


 ザシナと名乗った男はのっそりと立ち上がる。背丈は六尺を超えている。だが、体格差は敗ける理由にはならない。なってはならない。


 春香は床を蹴る。鳴崩は、単なる加速ではない。思考速度、反射神経、動体視力、剣速、あらゆるものを高速化し、その速さについていける身体能力を得る術である。即ち、鳴崩同士の戦いは常人には視認することすらできない、神速の剣戟となる。


 事実、同じ雷の力を纏ったザシナは、春香の攻撃を悠々と防御して、反撃を繰り出した。それは空を斬る。そこにできた隙に、春香は刺突。ザシナは風に吹かれる紙のように躱し、春香の背中に蹴りを叩き込んだ。


 空中で姿勢を戻した春香は、着地と同時に駆け出す。二合、三合。打ち合う骨の刃が乾いた音を立てる。埒が明かない──双方そう思って、距離を取った。


 ここまでの攻防を、佳代子は認識できなかった。激しい音を聞いたのみだ。


「中々の速さだ」


 ザシナが構えを解き、笑みを浮かべながら言う。


「最期の言葉はそれでいいか?」


 春香は構えたままだ。


「お前こそ、疑問で死ぬのはダサイぜ」


 野太刀が振るわれる。飛び退いた春香は、暴れるような太刀を躱し続けた。


 斬り結べば、春香は力で押される。峰側の刃が左肩に食い込んだ。


(力比べでは、駄目だ)


 あくまで回避に徹すること。どうにか隙を見出すことに自分の勝機はあると、彼は考えていた。


 二、三歩引く。すると、ザシナが稲妻の瞬くような速さで飛んできた。弾きは間に合ったが、かなり危ないところだった。お返しに刀を一文字に振り抜くが、ザシナは飛び上がり、そのまま回し蹴りで春香の頬を打った。


「もっと攻めてこい。つまらねえ殺しはしたくねえ」


 ザシナは両腕を広げて挑発する。そのまま下がっていき、佳代子の隣に立つ。春香は腹を決めた。突きの体勢で突っ込む。右手が刀を押していく──だが、止まる。


「どうした?」


 佳代子が突き出されていたのだ。ザシナは彼女を投げつけ、その上から春香を吹き飛ばした。


「脆いもんだなあ!」


 彼は大声を出す。


「自分が気持ちよくなるための殺しなら、こんな下らねえ小細工に翻弄されることもねえ! ええ⁉」


 頬に傷のある彼女を、春香はそっと地面に下ろす。そして、羽織を着せてやる。


「そういやお前は佳代子を助けに来たんだってな。一つ、面白いことを教えてやるよ」


 ニタニタと下種な笑いを浮かべるザシナに向き直って、彼は正眼の構えを取った。


「そいつは親父に売られたんだ。博打で借金しちまってなあ。あんたが誰の頼みで来たかは知らねえが、滑稽だよなあ」

「だが、それは助けない理由にはならない」


 春香は冷たく言う。


「今連れ戻しても、どうせまた売られるぜ、そいつ」


 答えない。


「ツンゾに売った人間を連れ戻す理由は二つ。惜しくなったか、もっといい買い手がついたか。どっちかだ。そのガキはどっちだろうなあ」

「黙れ」


 ザシナは左手から雷の弾丸を連射した。それらを刀で受け止めながら春香は接近する。逆袈裟──弾かれる。だが勢いはそのまま、足払いを掛けた。成功。尻餅をついた彼の喉を刺そうとするが、紙一重、避けられる。


 勢いよく立ち上がったザシナは木の棒を振り回すように、軽々と連撃を行う。どうにか防御しているが、春香は徐々に壁際に追い詰められる。ついに、背がついた。


「終わりにしようぜ!」


 大振りな真向斬りが来る。春香はその間合いの内側に潜り込み、脇腹を刺した。ザシナはふらふらと蹌踉し、しかしニイッと笑った。みるみるうちに傷が塞がる。肉体を司る水の力を纏っていたのだ。黒は水の色。黒みを帯びた赤は、雷と水、両方への適性を示すのだ。


「雷神よ」


 ザシナは立ち止まったまま詠唱を始める。それを聞いた春香は雷を纏って懐に飛び込もうとする。だが、紅く半透明の壁が阻んだ。


「我が魂を以て、地に神力を示せ!」


 ザシナが野太刀を高々と掲げる。そこで、バチバチと音を立てながら光が生まれた。


「天声!」


 大袈裟なほどに声を張り、彼は自らの術の名を言う。振り下ろされた得物からは稲妻が駆けだし、春香に迫る。刀でそれを受けるも、莫大な力の奔流に晒された刀身は揺れ、ヒビが入る。


