春香は沈黙が支配する街にいた。真っ黒な空の下、誰の気配もなく、ただひたすらに孤独なまま大通りをふらふらと歩いていた。
「お前のせいだ」
声が脳内で響いた。二重三重の声だ。
「お前の弱さが殺した」
目の前に死体の山が現れる。その頂点から一つ転がり落ちるものがあった。眉間に弾痕のある亡骸。
「お前のせいだ」
それが言った。わかっている──とは言えない。喉に膜ができたように声が出ないのだ。
「お前の弱さが殺した」
その声に、彼は胸を刺されるような痛みを覚えた。気が付けば屍は消え失せて、代わりに黒髪赤目の少年が立っていた。風が一陣。転剣龍が空を舞う。少年は吹き飛ばされて、粉のように散った。
歩く先に、紅い羽織と銀髪の男の姿が見えた。兄上、と呼びかける前に男は振り返る。目玉の抜け落ちた顔をしていた。
「お前のせいだ」
春香は肝を冷やす。気が付けば兄は消えて、無人の静寂ばかりが残っていた。
「お前の弱さが殺した」
突然、脚が鉄のように重く、硬くなる。立っていることもできなくなる。大地に引っ張られるようにして倒れた彼は、そのまま液状化した地面に沈んでいく。藻掻こうとは思えなかった。断罪なのだ。そう、自然と彼は受け入れていた。
「春香さん!」
少女の声。だが彼は耳を貸さない。黙したまま灰色の海の中へ。そうやって窒息してしまえば、全てから解放されるように思えたのだ。
「春香さん、起きて!」
突如、視界が開けた。眼前にあるのは質素な庭と夕焼け色に染まった塀。
「また、悪夢ですか?」
肩を掴むリズが、不安げな顔で言った。二人のいる縁側には、湯飲みを乗せた盆が置いてあった。
「寝ていたのか……」
彼は呟いた。
諸々の後始末が済んで、三人が屋敷に戻ってきたのはもう夕方のことだった。春香の傍らには、すっかり大人しくなったあの黒い刀があった。
「やっぱり、眠れてないのが響いているんですよ」
「いや、気にしないでくれていい。大したことじゃない」
そう言う彼の顔は青い。
「……わかりました」
強がりとわかった上で彼女は答えた。
「その刀、もう大丈夫なんですか?」
湯飲みを差し出しながらの問いだった。
「封印だけだ。しかし、抜かない限りは問題ない」
茶を一口。暖かいものは、心まで暖めてくれる。
「解呪を試みたが、かなり強い呪いだ。魂の力を強引に流し込むだけでは祓えん」
そう言う彼の呼吸は浅い。
「なあ、リズ」
何か話していなければ再び悪夢に襲われそうで、彼は口を開いた。
「この刀を抜いた女は君の名前を口にしていた。何故だ?」
「……龍仕人の力があるからじゃないでしょうか」
その言葉は全てを語っているわけではない。春香にもそれはわかった。
「そうか」
可能な限り平静を装う春香。その胸中がどれほど見抜かれているかは、彼自身悟りようもなかった。
「俺には、その力にどれだけの価値があるかわからない」
少しずつ、言の葉を紡ぐ。
「神の声を聞くことにそれほどの意味があるとは、思えないんだ」
「龍仕人はあらゆる術を使いこなせるそうです。私にはできませんけどね」
「封印というやつか」
春香はクィアヤブリアの刀を一瞥する。朝の殺しの後、刀を拾い上げても彼には呪いは通じなかった。頸創曰く、雷業の強い魂の前にはその強力な呪いも歯が立たないらしい。
「そうです。でも、私より頸創さんの方が詳しいですよ」
さあっ、と風が吹いた。
「お食事ができましたよ」
老婆の声がした。
「今行きます!」
リズは振り返り、立ち上がりながら応える。
「ほら、春香さんも」
そうやって差し伸べられた手を、彼は握らない。善意を踏み躙ろうと思ったわけではない。何かに依ってしまうことが少し恐ろしくなったのだ。
奥座敷では、四つの膳が正方形に並べられていた。下座には老婆、その右に頸創。中心には薬缶。膳の上には鯛の煮つけに麦飯、豆腐の味噌汁、空の湯飲みが置かれていた。
「いい鯛をいただきまして」
老婆は手を擦り合わせながら言う。立ち上がって、茶を注いでいった。
「そうか」
そっけない言い方だ。悪気がないことは老婆もわかって、ニコニコと受け止めた。
