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雨中の出会い

 その日も、雨が降っていた。田植えを待つ水田が広がる、小さな集落。その畦道に一人の来訪者の姿があった。濡れそぼった体をズタズタの服に包み、身を縮ませながらふらふらと歩いていた。水を吸った袴は重く、それに耐えかねたように来訪者は倒れ込んだ。


「もはや、これまでか……」


 彼は呟いた。来訪者の名前は雷業春香。兄に言われた通りリズ・ユヤデオナを探して放浪し、三日ほどが過ぎたところだった。ほとんど空の胃袋を抱えて立ち上がろうとするが、手が滑ってぐしゃりと突っ伏す。


「おい、大丈夫か?」


 誰かが声をかけた。重い頭を持ち上げると、深草色の羽織を着た茶髪の男が傘を被って立っていた。


「行き倒れかあ? 飯くらいなら食わせてやるけどよ、どうだ?」


 言いながら男は春香を担ぎ上げる。春香と変わらない体格の彼の背中には、長巻が下がっていた。


「俺は……狩人だ」


 春香は言葉を絞り出す。


「施しを受けるわけには……」

「食ってから働いてもらうさ。黙って助けられてろよ」


 誰とも知れない方の上で揺られながら、春香は己の不甲斐なさに涙した。闘いから逃げ、何も得られないまま今度は人に拾われる。父の背中はいまだ彼方にあった。後悔の中、彼は重くなる瞼に抗えなかった。


 次に目を開いた時、膳があった。麦飯、よく焼いた干物、豆腐の味噌汁。畳の上、彼は必死に理性を働かせんとする。服も新しいものに替えてあって、これ以上の施しを受けるのは沽券に関わる。しかし暖かい食事は淫魔のように誘惑をしてくる。負けてはならないと心中繰り返しながら、気がつけば彼は味噌汁を啜っていた。


 箍が外れてしまえば、簡単だった。箸を取り、麦飯を掻き込む。干物をバリバリと喰い千切り、腹に収める。腹から温度が広がって、どっしりとした安堵が全身の力を抜かしてく。春香は静かに合掌した。


「なんだ、起きたのか」


 襖が開いて、先ほどの男が現れた。


「どうだ、美味かったろう?」

「ああ。ありがとう。助かった」


 春香は深々と頭を下げた。


「悪いな、急なことで布団を用意できなかった」

「いや、そんなことはない。命を救ってもらって、贅沢は言わんさ」


 男は部屋に入って、どさりと胡坐をかいた。その目は緑青の色をしていた。髪は後ろで一つに纏めてあった。


「俺はけいそう。あんたは?」

「雷業……雷業春香だ」

「雷業? そんな名家の跡取りがなんでこんなとこいるんだよ」

「人を探していてな」


 そこまで言ったところで、湯飲みを二つ乗せた盆を持って、使用人の女がやってきた。彼女は白磁のような肌に長い金髪、青い眼と異国情緒を思わせる容姿をしており、春香も一瞬目を奪われた。まだ子供だが、容貌はこの先の未来を期待させるものだった。


「ありがとな」


 頸創はそう言って盆を受け取り、二人の間に置く。


「リズ・ユヤデオナという少女だ。知っているか?」

「あんた、どこでその名前を聞いた?」


 彼の表情が俄かに厳しくなった。


「深入りするのは趣味じゃねえが──」


 茶を一気に飲み干す。


「俺の頼みを受けてくれるなら、その人探し、手伝ってやるよ」

「いいのか? ここまで恵んでもらっているというのに」

「その貸しを含めての頼みだ。龍を狩ってほしい」

「龍を?」


 春香は茶を一口飲んだ。動揺がなかった、と言えば嘘になる。転剣龍相手に生き残ったのも運が良かったからだ。それが二度も続く保証はどこにもない。そう思うと、再び龍と闘うことは恐ろしかった。それでも、使命から逃げることを彼自身許せなかった。


「まあ無理だってんならいいんだけどよ、どうだ?」

「いや、やらせてもらう」

「よし、交渉成立だな。詳しいことは後で話し合おう」


 そう言って頸創は去った。


「ちゃんと休めよ」


 それを最後に襖が閉じられた。


 夜が来た。用意してもらった布団の中、春香は寝付けないまま横になっていた。目を閉じれば死体の山が見える。無人の街が見える。兄の背中が見える。


「何も……できなかった……」


 自然と呟いていた。何ができたというわけではない、ということは彼自身重々承知していた。磨き抜かれた個人技も、大群の前には何の意味をなさない。重要なのは連携であって、戦略的な行動なのだ。あの黒衣の集団を事前に察知できなかった時点で、何をしても結果は変わらなかったろう。それはわかっていてなお、彼は自分にできたことを探していた。理由が欲しかった。


 結局、故郷から背を向けた先で、誰かの善意に生かされているという現実は変わらない。情けなさに泣きたくなって、踏ん張った。涙は状況を変えないからだ。


 体を起こす。ふと、刀に手を伸ばしてみた。抜いて、刺す。それだけで死ねる。そう考えると、命など風前の灯火に等しく感じられた。それを守るために、一所懸命に手を翳している。生きている自分が、少し愚かしく思えた。だが使命がある。その一点のみが彼の崖際の生命を引き留めていた。


