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30:―2002年6月7日 4時15分―

「待て、このっ」


 僕が喉を押さえて苦しんでいる間、堀さんは一人で舞子さんを追っていた。生徒玄関に駆け込んでその扉を開き、校舎の外へと出て行く舞子さんの後を追って、ひた走る。

 舞子さんが走る前方には、旧常夜野村の無人の集落が広がっている。誰も居ない家々は、身を隠すには最適な場所だ。堀さんに追いつかれるより先に、とにかく民家へ――と走る舞子さんの前に、立ち塞がる人影が現れた。人影を警戒するように、舞子さんの足が止まる。


 僕と池中さんが生徒玄関から外に出た時には、薄青く広がる空の下、成美さんと堀さんに挟まれる形で、舞子さんが険しい表情を浮かべていた。


「成美さん、逃げるんだ!」


 舞子さんの意識は、後方に迫る堀さんよりも、前方の成美さんに向けられている。そんな彼女の様子に堀さんが注意を促すが、成美さんは静かに佇んだままだ。


「……どきなさいよ」


 舞子さんはポケットに手を入れ、カッターナイフを取り出した。チャキ、チャキ……と音がする度に、赤黒く染まった刃が伸びてくる。凶器を手にした舞子さんの視線が、真っ直ぐに成美さんを射貫く。


「いやよ。どいてあげない」


 そんな舞子さんの前に立ち塞がりながら、成美さんは柔らかな笑みを浮かべていた。彼女の手には、血に染まった折り畳み式ナイフが握られている。

 どうして、成美さんの手に凶器が握られているのか。成美さんに襲われたという舞子さんの話は本当だったのか? いや、しかし僕は舞子さんに殺され掛けたのだ。舞子さんが犯人なことは、間違い無い。であれば、成美さんは何故凶器を手に、殺人犯の前に立ち塞がっていられるのか。訳が分からずに、前方に広がる光景を凝視する。


「全員殺すつもりかと思っていたのに、逃げ出しちゃうんだ。計画変更かしら?」


 成美さんが、舞子さんを揶揄うように、くすくすと笑う。あどけない表情で無邪気な笑みを零す成美さんが、今は何故か恐ろしく感じてしまう。


「成美さん、危ないから逃げてくれ! そいつが犯人だったんだ!」


 堀さんの悲痛な声が響く。だが、成美さんに動く気配は無い。殺人犯を前にしながら余裕の表情で佇む彼女の異様さに、池中さんが声を震わせた。


「その女も、ぐるなんじゃないの?」

「まさか……」


 慌てて否定しようと声を上げた堀さんが、言葉に詰まる。彼もまた、成美さんが浮かべる笑顔に気付いたのだろう。殺人鬼を前に柔らかく微笑む、彼女の異常さに。


「そんなことは無いわ。犯人はその女、ただ一人よ。もっとも……」


 静かに答える成美さんの表情は、ぞくりとするほどに美しい。そこには焦りも恐怖も無く、涼やかな笑顔は、むしろ楽しげにさえ見えた。


「校長殺しは、死んだ大坪菜摘と二人でやったみたいだけど」


 雨上がりの澄んだ空気に、成美さんの声が冷たく響く。舞子さんはただ、射殺すような目つきで成美さんを睨み据えていた。


「成美さん……どうしてそれを知っているんですか?」


 僕は掠れた声で聞いた。未だ喉は痛み、ともすれば噎せ返りそうになるが、いつまでも痛みに呻いている場合では無い。


「ずっと、様子を窺っていたのよ、私。最初からおかしいと思っていたの。突然二人で話が有るからって、保健室を出て行くだなんて。二人だけの話がどんなものか、とても興味深く聞かせて貰ったわ」

「聞かせて貰ったって、どうやって」


 舞子さんの声に動揺が走る。彼女にとって菜摘さんとの会話は、それほど聞かれては不味い内容だったのだろうか。


「わざわざ部屋を変えたのに、なのに、どうして……」

「私が渡した毛布、暖かかったでしょう?」


 舞子さんの疑問に、成美さんが笑顔で返す。その瞬間、舞子さんがハッと息を飲んだ。


「まさか……あの毛布に……?」

「ええ、好都合だったわ。わざわざ、私を一人きりにしてくれたんだもの」


 楽しげな成美さんの声。だが、その笑顔には恐ろしささえ感じてしまう。

 初めて出会った時の、青褪めて儚げな表情を浮かべていた成美さん。職員室で談笑していた時の、楽しげな成美さん。調査ノートを前に、はらはらと涙を零す成美さん。菜摘さんの死体を前にした時の、感情を無くしたような成美さん。そして、今の成美さん――彼女の中に、幾つもの顔があるようだ。一体、どれが本当の成美さんなのだろう。


「なんで盗聴器なんて持っているのよ……やっぱり、あんたがあの手紙を……?」

「ええ、そうよ」


 舞子さんの苦々しげな声に、成美さんが事も無げに答える。


「私が、神尾さん以外の五人をここに呼び集めたの」


 またも、爆弾発言だった。舞子さん、池中さんが驚愕に満ちた表情を浮かべているのは勿論のこと、成美さんを信じ切っていた堀さんなどは、痛々しいほどに大きく両目を見開いている。


 そうか、良く考えれば分かることだった。タクシーで来た三谷先生に土砂崩れの細工をするのが無理ならば、そしてあの土砂崩れが人為的に起きた物ならば、細工が出来た人物は、遅れてやってきた成美さん以外には有り得ないのだ。例えば、土砂崩れを防止する為のネットに、あらかじめ切れ目を入れておく。そして長いロープか何かを結んでおいて、校長先生を乗せてきたタクシーが山道を降りたのを確認した後に、ロープの端を自分の車に結んで、発進させれば――ネットは千切れて、ネットによって押さえられていた土砂や岩石が、山道を塞ぐ。

