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第9話

 青い鬼火に囲まれて、ヴォルフ博士は落ち着いた声で言いました。


「私の恥ずべき過去は既に消え失せ、隠しおおせたと思っていたが、教皇である汝に語る事になる定めだったのだろう。確かに私はトビアス二世を個人的に知っていた……古い話なので長くなるが構わぬであろうか?」

「ああ、構わぬ。私もトビアス二世の事は詳しく知っておきたい」

「感謝する。汝に話しておけば、妻のアデライードの名誉だけは守られるであろう」

 手近の崩れた石に座り、小さな灯りを消したホノリウス五世は、博士の喋る態度と雰囲気がずい分と違うなと思っていました。


「私はトビアス二世とは古い知り合いであった。だが決して友ではなかった……」


 ヴォルフ博士は、コマースウィック村から少し離れた場所で、領主に仕える家柄に生まれ育ちました。

 両親は早くに亡くなりましたが、遺産があったので領主を後見として、遠い【北の教皇領】にある学問所に留学し学ぶ事が出来ました。

 その時に隣接している修道院のトビアス二世、当時は修道士だったマルローと知り合ったのです。

 年齢は博士より少し上でしたが、頭が良い上に白面の美青年で聖務は真面目にこなし、非の打ちどころが無いようでした。

 しかしヴォルフ博士は彼と色々と学問の話をするようになっても、マルローはどこか得体の知れない人物だなと常に感じていました。


 数年後、【北の教皇領】を大寒波が襲い、更に食料不足と流行り病が蔓延する事態になったので、ヴォルフ博士は故郷に帰る事にしました。しかし一人旅は危険なので、【北の教皇領】を出て【西の教皇領】に移住する住民達の集団に、地図や地形に詳しい道案内役として同行させてもらう事にしました。


 その集団の中に、別の修道院に移る事を決めたマルローがいたのです。


 大人数の集団だったので、ヴォルフ博士はマルローを特に気にかけず、道程の半分ぐらいで姿が見えなくなっても、一人で修道院に向かったのだろうと気にしませんでした。

 やがて厳しく長い旅の道中に商人夫婦の娘だったアデライードと親しくなり、両親の許しを得て婚約しました。【西の教皇領】への移住が無事に終わり落ち着いてから、ヴォルフ博士は彼女を伴って帰郷し結婚したのでした。

 ヴォルフ博士を囲む青い鬼火の輝きが少し強くなりました。


「あの頃は穏やかで幸福な日々であった。

 だがある日、突然私の屋敷にマルローが一人で現れたのである。彼はいつの間にか『白の大宮殿』に仕える司祭になっていて、私が発表した論文で名を見かけ懐かしくなったのだと……。

 それからは時々、息抜きと称していつも一人で私の屋敷に来るようになったのであった。『白の大宮殿』の秘密の隠し通路を通って外に出て、愛人の住む館への行き帰りに立ち寄っていたようだ。

 彼がぶどう酒を飲みながら話す内容は、聖務や学問の事ではなく、愛人にいかに贅沢をさせてやっているか、献金の金額、『白の大宮殿』の宝物庫の宝物が素晴らしいという事ばかりで……教皇よ、今でも『白の大宮殿』には【北の教皇領】から運ばれた銀が保管されているのであろうか?」

「銀?もちろんだ。警備が厳重過ぎて私もまだ現物は見た事がないが、『白の大宮殿』の地下の大金庫室に保管されている」


 ヴォルフ博士がふわりと動き、青い鬼火が揺れました。

「マルローは、『白の大宮殿』の銀は、自分の遠い生まれ故郷から運ばれてきたのだと良く言っていた。その時は気にはとめなかったのであるが。

 彼は会う度に身に着ける物が派手になり、順調に出世し、やがて秘密の訪問も無くなり、私は彼の事をほとんど忘れた。何より、アデライードの健康が思わしくなく、私は彼女の心配ばかりしていたのである。

