それから一週間が過ぎた、早朝。頸創は奉行所を訪れていた。
「それで、結局何もわからず仕舞いか?」
座敷で、清然に向かって彼は言った。
「ああ。肉体的な異常は全くない。魂だけを殺すことはできるのか?」
「正確には魂の座だな。魂そのものは知覚不可能だ。精神と魂を結び、肉体に力を巡らせる起点が魂の座だ。そうだな……人一人生贄に捧げれば座を破壊する呪物は作れる」
「思うに、あの刀がその呪物だ」
「そうだな、それについては同意するぜ。解呪を試してみる。幸い、春香が得意みたいだからな」
「任せる──」
そこで、悲鳴が上がった。駆け出して、階段を下りた。真っ赤な刀身をした刀を振り回す、力のない瞳のパッとしない男がいて、その足元に女性が倒れていた。血は流れていない。
「武器を捨てな」
長巻を抜きながら頸創は言う。
「リズ……」
怪訝そうな顔を彼は浮かべる。
「リズ・ユヤデオナ……」
その言葉を聞いた彼は、素早く飛び掛かった。顔面に跳び蹴りを食らわせ、左手で相手の右腕を極める。刀が落ちたのを確認してから押し倒し、首に得物を突きつけた。
「わ、私は……」
「あんた、さっき自分がなんて言ったか覚えてるか?」
「いえ……」
「ならいい」
長巻を納める。
「だがこれで確定したな。この刀は呪われてる」
赤い刀を拾い上げ、近くに落ちていた黒い鞘に納刀する。
「んじゃ、後のことは任せた。俺はこれを屋敷に持っていくよ」
「ああ、よろしく頼む。しかし、持って大丈夫なのか?」
「誰かがやんなきゃならねえことだ。ま、俺の精神はそんなヤワじゃねえよ」
奉行所を出た。港に面していることもあって、朝日に照らされながら出航する蒸気船が良く見えた。頸創は、ある街で外輪船とスクリュー船の綱引きを見た。結果は後者の勝ちで、外輪船は駆逐されつつあった。
(さて、何を食ったものか……)
何か、見えない糸に誘導されているように歩く。大通りから外れて、狭い道を行く。目覚め始めた街に、足音が残響した。
春も盛りという頃で、川沿いには桜が咲いている。土手を散歩する者の姿もある。
(そうだよな、こういうもののために狩人はいるんだ)
なんてことを思いもした。
『春夏冬中』との看板が出た蕎麦屋に入る。そこでは、見慣れた黒髪に赤目の少年と、金髪の少女がいた。
「よっ」
軽い挨拶。
「釜揚げ蕎麦頼むぜ」
懐から小銭をいくらか看板娘に渡した。向き合って座っている二人。頸創はリズの隣に座った。
「その刀はなんだ?」
「例の辻斬りが持ってた刀だよ。お前に解呪してもらおうと思ってな」
「わかった。任せてくれ」
春香が刀に手を伸ばした時、頸創はそれを遠ざけた。
「どうした?」
「え?」
奇妙な沈黙。
「俺が解呪するなら今渡すべきだろう」
「なんだ、いいだろ、別に」
少し空気が悪くなる。リズが暗い顔をしたのを見て、二人はまた黙った。
そこに蕎麦が来る。一緒に盆に乗っている小さな瓶は、つゆが入っている。それを注いで食べるのが釜揚げ蕎麦だ。麺は黒く、蕎麦の実を甘皮まで丸ごと挽いた粉が使われている。
「今日、予定はあるか?」
春香が尋ねた。
「特にないな。あんたは?」
「まずは解呪をしなければな。札を貸してほしい」
「あー……後回しでいいだろ」
春香にしてみれば、至極当然のことを言ったつもりだった。それを否定されて、少々の疑問を持つ。よく頸創の顔を見れば、眠いような、どろんとした表情をしていた。
「今日はどうしたんだ? ぼんやりとしているように見えるが」
「そんなことねえよ、なあ、嬢ちゃん」
「春香さんの言う通りだと思います。お疲れなんですか?」
「だからねえって……」
さて、食べ終えた頸創は立ち上がって、外に出ようとした。だが、引き止められる。看板娘が刀を万力のような強さで握っていたのだ。その目に光はない。
「ハナセ」
女のものとは思えない、低い声だった。
「ハナセ!」
耳を劈くような声。彼は、それを渡してしまう。
「頸創! 何をしている!」
「は……?」
女は刀を抜いた。燃えるような刀身が裸になった時、彼女はこの世ならざる叫びを上げた。
女は鞭のような鋭い動きでリズに迫る。振り下ろされた刀を春香の一振りが弾き、両者は対峙する。彼は刺突を避け、片手で女を外に投げ飛ばした。
扉を下敷きにした彼女は、刀に引っ張られているようにして起き上がる。そして、地面を蹴る。その様は疾風のようだ。だが、速さの勝負で春香が負ける理由はない。落雷のような激しい音と共に加速した彼は女の頭を掴み、地面に叩き付ける。
制圧した、と彼は思う。しかし女は抵抗をやめず、顔に覆いかぶさる手をどかそうと藻掻いていた。徐々に、徐々に春香の手は持ち上げられていき、ついには振りほどかれてしまう。
(殺すしかないのか⁉)
猿叫めいた声を上げながら、女は上段に構えて突っ込んでくる。馬鹿正直な一撃を半身で躱しながら、彼は相手を憐れんだ。あの刀には何かがある。おそらく、抜いた者を狂わせるのだろう。それくらいのことは察せたが、それに翻弄されて死ぬ人間を思うと、やりきれない気持ちになった。
しかし、それを振り切らなければ死人が一人で済まないことも承知していた。彼は一歩踏み込み、喉を刺した。一瞬の硬直の後、彼は刀を引き抜く。真っ赤なが血が噴き出して、蕎麦屋の床を汚した。
だが、死なない。女は呻きながら、琥珀色の瞳で春香を睨めつける。
「リ……ズ……」
声を出す度、ぼこぼこと血が泡立って零れる。
「トリ……モドス……」
女はフラフラと、何かに引き寄せられるようにして歩き出す。
(なんだというんだ!)
彼は相手の心臓に刀を突き立てる。押し倒す。馬乗りの体勢から何度も刺した。早く死んでくれと願いながら。
それでも動く脚を切り落とす。はいつくばって進もうとする腕を切断する。そうやって達磨になった彼女は、もうビクリともしなかった。
吐き気を催す。それを抑え込みながら店の中に戻る。騒ぎを聞きつけて出てきた店主が、青い顔をしていた。
「店先を汚してしまった。すまない」
謝りながら椅子に座る。
「頸創、人を呼んできてくれ。俺は少し休む」
頷いた頸創は走り出した。春香は深い溜息を吐き出す。
「大丈夫ですか?」
リズの細い声も、誰も黙りこくった空間ではよく響いた。
「少々疲れただけだ。気を遣わせて悪いな」
溜息がもう一度。嫌な殺しだった。