 三日後の昼。晴天の下、頸創と春香は集落近辺の山中にいた。茂みに身を隠しながら移動する彼らは、一歩進む度に左右に視線をやって、落ち着かない様子だった。春香の方は全身の血が沸騰するような感覚を抑えつけることに必死だった。


「いたぞ、あいつだ」


 頸創が指差した先には蜥蜴のような体型の、灰色の龍がいた。灰鋸龍である。転剣龍によく似た、前腕と一体になった翼。太い脚を忙しなく動かして地を這っている。その目は碧色をしており、時折高く首を上げてその目をぎょろぎょろとさせていた。


「爪には気を付けろよ、毒がある」

「ああ、わかっている」


 そんな会話をしながら、二人は得物を抜いた。


「俺に合わせろ!」


 頸創は鞘を灰鋸龍の頭上目掛けて投げ放った。次の瞬間、彼は鞘のもとへと瞬間移動。そこから一気に急降下、首を深く切り裂いた。その直後、鳴崩を使って春香が龍に迫る。吹き出る血の中、頸創の作った傷を更に深めた。


 だが灰鋸龍は止まらない。半分抉れた首も見る見るうちに繋がり始める。そして、その毒爪を大きく振るう。春香は後方に跳躍し、回避した。


 灰鋸龍の猛毒を浴びれば、三日三晩、激痛にのたうち回って死ぬと言われている。たった一滴でさえ命取りなのだと、狩人たちはよく聞かされていた。


 龍が顔を頸創に向けて、口を開く。


「頸創! 避けろ!」


 そこから風の刃が飛び出す僅かな間に、彼は鞘を投げ上げていた。そして転移。風を生み出して加速し、脳に長巻を突き立てた。噴出する血。暴れまわる灰鋸龍に揺られながら、


「とっとと首を落とせ!」


 と叫ぶ。


「あいわかった!」


 春香は鳴崩を使って一気に距離を詰める。刀に雷を纏わせ、一閃。延伸した刃が、灰鋸龍の頸を断ち切った。彼はもろに血を浴びた。頭の先から爪の先まで真っ赤に染まり、危うく目に入るところだった。


「びしょ濡れだな」


 笑いながら頸創が手を差し出す。


「なんだ?」

「握手だ。一緒に命を賭けたなら、ダチだろ?」


 困惑しつつ、春香はその手を握った。すると抱き寄せられ、背中を叩かれた。


「あんたみたいなのがここにいるってことは、雷生で何かあったのか」


 囁いてくる。


「龍の群れに襲われた」

「死人は」

「防衛に当たった者たちは皆殺しにされた……人間によって」

「そうか、辛かったな」


 春香は泣いていた。だがそれにも気づかなかった。少し呼吸が苦しくなったとき、涙の伝う感覚がして、ようやく理解した。


「俺はリズ・ユヤデオナの居場所を知っている」

「教えてくれ」

「なら一つ質問するぜ。何のために探してるんだ?」

「わからない……なぜ兄上がリズを求めているのか、聞く時間もなかった」

「あんた、それでよく探そうと思ったな」


 頸創は離れる。ねっとりとした血が深草色の羽織を汚していた。申し訳ない、と顔に出した春香を彼は笑った。


「それで宛てもなく歩いてたってわけだ」

「そうだ」

「もしかして馬鹿か?」

「失礼だな。雷業の跡取りとして相応のことは学んできたつもりだ」

「ああ、天然か……」

「天然?」

「いや、なんでもねえ。とにかく、リズに会わせてやる。来いよ、帰ろうぜ」


 歩き出す。獣道を往きながら、二人は話した。


「街を襲った人間、ツンゾかもな」

「ツンゾ……人狩りか」

「ああ。でかい災害とか戦いがあると乗り込んできて、数十人単位で人間を捕まえて売る。それが奴らの常套手段だからな」

「そうも都合よくいくものなのか?」

「色んなところに内通者を送り込んでるらしい。恐ろしい組織だぜ、全く」


 チチチ、という鳥の鳴き声。


「龍の群れとなると……龍仕人りゅうしひとかもな」

「大陸西部を治めているとかいう者か」

「ああ。神の声を聞くんだ。他にもいろんな力があるが……龍を操ることもできるなんて伝承もある。青い眼が特徴だな」


 それを聞いて、春香は一人思い当たる者がいた。確か、茶を持ってきた従者は──。


「なあ」

「わかってる。だがあんまり大声で言うもんじゃねえ。どこで聞かれてるかわからねえ」


 そう言われて、春香は黙った。頸創の言い分は尤もだ。それ以上の言及は、彼には必要なかった。


「龍仕人についてだが」


 と頸創。山を下りきって、畦道になった。


「最近どうもきな臭いんだ。今までは大陸の西半分で満足してたらしいが、最近は東部都市連合にちょっかい出してやがる。この島を欲しがって何か仕掛けてきてもおかしくねえ」