春香は上座に座る。彼は大して気にしていないが、頸創はそうするよう強く言う。雷業と鎌風では家の格が違いすぎる、と。
そういうやり取りをする度、彼は己の無知を知る。世界は広いと知る。父がもう幾許か長く人であったなら知れたのかと思って、厭になる。仮定に意味はない。頭を横に振って消し去った。そっと、膳の前に座る。
静かに合掌して、食事に手を付ける。老婆の料理の腕は大したものだと彼は思っている。味噌汁の味噌の量がちょうどいいことは、料理のりの字も知らない彼にもわかった。
「いつも、ありがとうな」
頸創が照れくさそうに言う。
「でも、一人じゃ大変だろ。もう二、三人いたほうがいいんじゃないか?」
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
老婆は小さな口に煮付けを運ぶ。よく噛んで、飲み込んだ。
「しかし、そうですねえ。私ももう長くありませんから、後を託せる人を育てなければなりませんね」
「そんなこと言うなって……」
本来、南港くらいの都市の狩人となれば、奉公人の十人はいるはずのものだ。それが一人。はっきり言って異常だった。
それを変えるための金はある。商人に課している税だけでなく、航海に必要な水、食料、薪炭。それら全てから得られる税収は相当のものだ。
「頸創、刀の出所はわかったか?」
鯛が骨だけになったところで、春香が口を開いた。
「俺が訊きたいくらいだ。持ち主が死んじまったら手も足も出ねえ」
頸創とリズは目を合わせて、逸らす。
「隠し事はやめてくれ」
「わかった。話すよ──」
というところで、
「ごめんくださーい」
という中性的な声が玄関からした。頸創が席を立って、歩く。
戸口に立っていたのは、女なのか男なのかわからない人間だ。背はそう高くない。銀髪金眼ははっと目を引き、メイド服はその下にある筋肉の存在を隠さない。しかし、何よりその右手に握られた、身長ほどの黄金の斧槍が目立つ。
(火霊(ほむすび)?)
カミハテ四氏族の内が一つ、火霊。炎の力を代々受け継ぎ、その金色の瞳と銀色の頭髪が象徴だ。
「用事は?」
「刀を頂きに参りました」
頸創は反射的に背中に手を伸ばす。だが、そこに武器はない。
「まずは名乗ってもらおうか」
「カガリと申します。フバンハより参りました。クィアヤブリアの刀、こちらにあるのでしょう?」
「目的は?」
「あの刀は今代龍仕人、レルガ様のものなのです」
「へえ。俄かには信じられねえな」
頸創は鼻で笑う。その顔の横を斧槍の穂先が掠めていった。空気が張り詰める。
「押し通りますわよ」
「おいおい、喧嘩をしに来たなら帰ってくれよ。売っちゃいねえんだ」
徒手で斧槍は制せない。頸創は、ここはひとまず相手の話を聞こうと思って黙った。するとカガリは武器を引き、構えを解いた。
「元々、あの刀は我々セチアの管轄だったのです」
セチア──顎を意味するが、この場合は龍仕人から直接の指示を受ける親衛隊のような組織のことを指す。
「それが持ち出され、このような場所に流れ着いたようなのです」
「で、あんたはその回収に来たってことかい」
「ええ。察しが良くて助かりますわ」
さて、困ったぞ。彼はそう思った。話の筋は通っている。だが、目を見ればわかる。この者は、セチアではない。嘘を吐いているのだ。僅かに瞳が揺らいでいる。
「東の狩人が龍仕人に協力すると思うか?」
「貴方がたが持っていても何ら価値のないものです。引き渡しても失うものはありませんわ」
「それに封印をした。悪いが、帰ってくれ」
「封印などされては困ります。あれは探し物に役立ちますから」
「探し物?」
そう言う彼の後ろから、リズと春香がやってきた。それを認めたカガリは素早く飛び出し、その手の斧槍でリズの胸を突き刺した。
「例えば、こうやって真なる不死を見つけ出す、とか」
ずるり、穂先が抜けるとリズは力なく倒れる。
「ねえ、お兄様」
カガリはそう口にする。歪んだ笑みを春香に向けた。
「やっと、出会えましたね」