 数年後、教皇が亡くなった。そして枢機卿になっていたマルローが教皇選挙で選ばれてトビアス二世となったと知り、私は驚愕した。彼が教皇に選ばれるとは思ってもいなかったからである。だがマルローは有能ではある。多少は贅沢をしても、教皇として神と世界に仕えるだろうと期待したのであるが……後で知ったが、教皇のみが使える『教皇資産』が彼の運命を狂わせた」

 暗闇の中のホノリウス五世の顔がわずかに歪みました。


 トビアス二世は政務や祭儀は一応こなしていましたが、それ以上に贅沢な暮らしをするようになりました。巨額の『教皇資産』を使い放題に使い、愛人を幾人も持ち(教皇の愛人は黙認される存在でした)、私室を飾り立て、教皇領に館や宮殿を建て、輝く宝石や華やかな衣装で身を飾りました。教皇の身近にいる配下には苦言を言う者もおらず、『白の大宮殿』の組織上層部は苦り切っていました。前の教皇は穏やかで慎ましい人格者だったので、余計に目立ってしまったのです。

 しかしここまではまだ良かったのでした……。


 その時代、大きな戦が幾つも起こり平安な日々は徐々に遠ざかっていました。


 そんなある日、アラペトラ国の国境に某国の軍隊が迫るという大事件が起き、アラペトラ国の『白の大宮殿』の警備隊が数少ない武器を手に国境を見張る騒ぎになりました。

 この時はすぐに軍隊が退却し、某国のあやふやな釈明と謝罪で不透明なまま収束しました。

 しかし『白の大宮殿』では、国境の警備を見直した方が良いのではという意見が出始めました。


 アラペトラ国は、遠い昔、神が玉座を据えて建てたという伝説のある国です。

 神の権威と威光に満ち、神に最も近い教皇の君臨する国を軍隊で侵略しようという邪な考えなど存在しない筈なので、国境にも領土を示す巨大な教皇旗が一定の間隔で並んでいるだけで見張り所すらありません。

 そもそも『白の大宮殿』を警備するための小規模な警備隊以外、アラペトラ国には軍備という物が存在しないのです。

 けれど今は乱世の時代だ、本気で邪な国に侵略されればひとたまりもない、せめて防護柵などを作って国を守る事を考えた方がいいのではないかという議論が起こりました。

 しかしそれはアラペトラ国が神の権威を軽視していると言われかねません。


『白の大宮殿』で揉めている間にも事態はどんどん悪化し、教皇旗が何本も倒されて燃やされたり、深夜に武装集団が国境を越えた場所で篝火を焚いて騒ぐなど不穏な出来事が続き、国内に不安感が増大していきました。


 一連の出来事にトビアス二世は激しく動揺しました。

 彼は自分の個人資産と贅沢な暮らし、更に『白の大宮殿』の宝物庫の宝物などを戦によって奪われ失うのではないかと、心の底から怯えたのです。

 不安に凝り固まった彼はまず、ごく小規模な警備隊を教皇軍へと名称を変え、自分と『白の大宮殿』を守るための強力な教皇のための軍隊を作り上げようとしました。


『教皇資産』を注ぎ込み、傭兵を雇い商人から武器を買い込みましたが流石に資金が足りません。トビアス二世はアラペトラ国の資産を使おうとしましたが、幹部達から猛烈な反対と反発にあい断念しました。

 既にトビアス二世のほとんど独断的な行動は『白の大宮殿』内部でも深刻な問題になっていて、組織幹部であるほとんどの枢機卿たちと完全に対立状態に陥り、教皇は追い詰められていきました。


 ホノリウス五世は、幾つかの青い鬼火に囲まれながら溜息をつきました。

「トビアス二世の時代に『教皇資産』が激減したのは、ただの贅沢による浪費ではなく教皇軍に注ぎ込んでいたのか……戦乱の侵略からアラペトラ国を守るために一時的に教皇軍を作ったと記録には残っているが、『教皇資産』の件は今初めて知った」

「そうであったか。私は教皇軍を作ろうとしたマルローの行動は教皇として誤っていると信じて怒り、批判や忠告をする論文を発表し彼の元に送り届けたのである。だが彼は無視した。後で無視するしかない事情を知ったのであるが、その時の私は失望し、遠い地に移住しようと考えた。が、その矢先にアデライードが流行り病にかかって呆気なく死んでしまったのである……穏やかな最期だったのがせめてもの救いであったが……」