「その……リズはそのためにこの島に送り込まれた、なんてことはないか?」

「それは違うとだけ言っておく。リズは魂に封印を受けている。ま、屋敷でゆっくり、酒でも飲みながら語ろうぜ」

「酒は駄目だ。父上の定めた掟で禁じられている」

「青いねえ。そういうの、嫌いじゃないぜ」


 青い、という言葉の意味を考えている春香だったが、その思考は用水路に足を突っ込んだことで止まった。


「何やってんだ……ほら」


 と手を差し伸べられた。掴めば、引き上げられた。


「青いとは、どういうことだ?」

「なんだ、そんなこと気にしてんのか。大した意味はねえよ。ただ、お利口に親父の言いつけ守ってんだなってだけだ」

「皮肉か?」

「かもな。ま、いいだろ。行動規範は大切だからな。それが親父の言葉なのか、自分の言葉なのかってところはあるが」


 屋敷の門を潜った。庭は簡素なもので、あまり手入れされていない。雑草はそのままであるし、植えられた桃の木も無駄な枝を生やしている。


「帰ったぞ!」


 頸創の少し高い声が屋敷に響く。すぐに迎えの女が出てきたが、血塗れの二人をみてぎょっとした。


「返り血だ」

「ああ、そうでしたか……」


 女は胸を撫で下ろした。


「体を洗ってくる。着替えを持ってきてくれ」

「畏まりました」


 奥へ引っ込んでいった。


「こっちだ、井戸がある」


 そうやって連れてこられたのは中庭。四方を通路に囲まれていた。四角い空から陽光が降り注ぐ。


「屋敷の中に井戸があるんだな」

「そうだな。ここら辺は昔人間同士の争いが絶えなかったらしい。それで籠城ができるような構造になっている、と聞いてる」

「ここの出身じゃないのか?」

「俺は旅の途中だよ」


 頸創は服を脱ぎ、水を被った。


「南港を目指してる」

「俺も、そこで兄上と合流する予定だ」

「マジか。一緒に行くか?」

「それなら心強い。あまり地理に明るくなくてな、南港への道もよくわからないんだ」

「なら決まりだな」


 春香も脱衣して、井戸から水を汲んだ。


「だがその前に、確認しておきたいことがある」

「なんだ?」

「嬢ちゃんを──リズを守れるか」

「……俺は故郷を守れなかった」


 呟くように、そして自分の傷を抉りながら言った。


「だが、一人の少女なら守れるかもしれない……そうすることが贖罪になるかはわからないが、何もしないよりは、少なくともずっとましなはずだと思う」

「そうかい。あんたも色々あるんだな」


 俯いている彼に、頸創が水をかける。


「親父は殺せたか?」

「いや……なぜわかった。そんなに俺はわかりやすいか?」

「あんたくらいの年の狩人なら、そういう頃合いだ。十五だろ?」


 何もかも見抜かれている気持ち悪さを抱えながら、彼は肯んじた。


「親父を殺そうとしてたら龍の群れが来た……そんなところだろうな。多分、龍仕人は雷業の血を絶やしたいんだろう」

「怖いのか?」

「春成は俺でも知ってる。勝利それ自体ヴィアクインクって伝説の狩人の再来──そう呼ばれた男だ。現代最強の狩人。それが斃れたら、ここ始原島の龍仕人への対抗力は大きく低下する。あんたみたいなまだ成長しきってない狩人をとっとと殺してしまいたいのさ」


 策謀。春香は想像もしなかった。というより、そんなことに意識を回す余裕がなかった、と言う方が正確だった。思考は常に、己の弱さに向かう。


「そんな顔すんな。あんたは立派に一人前の実力を持ってる。それは俺が保証する」


 頸創が拳を突き出した。


「なんだ?」

「こういう時は拳をぶつけるんだよ。友情の証だ」


 怪訝ながら、春香は彼の言う通りにした。頸創のニカッと笑う顔が印象的だった。


「お着替えをお持ちしました」


 青い目の少女──リズが着物を持ってきた。か細い声だ。


「君はどうしてここにいるんだ?」


 春香は羽織を着ながら尋ねた。リズはどこか儚い印象を持たせる、背丈が四尺六寸ほどの少女だった。蒼玉の瞳は憂げで、暗がりの中にありながらも確かな光を持っていた。


 そんな彼女は視線を頸創に向けた。彼は静かに頷いた。


「本当は殺されるところだったんですけど、頸創さんに助けてもらったんです」

「殺される?」

「処刑です。その……続きはもう少し待ってください。全部を話していいか、まだわからないんです」

「あんまり詮索しないでやってくれ。嬢ちゃんも自分を曝け出すのが怖いんだ」

「そ、そうか。なら追々話してくれればいい」


 着替えを終えた二人は歩き出す。頸創は軽くリズの頭を撫でた。


「茶を頼む。少し話をしてくるよ」

「はい、わかりました」

「それと、近々ここを発つ。準備をしておいてくれよな」

「どこへ行くんですか?」

「南港だ。そろそろ……頃合いだろうしな」


 その意味深長な言い方に、春香もリズも首を傾げて見合った。


「ま、大したことじゃねえよ。気にすんな」


 快活な笑いを作る頸創。春香はその後ろを歩いた。

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