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第3話

 早朝のアラペトラ国の馬車道を、一台の荷馬車が車体を揺らしながらゆっくりと進んでいました。


 荷台には様々な野菜や木箱が積まれ、それらの隙間に浮かぬ顔の地味な服装の青年が座り込んでいます。

 青年は、御者台を見上げ手綱を握っている外套を着た男性に声をかけました。

「教皇、もう少し頭巾を深くかぶってください」

「アントニウスと呼べ、マリヌス」

 荷台に詰め込まれている従者のマリヌスは先ほどから小さな溜息ばかりついていますが、御者台のホノリウス五世は最高にご機嫌でした。

「そろそろ国境を越えるぞ」


 その日の夜明けごろ、ホノリウス5世と従者のマリヌスは「白の大宮殿」を脱け出す事に成功しました。


 エミリオ司教が隠居している以前の侍従長に面会して過去の教皇の悪だくみに対する経験談を聞き、同情と忠告と助言を受けてから入念に計画を練り、従者のマリヌスに教皇への同行を命じてあれこれ指示を叩き込み、ついには料理長まで巻き込んだ準備期間、エミリオ司教はずっと胃痛を感じていました。

 ただ、エミリオ司教から計画を聞いたホノリウス五世が大喜びで大いに乗り気になってくれたのだけが唯一の救いでした。


 そして本日、ついに脱走計画は決行されました。


 もうすぐ夜が明けるという時間。

 いきなりホノリウス五世は私室に侍従長を呼び出し「私は夢の中で天使から啓示を受けた。これから礼拝堂に何日か籠る。エミリオ司教を呼べ」と宣言しました。

 必死で引き留めようとする侍従長を無視して、従者のマリヌスだけを引き連れて大宮殿内に何ヶ所かあるうちで最も小規模な礼拝堂に入りました。

 そして駆け付けたエミリオ司教にむかって扉の封印を命じ、マリヌスが用意してあった教皇の紋章が刺繍された白い布を手渡しました。

 了解したエミリオ司教が一礼して礼拝堂から出ると、マリヌスが扉に鍵をかけました。


 鍵のかかる音を確認してから、エミリオ司教は取っ手に白い布を巻き付け、扉の前に立って礼拝堂前の廊下に集まってきた人々に『教皇の封印』を宣言しました。これは、教皇以外誰も扉に触れられない事を意味します。

 以前、「天の祝福と天使の癒し」を受けたホノリウス五世にまた天使の啓示が? と皆が盛り上がってざわめく中、何やら察したらしい侍従長だけはエミリオ司教を睨みつけてきたので、エミリオ司教も睨み返しつつ後で大聖堂で神に謝罪の祈りを捧げねば、と考えていました。


 礼拝堂の扉に鍵をかけ、エミリオ司教が廊下で封印を宣言する声を確認してから、ホノリウス五世とマリヌスは祭壇の裏に回ると、大きな壁掛けの下に隠されている小さな扉を開けて狭い隠し廊下に出ました。

「大宮殿の隠し通路は司教だった時に幾つか使ったが、ここは初めてだな」

「ええまあ、高位の聖職者の方が使われるには小さいですから」

 珍しそうに見回すホノリウス五世に、マリヌスは曖昧に返事をします。

 まさか某枢機卿が愛人との逢瀬に出かけるためについ最近作らせた……という怪しい噂を、こんな状況で教皇の耳に入れる訳にはいきません。

 前もって運び込んでおいた衣装箱から変装用の服を取り出し、2人共素早く俗世の衣装に着替え、マリヌスは聖職者の服を衣装箱に丁寧にしまい込みます。無事に帰還した時は、元の衣装に戻らねばなりませんからね。


 マリヌスの先導で隠し廊下を慎重に進むと、出口に打ち合わせ通りに憮然とした表情の料理長が大きな木箱と共に待っていました。


 さっさとホノリウス五世が木箱の中に入ると、蓋を閉めてからマリヌスと料理長が2人がかりで運び、大宮殿の食材などを運び込む出入り口から外に出ました。そのまま素早く待たせてあった荷馬車に木箱を積み込み、マリヌスは荷台の床に伏せて隠れました。そして料理長が荷馬車を近くの大宮殿専用の農園まで移動させ、広い納屋の中で準備してあった別の荷馬車に乗り換えます。この荷馬車で農作物などを運ぶふりをしてコマースウィック村に向かうのです。


 木箱から出て、勇んで御者台に乗ろうとするホノリウス五世を、マリヌスが慌てて止めます。

「教皇! 荷馬車を操るのは私にお任せください」

「アントニウスと呼べ。久しぶりに手綱を握ってみたいから私が御者を務める」

 横で料理長がマリヌスに向かって肩をすくめてみせます。諦めてマリヌスは荷台に乗り込みました。

「では、出発する。料理長、後はよろしく頼むぞ」

「はあ、わかりました。くれぐれもお気をつけて」

「心配するな、市で美味い蜂蜜を探してくるぞ」


 こうして、呆れ顔の料理長に見送られつつ、ホノリウス五世とマリヌスを乗せた荷馬車はコマースウィック村に向かって出発し、やがて国境を越えたのでした。

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