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第5話

 髭もじゃの生首がふわふわと宙を飛んで近づいてきて、しげしげと顔を眺めだしたのでホノリウス五世はむっとしました。


「許しも無しに近づくな、無礼者」

 追い払うつもりで何気なく口にした言葉でしたが、意外にも生首は返事をしました。

「汝は聖職者であるか?何ゆえこの様な場所にいるのか?」

 いやに古めかしい言葉遣いです。

「……私は聖職者ではない。道を歩いていたらいきなり誘拐されたんだよ」

「さきほど汝が口にした祈りの言葉は、聖職者しか唱えない文言だと思われたが」

 そういえばそうか、と思いつつホノリウス五世が黙っていると、急に生首は部屋の隅に飛んでいきそのまま吸い込まれるように消えました。やれやれ妙な者とばかり縁があるな、と思っていると部屋の外で何人かの人の気配がします。ホノリウス五世は背中を壁に着けると、扉の方を見て用心しました。その時、腰につけていた財布を盗られているのに気づいて、渋々金を貸してくれたエミリオ司教にどう言い訳をしようかと考えました。


 しばらくすると押し殺したような話し声が扉の向こうでかすかに聞こえ、次に鍵が開く音がして小さな灯りを手にした人物が入ってきました。静かに近寄ってきた姿を見てホノリウス五世は少しばかり驚きました。

 それは白い頭巾をかぶった小柄な修道女だったのです。

「お目覚めですか、教皇」

 ホノリウス五世は、賢そうな顔に澄ました笑顔を浮かべた修道女を見上げると、重々しく言いました。

「教皇とは何のことだ。私はただの旅行中の貴族だが」

「あらあら、しらばっくれても無駄ですよ。私はアラペトラ国の大聖堂で教皇ホノリウス五世にお目にかかっていますからね」

 修道女はぴしゃりと言い、笑顔を消してしゃがみ込むと灯りでホノリウス五世の顔を照らしました。

「私はイソルデと申します。以後お見知りおきを……遠くから拝謁しても美男子でしたけど、こうやって間近でお会いしても本当に眉目秀麗ですわね。皺だらけで枯れた年寄り教皇なんて辛気臭いだけですけど、あなた様は見ているだけで眼福ですわ」

「くだらない事を喋っていないで、さっさと縄をほどいて解放しろ。外套と財布はくれてやる」

「そうはいきませんよ。何のためにあなた様を攫ったとお思い?大事な人質としてきっちり身代金をいただきませんとね」

 さすがに女性、しかも修道女は蹴り倒せないな、とホノリウス五世は残念に思いました。


「身代金目当てなら、私を人質にしても無駄だ。何せ貧乏貴族で無一文だからな。貴様らが盗った財布の中身も知人からの借金だ」

 イソルデ修道女は狡猾そうな表情を浮かべました。

「あなた様個人は無一文でも、代々の教皇が蓄えている教皇資産は莫大ですわよね」

「……何のことやらさっぱりわからん」

「どこまでもシラを切って私どもの動きを封じるおつもりですのね。結構ですよ、この牢屋で飲まず食わずでいれば素直に協力する気になるでしょうよ」

「解放しないと、戻ってこない私を心配して従者が騒ぎを大きくするぞ。それでもいいのか?」

「そんな事ぐらいとっくに手を打っています。ロドリックの屋敷で待っていた従者の方には、あなた様が急にコマースウィック村で具合が悪くなったので教会でお世話する事になったと、私どもの使者が伝え済みです」

「ふん、あの世間知らずを騙すのは簡単だったろうな」

「本当に。主人にくれぐれも財布には気をつけろと伝えてくれと、半泣き顔で言ってたそうですわ」

 イソルデ修道女はくすくすと笑い、ホノリウス五世は顔をしかめました。

「あっさり騙された上に、口うるさく財布の心配を言うだけか。役立たずの従者め」

 イソルデ修道女は少しだけ声を低くしました。

「ですからあなた様は孤立無援ですわよ。諦めて教皇である事を認めて私どもに素直に協力してくださいな。そうすればこれ以上危害は加えませんし、手袋で隠している右手の『教皇の指輪』の事は仲間には黙っててあげます。豪華な黄金の指輪を見れば、彼らは指を切り落とす事ぐらいは全く躊躇しないでしょうねえ」

