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頸創という男

 南港はその名の通り港町である。始原島の南端に位置し、大陸の西と東を海路で結ぶ、重要な場所であった。


 赤煉瓦の並ぶ港には、燕尾服の紳士も、ドレスの婦人も、半裸の人夫も、刀を差した侍も。雷業春香の一行も、白昼ではあるがその中に紛れていた。


 道の端には混凝土の電柱と、そこから延びる電線。春香にはそれが奇異に思えた。


「んで、どこで合流するんだ?」


 頸創は赤い着物のリズを背負った彼に大声で問うた。常に騒がしいこの街で会話をしようと思えば、叫ぶか囁くしかなかった。


「どうしたらいいんだろうな」

「そんなところだと思ったぜ。全くあんたは……」


 頸創が春香の前に立つ。


「ついてこい。鎌風家の屋敷に行く」

「鎌風……ここを守護している狩人か。いきなり訪ねて迷惑にならないだろうか」

「同じ狩人だ。行き場がないなら受け入れてくれるさ」


 人の波を掻き分ける頸創に、彼はついていった。


 四半刻の更にもう半分ほどが経過した。港の喧騒が嘘のように静かになった。木と漆喰の道を往き、そして大きな門の前に立った。両脇の柱には『鎌風』の文字。


 春香は、頸創が吐瀉物を呑み込むような顔で足を止めていることに気づいた。その胸中にある思いを計り知れずとも、何かがあるということは把握できた。


 故に、最初に屋敷の土を踏んだのは春香だった。前庭は簡素なものだが、池も植栽も丁寧に手入れされている。飛び石の上を歩き、玄関に入った。


「頼もう」


 声は響くばかり。


「頼もう!」


 もう一度、今度は声を張り上げた。


「はーい」


 しわがれた声が返ってきた。


 少し待つと、腰の曲がった老婆が現れた。汚い老人、というわけではなく、皴の刻まれた顔には愛嬌があった。


「これはこれは……雷業様でいらっしゃる」


 老婆は彼の瞳を見て、手を擦り合わせた。


「それに、頸創様まで」


 名を呼ばれた頸創は表情を柔らかくした


「ばあや、親父は?」

「土の中でお眠りになっております」

「龍の呪いか」


 春香が言った。狩人の使う術──頸創が灰鋸龍との戦いで使ったような超常現象を起こす導術どうじゅつと、春香の鳴崩のような魂の力を纏う纏術まといじゅつ。それらは全て、龍の肉を食らうことで得られる龍の力を用いる。その反動として、狩人は呪いを受けるのだ。それが蓄積されれば、やがて不死の獣となる。


「立ち話もなんですから、どうぞ中へ」


 屋敷の中は奇妙なものだった。玄関の床板には一つの埃もないが、開け放たれた襖の向こうでは座布団や茶碗の破片といったものが散乱しており、茶で痛んだ畳もそのままだ。壁に刀が突き刺さり、血が散っている。


「なんだよこれ……」


 頸創の呟きは、静謐な空間に木霊した。


「せめて、ここに御屋形様がいた証を残しておきたく存じまして……」


 震える声で語る老婆をよそに、頸創は壁の刀を引き抜いた。陶器の欠片を一つ拾った。その腕に老婆が縋るが、龍に近い肉体を持った狩人をただの人間が止められるはずもなかった。


「ばあや、俺たちは今日を生きなきゃならねえ」


 頸創が彼女を見た。


「俺も親父が嫌いだったわけじゃねえ。その生き様を残すことが必要だってのもわかる。でもよ、これは違うだろ」


 心を理解して、続きを言葉にするには少々の時間と停止を必要とした。その間に老婆は彼から離れて、ただ眺めるしかできなくなっていた。


「俺はな、鎌風家の産まれなんだ」


 力なく彼は言う。その後ろで、春香はリズをそっと土間に下ろしていた。


「狩人の家は龍を狩って、街を護って、五十になる頃には呪いで狂って、それを跡継ぎが殺して狩人になって、ってのを繰り返す。それを強制し続けるこの街と、それを黙って当たり前にしちまうこの家に一回泥を塗ってやりたくなった。だからこの街から出ていったんだ」