 後は廃村の適当なところに車を停めて、さも途中から歩いてきたかのように、急ぎ学校まで走れば良い。これで、手紙で呼び出した五人を閉じ込める為の、クローズドサークルの完成だ。


 彼女にとっての誤算は、僕というイレギュラーが居たこと。そして、池中さんが帰りのタクシーを手配していたが為に、土砂崩れの発生と、そこに取り残された人間が居るということが、外部に発覚する可能性が高くなってしまったことだろう。でも幸いなことに、この雨で救助も難航が予想される。そうして彼女はイレギュラーを抱えた中で、自らが舞台に選んだこの廃校での一夜を明かすことになったのだ。


「どうして……どうして、だよ……」


 堀さんが呆然と呟く。その言葉は、自分達を呼び出した成美さんに対してなのか、それとも菜摘さんと三谷先生の二人を殺した、舞子さんに対してなのか。いや、その両方に対しての言葉かもしれない。


「……舞子さんが二人を殺害したというのは、本当なんですか?」


 僕は成美さんに問い質した。成美さんがしたことも、決して許されるようなことでは無い。だが、まずは殺人犯の拘束――それが先決だ。


「ええ、本当のことよ。その二人――この女と、この女が殺したあの女は、まずは校長を呼び出し、校長がどこまで知っているかを確認した上で――」

「うるさい……」

「口封じに殺したのよ。二人がかりでね」

「うるさいったら!」


 淡々と話す成美さんの声を遮るように、舞子さんの悲鳴が重なる。その必死な様子は、まるで成美さんの言葉をこれ以上続けさせたく無いように、成美さんの言葉が真実であると裏付けるかのように聞こえてしまう。

 カッターを握りしめ、成美さんを睨み付ける舞子さん。彼女とは対照的に、成美さんは目を細めて楽しそうに、舞子さんを見つめている。


「二人がかりで……校長先生の首を、切り落としたの……?」


 池中さんが、掠れた声で問い掛ける。あの場で嘔吐していた彼にとって、あの光景はまさに悪夢のように頭にこびりついているのだろう。


「違うわよね。首を落としたのは、あの女を殺した後だもの」

「もう……止めて……」


 声を震わせる舞子さんとは対照的に、成美さんは生き生きとして、僕達に舞子さんの犯行の手口を語ってくれる。


「必要に応じて手を汚すことは許容しても、それ以外の人間は殺したくなかったあの女と、今この場に居る全員を殺すつもりだった、この女と……方針が対立したことで、結局この女は共に罪を犯した相手さえも殺したんだわ。そして、その罪をなすりつける為に、校長の首を切り落として、わざと目撃させようとした」

「…………」

「せっかく見てもらえたというのに、最初は〝誰か〟としか言われなくて、さぞ残念だったでしょうね。工作の為に、わざわざ首まで切り落としたんだもの、ご苦労様。良かったわね、校長の顔が偶然写真に残っていて」


 くすくすと笑う声は鈴を転がすように軽やかでありながら、隠しきれない邪悪さが滲み出ていた。舞子さんに注がれる成美さんの視線は慈愛に満ちたようでいて、同時に蔑んでいるようにも見える。


「皆で事務室に行った時には、どう言い訳をしてくれるのか楽しみだったけど、上手く切り抜けたわよねぇ」

「え……?」


 一瞬、成美さんの言葉の意味が理解出来なかった。皆で事務室に行った時と言うと、確か舞子さんが扉を開けて、僕達に応対してくれたはずだ。あの時菜摘さんは奥の椅子に座っていて――、


「え、じゃ、あの時……」


 僕達が扉を挟んで話をしていた時、もう既に菜摘さんは――いや、菜摘さんも三谷校長も、あの時点で二人とも、既に死んでいたと言うのか。事務室の奥に菜摘さんの死体があったと言うのに、何も知らずに、僕達は扉前で舞子さんと会話をしていた。その事実に、僕も堀さんも池中さんも、言葉を失ってしまった。


「何よ……」


 低く響く、舞子さんの声。雨上がりの空が、少しずつ黎明を示す紅を掛けた蒼色に染まっていく。朝の光を受けて微笑む成美さんと、俯き、その顔に影を落とす舞子さん。二人の様子は、とても対照的だ。


「貴女だってどうせ、私達を殺すつもりでここに集めたんでしょう?」

「ええ、そうよ」


 成美さんは、舞子さんの言葉をすんなりと肯定する。僕の隣から、堀さんが小さく息を飲む音が聞こえた。


「でもね。一番殺したかった、あいつらのやらかしたことを隠匿した校長と、あいつらに私を差し出した貴女達――その片方は校長共々貴女が殺してくれて、残った貴女は立派な殺人者。こんなに胸が透くことはないわ。私が手を汚さずとも、勝手に自滅してくれたんですもの」


 その言葉通りに、彼女は高らかに笑った。少しずつ白んでいく空を背景に笑顔を浮かべる成美さんは、神々しいほどに美しく、そして残酷だった。


 バラバラと、遠くの空からプロペラの回る音が近付いてくる。救助のヘリコプターがやって来たのだと、僕達三人が喜色を浮かべるのと、舞子さんの表情が絶望に沈むのとは、ほぼ同時だった。


「それに……十五年前に私が犯した殺人なら、もう時効を迎えているし、ね」


 最後に罪を告白した成美さんは、まるで夜明けに輝く明星の名を冠した堕天使のように、妖しく微笑んだ。



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