 嘆き悲しむヴォルフ博士に、訃報を聞きつけたトビアス二世はアデライードをこの領地内で一番立派なルーメン大聖堂に葬ってやろうと申し出てきました。

 ヴォルフ博士は今は廃墟となった大聖堂を見上げました。

「ルーメン大聖堂はな、当時羽振りの良かった領主が自分の一族の為に建てて所有している物だったのだよ。だが娘を病で亡くした事がきっかけで、教皇であるマルローに土地ごと献納したのである」


 ホノリウス五世はようやく納得しました。教皇に献納された大聖堂をそのまま黙って自分の私有物にしたせいで公式の記録に何も残っていなかったのです。その後の大きな戦で領主の城なども破壊されているので、余計に詳細が不明になったのでしょう。


「マルローはルーメン大聖堂を自慢にしていたようであった。何度も訪問し、増築を重ねて更に立派にし、セレニテ修道院も建てて優秀な修道士を集めていたのである。

 マルローの手配で妻は墓地の一番良い場所に葬られ、大聖堂で立派な祭儀が執り行われ、私は安堵し彼に感謝した。やがて自分が死を迎えた後は妻の隣で眠りたいとだけ願った。本当に私の望みはそれだけだった……」


 ヴォルフ博士の口調から厳めしい感じが消え、悲痛な語り口になりました。


「あの日、私の屋敷に猛吹雪でありながらマルローが突然一人でやってきた。雪にまみれた彼はひどく痩せてやつれ、顔色も悪く昔の面影はどこにも無かった。そして私に贋金を作る手助けをしろと言った」

 既に資金不足で教皇軍の傭兵へ支払う賃金すら滞り、彼らを抑える事も難しくなっていたトビアス二世は、【北の教皇領】から銀を内密に持ち込み、贋金を作ろうという恐ろしい手段を思いついたのです。

「『白の大宮殿』の目の届かないルーメン大聖堂に銀を隠し、すぐ隣のセレニテ修道院の工房で贋金を造ろうというのだ。修道士たちならまだ教皇である自分の指示に従うであろうとも。まさか聖域でそんな犯罪を……私は即座に断り、思い留まるように必死で説得した。だがマルローは……贋金でも何でも金が無ければ自分は破滅だと。頼れるのはもう私しかいないし報酬は十分にすると。私は初めて手を震わせ懇願するマルローを哀れに思った」


 トビアス二世は今までの教皇軍に関する経緯を語り、ヴォルフ博士はそこまで強引に事を進めていたのかと内心呆れました。ヴォルフ博士の論文など無視する筈です。

 さらに数日前に教皇軍の傭兵達の一部が未払いの賃金を求めて暴徒化し、『白の大宮殿』の金庫室に乱入しようとする騒ぎが起こっていたのです。幹部全員からついに教皇の退位という事も話し合っていると通告されたと力なく話すトビアス二世の姿に、ヴォルフ博士は決心しました。

「私はマルローに、報酬は不要、神と教皇トビアス二世と『白の大宮殿』の聖職者たちの安寧のために私の意志で贋金作りに協力すると宣言した。弁解でしかないが、私はもうそれしか方法が無いだろうと諦めた……」


 ヴォルフ博士はトビアス二世とその日のうちに打ち合わせをして、素早く動きました。

 身辺を整理し、子供はいなかったので屋敷を身内の者に譲ってから、財産を全てセレニテ修道院に寄付しました。

 贋金作りは失敗する確率の方が大きい重罪です。露見すれば教皇はともかく、ヴォルフ博士が極刑になるのは間違いありません。ヴォルフ博士は罪の宣告も死も恐れませんでしたが、例え八つ裂きにされても自分の体は妻のアデライードの隣に葬るようにと、それだけはトビアス二世に固く約束させました。そうしてヴォルフ博士はルーメン大聖堂の一室に教皇の客人として身を落ち着けたのでした。