「このまま……返す!」


 叫んだ。渾身の力で刀を振り抜き、受け止めた雷をそのまま飛ばした。春香の魂の力も加わったそれは、ザシナの野太刀を折り、心臓を貫いた。


 はれ。導術を知らぬ春香がそれに対抗するために身に着けた、反射技だ。


 静寂。仰向けに倒れる、ザシナ。重い体を動かして、春香は近づいた。手首を掴み、脈を測る──止まっていた。その手を離した時、背後から、


「よっ」


 という声がして、振り返った。血塗れの頸創が立っていた。


「外の連中はどうした」


 春香は暗い声で尋ねる。


「粗方殺したよ」

「そうか、大変だったな」


 二人は何を言うこともなく丸太小屋を出た。血。夥しい、血。遅れてやってきた足軽が、生きている者を縄で縛っていた。


「これで、この辺りじゃツンゾは活動できねえな」

「ああ」


 あばら家の並ぶ道を往く。


「この人殺し!」


 足軽に引っ張られていく女が叫んだ。


「人攫いに罵られる謂れはねえよ。なあ?」

「そうだな」


 春香は目の前のことを考えていなかった。ただ、誰もが連れて行かれたこの村が、故郷と重なったのだ。


「帰るぞ。嬢ちゃんが待ってる」

「そうだな」

「ホントに聞いてんのか?」

「ああ、聞いている……」


 遠くを眺めてぼうっとしている春香を見て、頸創はその尻に蹴りを入れた。


「なんだ」

「ここは雷生じゃないぜ」

「そうだな、そうだ……帰ろう、待たせているからな」


 歩き出せば、風が吹いた。


「頸創」


 洞窟を出た辺りで、春香が口を開いた。


「刀にヒビが入った。修復をしてもらいに行くのだが、護身用の刀が欲しい」

「クィアヤブリアはどうだ?」

「封印しただろう」

「冗談だよ。蔵に眠ってるのがある。好きに持っていけよ」

「そうさせてもらう」


 帰りも同じ峠を通る。走れないもどかしさも、行きよりは幾分かマシだった。急ぐ必要もなく、ただ雨が降るや降らないやということを気にしてばかりだった。


「嬢ちゃんのこと、よろしく頼む」


 峠を越えて森に入った頃、頸創が言った。


「兄貴に引き渡すのかもしれないが、それまでの間、心まで含めて守ってやってくれ」

「俺に……できるだろうか」


 俯いた春香。紅い鞘の刀は歴然としてそこに存在する。だが、それでできるのは外敵を討つことだけ。そうすることしか、彼は知らない。


「あんたは心が死んでるわけじゃない。ゆっくり向き合えばきっと何とかなるさ」

「心が、死ぬ?」

「人を殺してるとよ、そういう風になっていくんだ。何にも感動しなくなって、その内屍みたいになっちまう。殺人ってのは、自分を殺すことなのかもしれないな」

「それを避けるためには、どうすればいい」

「さあな。俺だってもう死に始めてるのかもしれねえ。でもよ、美味い飯食って、いい景色を見て、そういう原始的な感動を大事にして、それで……何かを救うって喜びを持ち続ければいいんじゃねえかな」

「俺には、救えなかったものがある」

「そらそうさ。俺たちは手の届く範囲でしか守れない。だから、その範囲にあるものを大事にするのさ」


 手の届く範囲、ということを春香は考える。手を伸ばして抱き締められるのは、一人だけ。そうではない。もっと多くのものを守りたい。それだけの力は、今はない。


「ま、あんたぐらいの歳なら背伸びもしたくなるよな。否定しないぜ。そういう若さって大事だ」

「お前だって若いだろう」

「もう二十歳だ。もうすぐ人生の折り返しだな」


 狩人の寿命は長くない。それを突きつけられて、彼の中で未来への恐怖が芽生えた。遺せるものがあるのかという、その恐怖が。


 子を成す。雷業の力を継ぐため。だが、伴侶の当てもない。クィオウは死んだ。リズは……。


「よし! 競争しようぜ! 遅れたほうがかつ丼奢るってことで!」


 そう言った頸創はもう走り出していた。


「卑怯だぞ! 頸創!」


 後を追う。雲が、少し晴れた。





 二日後。佳代子を含めた『商品』を回収した足軽が南港に帰還した。佳代子は鎌風の屋敷に連れて行かれ、父と対面していた。

「ホンットウにありがとうございます!」


 父は春香に向かって土下座した。禿げ上がった頭が陽光を反射する。


「さすが雷業様です。おお佳代子……無事か? 乱暴はされていないか?」


 佳代子は答えない。ただ、下を見ている。


「俺は為すべきことを為したまでだ」

「いえいえ、ご謙遜なさらず。ツンゾの拠点に乗り込むなんて、大変な勇者です」


 春香はそれをおべっかとして受け取る。正直なところ気分が悪いが、それを出さない社会性はあった。


「さ、帰ろう。雷業様、この恩は一生忘れません」


 立ち上がった父が佳代子の手を取る直前、春香が


「一つ、聞きたいことがある」


 と言った。


「娘を売ったというのは本当か」


 その言葉が口から出てきた時、父はビクリと体を跳ねさせた。


「そそ、そんなことは……」

「どうなんだ」

「へへ、いやあ……なあ、佳代子」

「……そうです」


 佳代子は顔を上げないで言った。


「私は、父に売られました」


 娘にきっぱりと言い切られて、父は再び土下座するしかなかった。


「金が必要だったんです!」


 大声。


「でも、やっぱり佳代子は大事な娘だったんです。そこにピジョって男が現れて、雷業様ならきっと取り戻してくださると言ったんです!」

「なら、娘をこの屋敷で雇おう」

「え⁉」


 男が面を上げる。予想外の提案を受けて、間抜けな顔をしていた。


「異論あるか」

「そんなことは……ありませんが」

「なら明日から働いてもらう。佳代子もそれでいいな」


 彼女はこくりと頷いた。


 二人は何度もお辞儀をしながら屋敷を発った。それを春香が見送っていると、その肩を頸創に叩かれた。


「あんた、何勝手に決めてんだよ」


 頸創は軽く彼の頬を突く。


「駄目だったか?」

「一言くらい相談してくれてもいいじゃねえか」

「すまない」


 彼は几帳面に頭を下げた。


「ま、あんたのやったことは正しいと思うぜ。ああでもしなきゃ、今度は身売りでもすることになっちまうしな」

「そうか」

「あんた、もうちょっとは愛嬌あった方がいいぜ」


 そうは言いつつも、頸創は笑っていた。


「お昼御飯ができましたよ!」


 リズの細い声がした。二人は、桜の香が乗った風を感じながら、屋敷に戻るのだった。

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