狩人が死んだ。狩人は龍を狩る。故に憧憬の対象であった。
しかし、死んだのだ。人でなくなり、狂気に堕ちた死ねぬ獣となってしまった。ならばそれを終わらせてやるべきであり、その大役は息子が担うことが常だった。
狩人は眠らされた上で棺桶に入れられて堂に運び込まれた。その息子、
「お悔やみ申し上げます」
街の住民が来てはそう言って、去っていく。涙を流す者も少なくない。
皆、春香ではなく背後に置かれた黒檀の棺桶を見ていた。その中にいる父、
春香はそっと腰に左手を伸ばす。それが触れるのは、紅い鞘の刀。祖父の代から受け継がれてきたこれが、いったいどれだけの命を救ってきたか。そして自分はどれだけ救わねばならないか。それを思えば、己が使命を受け継ぐのだということに恐怖してしまった。
望月は地と空の境界に消えていく。春香は目抜き通りの向こうから二人がかりで運ばれてくる黒い鞘の大太刀を見た。片や若女の面、片や若男の面をつけ、篳篥と竜笛の聞く者を彼岸に連れていきそうな不可解な奥行きを持った音色に合わせて舞いつつ、進んでいた。
あれこそがここ
あれが届けば、父を殺す。春香は、桃の花も咲く頃だというのに、心臓まで凍り付かせる冬の風に当てられている心地だった。ざわつく心。強張っていく体。ゆっくりと深呼吸をした時、男が一人、二人組を追い越して走ってきた。
「儀式の最中だぞ!」
若男が叫ぶ。春香も同調して口を開くところだった。だが、男がひどく息を切らし、世の深淵を覗き見たかのような怯えた目をしていることに気づいて、
「何があった」
と静かに問うた。
「龍が……出ました」
男は蓑を着て肩に二連式小銃を下げて、跪いてそう告げた。春香の心拍が、静かにその激しさを増し始める。
「何が出た」
「
龍は群れぬ。同族を食らうからだ。その非常事態に、龍の中で最強とされる四種の内が一つ。春香は恐怖した。だがすぐに蓋をした。不死たる龍を殺すには、狩人の刃が必要だ。彼は立ち上がり、舶来品の半長靴を履いた。
「距離はどうだ」
歩き出す。大通りを走り抜けていく、住民たち。
「南方、十里強といったところです。こちらの射程に入るまで、四半刻もないかと」
「父上の遺した布陣で迎撃しろ。皆が避難するまでの時間をどうにか稼いでくれ」
「春成様はこちらで運ばせましょう」
「ああ、任せる」
「それが終われば、撤退のお手伝いに参ります」
「撤退だと?」
車輪の音と怒号が響く中、彼は質した。
「若様は春成様の唯一の後継者でいらっしゃいます。その意味は、おわかりでしょう」
逡巡。しかし父殺しを成し遂げるのは彼でなければならなかった。
「……わかった。また後で会おう」
そう言ってから、彼は二人の従者と合流して通りを進む。銃を持った男たち。運ばれる火器。大砲に機関銃。皆一様に南へ走る。
だが三人は北へ行く。息苦しい密集地帯を抜けている間、赤子も、老人も、妊婦も見た。
(今から、これを預かるのか)
一つ、重しが増えた。
群衆からはみ出し、ある門を潜る。よく手入れされた庭を駆け、寂しい離れの前で止まる。乱暴に障子を引くと、それを待っていたかのように母の
「私は行きません」
問われるのを待たずして、燈火はきっぱりと言った。
「長くありませんから。しかし夏目は連れて行きなさい」
彼女はそっと夏目の背中を押す。
「しかし、母上を捨ておくことなど……」
「ならばこの街を完璧に守ってみせなさい。それが狩人というものです」
春香は赤い鞘を一瞥した。
「さあ、今すぐ戦場に行くのです」
燈火は言葉を切って、刺すような瞳で春香を見た。彼には恐ろしく思えた。行かねば殺すとでも言わんばかりの覇気を纏っていたのだ。
「無事をお祈りしております」
それだけ言って、彼は踵を返す。夏目は従者に任せ、恐怖それ自体に恐怖する。
(わかっていただろう!)