「私はマルローからの内密の指示があり次第に、マルローの元愛人だったセラフィーナという女性と共に【北の教皇領】へ向かい銀を受け取る計画をたてていた。彼女は贋金の計画までは知らなかったが、マルローの頼みで、銀を運ぶ計画に協力していた」

 ホノリウス五世は驚いて身を乗り出しました。

「博士はセラフィーナ修道女を知っていたのか?」

「そうであるが……汝こそ彼女の名を知っているのだな。だが修道女では無かったぞ。彼女は【北の教皇領】の出身で、何か理由があってこの地にやってきていたのである。

 今はもう無いが、すぐそこの森の中にあった小さな屋敷で孤児達の世話をしている善き女性だった。傷跡があるとかでいつも顔を黒いベールで隠していたがな。だが子供たちにはとても慕われていた」

「黒いベール……いや彼女の件は後にしよう。博士の話を続けてくれ」

「うむ。ともかく私は彼女と二人で銀をルーメン大聖堂まで運ぶ手筈を打ち合わせていた。

 商人夫婦と偽って荷馬車で色々な荷を運べば目立たないであろう。銀は貴重品で重いが見かけはさほど大きな物ではない。そして私は主な街道の裏道などを詳しく知っていたし、【北の教皇領】に入ってからは、セラフィーナが道を案内する事になっていた。だから通常よりは手間取らず【北の教皇領】とこの地を往復できる訳なのである。

 私はマルローからの指示を待ちつつ、学問をし修道院の工房で色々な作業を見学して、待機する日々を過ごしていた」


 一応の準備は出来ましたが、実行までにはかなりの日数を要しました。【北の教皇領】で産出された銀は当然ながら領主の監督の下、厳重に管理されていたので、トビアス二世の密命を受けた部下による銀を密かに入手する工作が難航したのです。


 計画が思うように進まないトビアス二世は業を煮やし、突然教皇軍を率いて隣国に攻め入ろうとしました。

 隣国で略奪行為が出来れば傭兵たちも満足してしばらく大人しくなると考えたのでしょう。

 対立する枢機卿たちに見せつける気持ちもあったのか、トビアス二世は教皇として教皇軍の先頭に立ち、教皇旗を掲げて軍馬に乗り、武装して剣を高く掲げ……周囲の者は教皇の気が狂ったのかと本気でうろたえ、止めるのも間に合いませんでした。その時は『白の大宮殿』からの緊急の要請を受けた別の国の国王の素早い介入があり、トビアス二世は途中で捕らえられ、アラペトラ国に教皇軍と共に連れ戻されました。

 更に隣国からの抗議の手前、やむなく幹部たちの手によって軟禁状態に置かれてしまう結果になったのです。


 この知らせをルーメン大聖堂で聞いたヴォルフ博士は激怒し嘆きました。

 トビアス二世の自分への重大な裏切り行為だと憤激したヴォルフ博士は、トビアス二世は教皇でありながら神への信仰と敬意が足りない愚かな教皇である、すみやかに退位せよと厳しく批判した論文を発表しトビアス二世に送りつけました。

 しかしほとんど入れ替わりに、トビアス二世から【北の教皇領】で銀を確保するのに成功したので、すぐに受け取りに行けと至急の指示が来たのです。

 ヴォルフ博士はとりあえず怒りを収めました。その頃には戦火も一部が収束していましたし、自分が運んできた銀を見れば、トビアス二世も冷静になり贋金を作るのを諦めるのではないかという希望を少しだけ持つようになっていたのです。

 銀の窃盗で済めば、重罪でもまだ引き返せる余地はありましたから……。


 数日後の早朝に、ヴォルフ博士はセラフィーナと共に荷馬車でルーメン大聖堂を出発しました。

 セラフィーナは子供たちを一人ずつ抱きしめて必ず戻ってくると優しく約束し、ヴォルフ博士も親しくなった修道士たちに旅から帰るまで妻の墓を見守ってくれと頼んで、手を振って別れました。


 けれどヴォルフ博士とセラフィーナが、美しいルーメン大聖堂とそこにいる人々を目にするのは、それが最後となったのでした。

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