「力を持ったのなら、そこに義務と責任が生じる。狩人とはそういうものだ」


 春香のその言葉が、彼の最も嫌いなものだった。彼は破片を捨てて春香に向き直り、ずいと顔を近づける。


「俺はな、何も知らされないで龍の肉を食ったんだ。そうして手にした力に、義務も責任もあるものかよ」


 反駁はなかった。しかし──と言いかけた春香の言葉があったのみだった。


「……一人にさせてくれ」


 そう言い残して彼は屋敷を去ろうとする。その背中に、老婆が言葉を投げかけた。


「頸創様、一つお伺いしてよろしいですか?」

「んだよ」

「そこのお子さんは、頸創様のお世継ぎでしょうか」

「訳アリのガキだ。しばらくここに置かせてくれ」

「お名前は?」

「リズだ。……とにかく、ほっといてくれ。頭の中を掃除したいんだ」


 Liz(リズ)というのは大陸共通語で『助ける』を意味するありふれた名前だ。この街だけでも何人もいるだとう、というほど。しかし苗字の方は、少し違う。


「こちらへ。お部屋へご案内いたします」


 老婆に連れられて、二人は二階へ。綺麗な座敷に通された。


「ご自由にお使いくださいませ。オホホ……」


 口元を手で隠しながら老婆は笑った。その意図を推し量りかねて、春香はその背中を見ていた。


「あの、春香さん」


 リズが彼の袖を引っ張って言った。


「お兄さんの言いつけで私を探していたんですよね。何故ですか?」

「わからない。だが、兄上が望むならそうする。それだけのことだ」


 彼女の表情に不安が浮かぶ。


「そう心配するな。兄上が君に危害を加えるような人でないことは、この俺が保証する」


 不器用に笑ってみせた。それが彼女の心を解きほぐしたかは定かではないが、彼はそれで満足していた。


「なぜ処刑されることになったかは、話してくれるか?」

「……すみません」

「そうか。まあ、兄上と合流すれば聞けることだろう」


 春香は窓辺に座る。


「これから座禅をしようと思う。君もするか?」

「楽しいですか?」

「楽しくはないが……心を整えるなら一番の方法だ」

「何か、整理したいことが?」

「そうか。君には話していなかったな」


 正面に座ったリズに彼は視線を向ける。先日のことを大まかに告げた。その時に発生する、傷を抉り返すような痛み。愚かな自分への罰なのだ、と受け入れていた。


「父殺し……」


 そう言って彼女は暗い顔で俯いた。


「どうした?」

「私を処刑しようとしたのは、育ての父なんです。その、詳しくはまだ言えないんですが、私は特別みたいで……私の持ってる力を誰かが得ないように、ガゥザ島の狩人に殺させようとしたんです」


 ガゥザ、というのは大陸での始原島の呼び方だ。


「それなら、なぜ頸創と共にいる」

「わかりません。頸創さんも『ある人からの依頼だ』としか言ってくれなくて」

「依頼、か」


 自分も似たようなものだな、と彼は感じていた。詳細もわからないまま状況に動かされている。


「兄上が君を探す理由。それが頸創の依頼と利害が衝突してしまった場合、俺はどうすればいいんだろうな」

「さあ……」


 力のない返事だった。


「座禅、しましょう」


 とリズ。


「そうだな。静かに、自分の奥底に沈んでいくんだ」


 彼女は慣れない胡坐をかいて、目を瞑った。


「足は腿に乗せるんだ。辛いなら片方だけでいい」


 困っている。それを見ていると、春香はかつての許嫁のことを思い出した。


「目は少し開けて、斜め下を見るんだ」


 春香は彼女の様子を見ながら落ち着いた声で助言する。


「ゆっくり呼吸するといい。そうすれば自然と精神が統一される」

「脚、崩していいですか?」

「駄目だ」

「ひえぇん……」


 気の抜けた声がおかしくて、彼は失笑してしまった。


「なんですか」

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」


 沈黙の時間が流れた。差し込んでくる暖かい陽光を全身で受けながら、春香は自分の深層へと潜っていく。


 そうなると、どうしても故郷のことを想ってしまう。民は本当に無事に逃げおおせたのか、兄を疑うわけではないがそういう気持ちも生まれてしまう。


(母上……)


 母の体は頑丈というわけではなかった。むしろ病気がちで、大陸から来たロデナという医師がよく屋敷を訪れていた。街に残っていた家臣たちがどうにか説き伏せて連れて行ってくれたのだろう、と希望的なことを思う。


 死体の山が見える。消してしまいたくて頭を振った。だがどこにもいかない。目の前に歴然として存在し続ける。背中が焼かれるような感覚。呼吸が浅くなる。荒くなる。怖くなる。眉間に穴の開いた男が刀を振り翳して──!


「──さん、春香さん!」


 呼びかけられて、ハッとなった。目の前には必死な顔のリズ。


「故郷のことですか?」

「そうだな……そうだ……駄目だ、こんなことでは斃れた者たちが報われない……」

「そんなに自分を責めないでください」


 彼女の瞳は真っ直ぐで、春香はそれを見ていられなかった。


「私はこういう時にかける言葉を持ち合わせませんが……亡くなった方たちもあなたを恨んでいるわけではないと思います」

「わからない」


 ぽつり、しかし即座に彼は呟いた。


「何もできなかった俺を憎みながら死んでいったかもしれない。いや、そんなことを思う暇もなかったのかもしれない。全ては俺の責任だ。俺が、奴らの存在を考慮できなかったから! 悪いのは俺なんだ、俺が、俺が!」


 リズが立ち上がって、彼の顔を両手で掴んだ。そして、抱き寄せた。


「私も、どうしたらいいかわからないんです」


 春香は未発達な胸の中で泣いていた。


「でも、話は聞けます。だから、全部吐き出してください」

「君は、俺を赦してくれるのか」

「赦すとか赦さないとかじゃありません。ただ、受け止めるだけです」

「優しいんだな、君は」


 大粒の涙がリズの赤い着物を濡らす。むせび泣く声だけが、座敷にあった。


 ──どれだけそうしていただろうか。春香は枯れた喉で


「ありがとう」


 とだけ言った。


「私にできるのは、これくらいですから」


 リズの表情を、彼は見られない。慈愛に満ちているのか、困惑しているのか。前者であることを望みつつも、後者である可能性を捨てきれない。


「ゆっくり休みましょう。急ぐ必要なんてないんです」


 彼には、甘えている自覚があった。だが脱せられない。ただ申し訳ない気持ちで胸を満たしながら、泣いていた。

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