心中、己を叱咤して南へ走る。月に小さな十字の影がかかる。冷えていく肝。対蹠的な、血が沸騰するような興奮。
熱を肉体の内に抑えつけたまま、街を出て、丘を駆け上がり、砲と土嚢の陣地に入る。すると黄色い羽織を着て、双眼鏡を持った男が近づいてきた。
「報告いたします。榴弾砲十八門、機関銃二基、結界師十五名。準備を完了しております」
あまり抑揚はないが、震えている声だった。
「わかった。それで、どう動けばいい。俺が前に出ればいいか?」
「ええ、お願いいたします。ですが、可能な限り早く出立していただきたいのです。 転剣龍をあまり陣地に近づけたくありません。若様がそのご使命を果たされている間に、我々は砲撃で撃ち落とします」
話を聞きながら、春香は前線を見る。並んだ大砲は空を向き、装填作業をしていた者はそれを止めて頭を深く下げた。その背後には、夜の闇に沈みきった深い森が広がっていた。
「しかし、落とした龍はどうする」
春香は視線を男に戻す。
「術弾を使いますから、うまく当たれば殺せます。死なずとも、再生は阻害されます」
男は表情を隠すように俯いたままだ。その心持は春香にも深く察せられた。心を曝せばその途端に全てが崩れ、弱まるような気がしてならないのだ。然るに、胸の内で猛り逸るこの全てを月明りに照らし出したくもなっている。如何ともできなくなった彼は、ただ森に飛び込むしかなかった。
暗い。一寸先さえ、幕に覆われたように見えない。それでも彼は導かれるように走っていた。この血の滾りが強まる方向に龍がいるのだと確信していた。そして何よりも、足を止めれば不安に追いつかれるように思えていたのだ。
腹の底を揺らす重低音が、木々を揺らしながら届く。続く炸裂──子弾が降り注ぐ。未来視的直観に任せて刀で鉄球を弾き、被弾を避けた。だが、周囲の木々は無残に引き裂かれ、全身の肉を抉られた翼龍がそこに落ちてきた。
(榴散弾……忠告くらいはしてほしいものだな)
行き場のない愚痴を消化していると、切り裂くような鋭い風が駆け抜けた。危うく吹き飛ばされそうになりながら視線を向けたその先に、龍が降り立った。
大きな翼のついた前脚と、二丈はある尾。月光の下、鱗は黒かったが、彼が刀を構えれば途端に白くなる。挨拶でもするような咆哮によって、周りの木が伐り倒される。
色
。
その視線が動きを縛ってくる。そこから脱しようと焦った者が死ぬ。闘いとは畢竟そういうことなのだと、彼はこの時理解した。であったとして、彼にできることは一つしかない。
彼は雷を纏う。魂の力を引き出し、それを体に直接作用させ、身体能力を引き上げる。同時に、己に雷の心象を投影させる。
その状態から、弾丸の如き突きを繰り出す。額に突き刺さる。両刃の刀が頭蓋を貫く。
だが、浅い。魂までは穿っていない。春香は急ぎ距離を取るものの、焦りのあまり相手の動きを見失う。直後、背中を尾で打たれ、森の中を転がった。
起き上がった彼は一度深く息を吐き出し、飛び立った龍を見た。そしてどれだけの力で飛び出せば追いつけるかを計算した。水を樋で導くように、彼は脚へと力を導く。激しい魂の鼓動が、再び稲妻を為した。
弾け飛ぶように、龍の頸を狙った。鋭い一撃が動脈を切り裂き、真っ赤な血を飛び散らせた。だが、彼も無傷では済まなかった。 転剣龍の放った風の刃が、すれ違いざまに彼の体を切り刻んだのだ。深い手傷を負った春香は、立ったまま動けない。
対峙と呼ぶには、両者の状態には差がありすぎた。悠然と回復を待つ龍と、息も絶え絶えの人間。絶対に埋められない溝がそこにあった。
敗ける。何もできないまま、何も守れないまま、ただここで死ぬ。それを思うと、焦燥とも憤怒ともつかない、燃え盛るような感情が生まれた。背中の毛がぞわぞわと逆立って、体中を得体の知れないものが駆け巡った。己が己でなくなって、人として超えられない壁を少しずつ崩していく──そうして差し込んだのは、決して光ではなかった。むしろ、もっとどす黒いものだった。