 ホノリウス五世はまっすぐにイソルデ修道女の目を見ました。

「この指輪を奪う気なら、指より先に私の首を切り落せ修道院長」

 イソルデ修道女の顔から笑いが消えました。


「いい気になっているようだが、私を舐めるなよ。修道服の違いぐらいは見ればわかる。しかし女子修道院の院長が荒くれ犯罪者どもと手を組んでいるとはな。呆れたもんだ」

 イソルデ修道女は立ち上がりました。

「……『白の大宮殿』で大勢の取り巻きに囲まれて豪勢な暮らしをしている教皇様には、日々の食事にも事欠く貧しい女子修道院の苦労なぞ想像も出来ないでしょうね」

「豪勢な暮らしなぞ知らん。私はただの旅行中の貴族だ」

「好きにおっしゃい。今後あなた様の事は仲間にまかせる事にします。それでは」

 イソルデ修道女はさっさと部屋を出て行き、やがて扉に鍵のかかる音が響きました。


 一人になったホノリウス五世は耳をすませました。扉の外は無人になったようです。

 ぐずぐずしてはいられません。連中がまた顔を出す前に何とかここから脱出しないと、と考えを巡らせているといつの間にか先ほどの髭もじゃの生首がホノリウス五世の視線の先に浮かんでいます。子供の頃から不思議な物を山ほど目撃しているホノリウス五世は別に驚かず、興味半分に足先で蹴り上げてみると軽い手ごたえがありました。


「ほお、霧のような亡霊かと思ったが実体があるのか」

 蹴られてくるくると回転した生首は面白がっているホノリウス五世を睨みつけました。

「汝は聖職者だと思っていたが、教皇だったのか。道理で失礼で無礼な態度をとるはずである。しかも若造である」

「いちいちうるさい生首だな。私が教皇だとどうだと言うのだ」

「教皇は不愉快である。昔、私を捕らえて首を刎ねさせた教皇も実に失礼な人間であった」

「首を刎ねさせた?教皇が命じる事が出来るのは聖職者への処罰だけで処刑は無いし、俗世の人間への処罰には口出しが出来ないぞ。そんな教皇がいたとは考えられないが」

「そちら側の事情と詳細は知らぬ。だが間違いなく、トビアス二世という痩せ細った嫌な目つきの教皇が私を指差して首を刎ねろと命じたのである」


 ホノリウス五世は教皇名を聞いて呆れました。どうりでこの生首が古めかしい喋り方をするはずです。

「トビアス二世とは驚いたな。確か私の六代前でしかも在位期間はざっと三十年だ。まあ確かに昔のあの時代は各国で大規模な戦乱が続いて、アラペトラ国にも軍隊が押し寄せたりと受難続きだったから教皇として苛烈な事もしたかもだが……」

「トビアス二世は教皇でありながら武器を掲げて教皇軍の先頭に立ったのである。神への信仰と敬意が足りぬ教皇だ、すみやかに退位せよと厳しく批判した論文を発表したら、捕らえられてアラペトラ国の大広場で処刑されたのである。汝も教皇軍を率いて犯罪者たちを殲滅するのか?ならば私はこの場で厳しく批判するぞ」

「教皇軍?そんな面倒な物はとっくに存在しない。しかし論文とは、もしやそなたは学者か?」

「おお名乗っていなかったかな、失礼した。私はヴォルフ博士である。実は汝に切実な頼み事がある故に、このように努力して出現したのだ。聞き届けてくれれば、この牢屋から出る方法を伝授するが」


 ホノリウス五世は苦笑しました。

「言う事が色々変わるな。生首博士が不愉快な存在の教皇に頼み事で取引か。まあここを出られるなら聞いてやる。言ってみろ」

「大広場での処刑後の私の胴体の行方が不明状態になっているのである。私はこのような存在で敷地内からは動けぬ。汝が探し出して、この地面の下に埋められている私の首と一緒にして後に、墓地にある妻の墓の隣に葬ってほしい」

 ヴォルフ博士は目玉をぎょろつかせつつ、太い眉を下げて悲しそうな表情を浮かべました。

「……トビアス二世の名による教皇裁判は行われたのだろうな?」

「当然である。『白の大宮殿』内の法廷で裁判は行われたのである」


 ホノリウス五世はしばらく考えました。

『白の大宮殿』内の広大な図書室には歴代の教皇に関する資料が大量に保管されています。昔の話とは言え教皇が処刑を命じるとは異例中の異例ですし、トビアス二世による教皇裁判や処刑時の詳しい状況を調べれば胴体がどうなったかもわかるでしょう。聖俗に関係なく処刑後の死体はそれなりに丁重に扱われる決まりですから、当時でも適当に放置されたままだったという事は無いはずです。

「了解した。そなたの胴体を探し出すと約束しよう。詳しい話は後で聞くのでまずここから出る方法を教えろ」

「決して約束を違えぬようにな。違えれば厳しく批判するぞ」

「現教皇ホノリウス五世の誓約だ、とりあえず信用しておけ」

 ホノリウス五世は楽しそうに笑いました。

「私の従者は実に有能な男だからな、素早く行動しないと思い切り叱られる羽目になる」

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