故郷を襲った敵を憎んだ。敵に勝てない自分を憎んだ。それが動くはずのない体を動かした。一撃を打ち込むだけの力が生まれた。
次の瞬間、熱き刃が転剣龍を頭上から貫いた。そして、太陽がそこに生まれたかのような強烈な閃光が辺りを包んだ。夜中に招かれた夜明けが闇の静寂に立ち返ると、そこには未だ動いている転剣龍の尾と、虚ろな目をした春香と、木々が消え去ってできた更地が残った。
勝利の実感もないままに、春香はゆっくりと倒れていった。
◆
「──そうか、遺体も弑奉剣も北へ渡ったか。カガリはどうだ」
春香は若い男の声を聞いた。
「未だ
嗄れ声。
「……Leve ca liqqa-na han haminm-so nio-cia. Ma-canfa.」
大陸共通語。どろんとした頭では、とても何を言っているのかは理解できなかった。扉の軋む音の後、春香は体を起こされた。
「ハル、しっかりしろ」
「……兄上か?」
兄上と呼ばれた男の銀朱の目は兄弟を思わせるが、その長い髪はむしろ対照的な銀色で、着物も真っ赤だった。右手には透明な刀身をした刀がある。
「そうだ、俺だ。大丈夫か?」
雷業
「倒れてんの見て、急いでここまで連れてきたわけだが……一体全体どういうことだ?」
古びた板壁と、少し湿気た地面。隙間風も入り込んでくる。ここは父が遠出するときに使っていた小屋だ。六畳ほどの狭い空間は決して人が住むことが考えられた空間ではない。だが、春香にとっては優しい場所だった。
「よくわからない。しかし、奇妙なことがあった。」
「奇妙?」
春香は痛む頭から必死に記憶を引きずり出す。
「転剣龍……そうだ、転剣龍が街ではなく俺を真っ先に狙った。森の中にいたというのに、まるで誘導でもされているような」
「勘がいいな。俺も龍の動きが怪しいと思ってたんだ。龍が群れを作るなんて、まずありえないからな」
それから、鷹眼は考え込んでしまう。落ち着いた沈黙が流れた。
「そうだ、夏目は、母上は、皆はどうなった」
春香は兄に問いながら、恐れが心の底から滲み出てくるのを感じていた。
「防衛に当たってた奴らは全滅だった……だが、避難した連中は無事だ。燈火様と夏目ちゃんは一緒に大陸に渡る予定だ。北のバズに行くって言ってたな。まあ、あそこなら師匠の親戚がいる。大丈夫だろう」
「そうか、そうか……」
罪悪感と安堵が同時に押し寄せてきて、できる返事はそれだけだった。
「また、何もできなかった」
考えるより先に、口から言葉が零れ出た。
「また、俺の弱さが誰かを……」
「俺もだ。あと一日早く帰ってこれてさえいれば、お前だけに転剣龍を任せずに済んだはずだ」
二人して、後悔の海に沈む。意味のない仮定を無言のうちに繰り返し、その度に不可能だと理解する。そうやって、徒に時間を過ごした。だが、鷹眼がおもむろにその懐から銀色の懐中時計を取り出すと、春香の意識はそちらに移った。
「兄上、それはなんだ?」
「大陸西部の職人に作ってもらった時計だ。今は二時三十分。ちょうど半日寝てたことになるが、腹減ってないか?」
言われて初めて、彼は空腹に気づいた──食べなくてなならないように思えた。そしてまた、全ての傷が癒えていることに気づいた。
「確かに、そうだな」
彼は声によって疑問を振り切る。
「聞いて驚け、床下に備蓄があった。ありがたく頂くとしようじゃないか」
鷹眼が大袈裟な動きで床の土を払うと、小さな取っ手が露になる。それを引っ張れば、中には封がされた壺が数個、収納されていた。それぞれの蓋には赤い文字が書かれた札が貼られており、その劣化具合からおおよそ十年ほど昔のものだろう、と春香は見当をつけた。
「時間停止の術符だな。師匠のだとすれば……俺には手が付けられないな。ハル、頼む」
鷹眼は同じような札を取り出し、春香に渡した。彼がそれを壺の札に重ね、
「Lauda(雷よ), ma-cupa(弾けろ)」
と唱えると札は霧散した。
鷹眼は春香の頭をくしゃりと撫でてから、壺を引き上げる。その中身は梅干しや煎餅、干し肉だった。水は近くの源泉から組んできて、ひたすら黙って食事をした。味があったかどうか、春香にはわからなかった。
「ハル、これからどうするつもりだ?」
一足先に食べ終えた鷹眼が問うた。春香は急いで飲み込んでから、答えを整える。
「どうしたら……いいんだろうな。一度、街に戻ってみようとは思っているが、それからのことは全くだ」
「それは……いや、行きたいなら行けよ」
それっきり鷹眼は口を閉ざした。何を考えているのか、春香には察しようもないが、その銀朱の目が見ているものが自分でないということはわかっていた。それが何かと尋ねることもできず、彼は別れを告げた。
踏み出した曇天の森は、死の臭いに満ちていた。そこらに転がる獣の死体はまだ腐乱を始めているわけではないが、嗅覚では感じられない全く異質な、臭いとしか呼べないものが感ぜられた。
やがて、陣のある丘が見えてくる。登る気にはならない、上にあるものを概ね知っていたからだ。だが、己の齎した結果から逃げるわけにはいかなかった。
一歩踏み出す度に、呼吸が浅くなる。そうやって到達した頂きにあったのは乱暴に積まれた死体の山だった。その一角が崩れて、彼の眼前に転がり落ちる。眉間の銃創以外に目立った傷のない、綺麗な骸だった。
「生き残りがいるぞ!」
その背後で誰かが叫んだ。春香は銃口を感じる、敵は三人。軽装。斬って捨てるのは容易いことだったが、すぐには動かなかった。
「お前達か?」
刀に手を掛けて、彼は尋ねる。
「お前達が、これをやったのか?」
返事はない、即ち、肯定である。刹那、銃身が三つ、落ちた。おそらく、斬られた者は彼の踏み込みはおろか、抜刀すら認識できなかっただろう。怒りで研ぎ澄まされた、神速の三振りであった。
「何者だ?」
こう問うた時、春香は初めて敵対者を見た。黒い装束に身を包み、刀と小銃を携えた彼らは、手を震わせ後退ることもできなかった。
「答えろ。言えないようなら殺す」
黒装束達は一斉に刀を抜き、白刃を煌めかせて三方から斬りかかる。ほぼ同時、完璧な連携──だが、次の瞬間にはだれも血を吹き出して死んだ。生暖かい
抜き身の刀が血を吸って、淡い赤に染まる。人っ子一人いない街は静かで、彼に耳鳴りばかりを聞かせる。
(何故だ?)
彼は血を飲み切った刀を納める。
(誰だ?)
体から力が抜ける。塀に全身を押し付けるようにして倒れ込む。
(俺たちが、一体何をした?)
冷えた雨が降り出した。このまま動かなくなるなら、それも──そう思い始めた頃、誰かが強引に彼を引き起こした。
「ハル!」
鷹眼だった。銀色の髪は返り血で染まっていた。
「怪我はないか」
「いや……大丈夫だ」
「それならよかった。辛いだろうが、一つ頼みたいことがある」
鷹眼の表情は真剣そのもので、春香の固まったように自由の利かない体を徐々に解していった。
「リズ・ユヤデオナという少女を探してほしい」
「……なぜだ?」
「俺も伝え聞いただけだが──」
パァン、銃声が鳴る。二度、三度。鉛球が二人の頬を掠めて飛んでいく。
「ハル、逃げてくれ」
「兄上、俺は何がなんだかわからないんだ」
兄の肩越しに、黒装束の集団が向かってくるのが見えた。
「なあ、なぜ俺たちは襲われたんだ? 一体何が起きているんだ?」
「説明している時間はない。だからこれだけ言っておく」
鷹眼はするりと刀を抜いて、春香に背を向けた。
「雷業を継ぐ人間が必要だ。
飛来した弾丸を彼は黒い鞘で弾き返す。
「行け! 必ず合流する!」
春香はその言葉に背を叩かれ、走り出した。泥が跳ねて、裾を汚す。ふと振り返ると、白い閃光が幾度も生じていた。後ろ髪を引かれる思いだ。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。生まれて初めての、逃走だった。