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29:―2002年6月7日 4時00分―

 悲鳴が聞こえたのは、一年生の教室棟がある方角だ。そちらに走れば、肩口を押さえた舞子さんが、よろよろと歩いているのが見えた。


「あ、貴方達……」

「良かった、無事ですか、舞子さん」


 僕はホッと安堵して、彼女に声を掛けた。舞子さんの左肩は鋭利なナイフのようなもので切り裂かれ、血が滲んでいる。


「一体何があったんだ」

「あの女が、突然襲いかかってきたの」


 堀さんに問われ、舞子さんが肩を震わせて答える。


「ひええぇ……」


 池中さんはぶるぶると身を震わせるが、堀さんは眉間に深い皺を寄せていた。


「成美さんが……それは、本当か?」

「本当だってば。この傷を見てよ」


 舞子さんが肩を押さえながら、必死で堀さんを説得する。


「それで、成美さんは今どこに?」

「分からないわ……私が抵抗したら、逃げて行ってしまったから」


 僕の問いに、舞子さんは目を伏せた。


「お願い、あの女をどうにかして! でないと、このままじゃあの二人みたいに、皆殺されちゃう!」

「どうにか……って言われてもなぁ」

「相手は刃物を持っているんでしょ?」


 堀さんと池中さんの言葉に、舞子さんの視線が一瞬鋭さを増す。


「あんた達、男でしょ? 箒まで持って来ているんだから、それで殴り殺せば済む話じゃない!」

「殴り殺すって……」


 突然の荒々しい言葉に、僕も堀さんも池中さんも、しばし呆然としてしまった。そんな僕達三人の様子を見て、舞子さんが声を荒らげる。


「こっちは殺されかけたのよ? こっちだってその気でなきゃ、すぐに殺られてしまうかもしれないじゃない」

「それはまぁ、そうかもしんねぇけど」


 堀さんはいまだ成美さんが菜摘さんと三谷先生を殺したということが、信じられないようだった。確かに成美さんは華奢で儚げな女性だ。あんな惨たらしく人の首を切り落とすなんて、想像も付かない。

 だが、それはこの舞子さんとて同じなのだ。二人のどちらが犯人であろうとも、弱々しい仮面を被っていることになる。


「とにかく、あの女をどうにかして。お願い」


 舞子さんに縋り付かれ、堀さんは小さく頷いた。箒の柄をしっかりと握りしめ、周囲を警戒しながら歩き出す。


「どこに居るんだ」

「分からないわ。私はこっちに逃げて来たから……」

「ってことは、向こうの校舎か?」


 箒を構えた堀さんが先頭に立ち、その後ろに池中さん、最後尾を僕と舞子さんが並んで歩く。

 雨はすっかり上がり、教室の窓から差し込む色はほんのりと明るさを増していた。昏く深い夜の色が、少しずつ陽の光に溶けて行く。




 何かがおかしい。そんな予感は、ずっとあった。何かが心に引っかかっている。

 堀さんは真っ直ぐに前を見据え、池中さんはキョロキョロと周囲を見回しながら歩く。僕と舞子さんは二人の後に付いて、静かに歩いていた。


「肩、大丈夫ですか?」

「え、ええ」

「手当出来れば良いんですけど」


 僕が心配そうに言うと、舞子さんはゆるりと首を振る。


「今はそれよりも、あの女をどうにかしないと。これ以上の犠牲者を、出さない為にも」


 そうだ。先ほどから、舞子さんはどこかに立て籠もって助けを待つよりも、成美さんと戦うことばかりを主張している。

 それに……彼女は先ほど、何と言った?


『でないと、このままじゃあの二人みたいに、皆殺されちゃう!』


 そうだ。確かに〝あの二人〟と言った。舞子さんはいつ、三谷先生が死んでいることを知ったのだ? 僕も堀さんも池中さんも、舞子さんと合流してから、三谷先生の話はしていないと言うのに。

 考えながら歩いていれば、自然と足が止まっていた。前を行く二人と、少し距離が開いている。突然歩みを止めた僕を、舞子さんは不思議そうに振り返った。


「どうしたの?」


 ゾクリと、背筋が震えた。出会った時と同じ、セレブ然とした容姿。上品で柔らかな表情。しかし、僕の違和感が正しいならば――三谷先生の遺体を発見していない彼女が、その死を知っている理由は、ただ一つ。


「舞子さん、ひょっとして――」


 言いかけた僕の言葉に、彼女の目が細くなった。前を行く二人は、成美さんを捜して、突き当たりの生徒玄関から保健室方面へと曲がってしまった。今この廊下には、僕と舞子さんの二人だけだ。


「ひっっ」


 僕の言葉を遮るように、舞子さんの両腕が僕の首に絡みついた。左肩を怪我しているとは思えないほどの力で、僕の首を締め上げる。僕は思わず、手にしていた箒を落としてしまった。


「気付かれちゃうなんてねぇ……まぁいいわ、どうせ一人ずつ殺すしか無いんだもの」


 僕の耳元で囁く舞子さんの声は、今まで聞いたことがないほどに低く響いていた。

 ああ、やはり。なんて、そんなことを言っている場合では無い。彼女の腕を振り解こうと両腕に力を込めても、喉に食い込む指の痛みで、力が入らない。親指が喉仏の根元に食い込み、気道を塞ぐ。声を上げることも、息をすることも出来ない。じたばたと藻掻き、彼女の腕から逃れようにも、急所を先に押さえられては分が悪い。動く度に、彼女の指先が喉へと沈み込む。


「う、あ……」


 少しずつ、意識が遠くなっていく。彼女はこのまま二人に気付かれぬよう、僕を絞め殺すつもりなのだ。膝が笑い、足下が覚束ない。真っ直ぐに立っていることすら出来ず、ふらりと身体がよろめきかけたその時。


「きゃっ!」


 舞子さんの悲鳴が響いて、僕の喉はそれまでの苦しさから解放された。一気に流れ込んできた空気を味わう余裕すら無く、床に突っ伏し、噎せ返る。


「神尾さん、大丈夫?」


 池中さんの声だった。苦しくて涙目になりながら顔を上げれば、どうやら彼が投げてくれた箒が、舞子さんに命中したらしい。


「カランて、箒の落ちる音が聞こえたんだ。だから」

「でかした。おい、お前が犯人なのか?」


 堀さんが箒を構え、ゆっくりと近付いてくる。池中さんも、大きな身体を堀さんの後ろに隠すようにして、付いてきている。


「どいて!」

「あ、この野郎っ」


 堀さんが伸ばした手から逃れるように身を捻らせ、舞子さんが走り出す。堀さんと池中さんの間をすり抜けるようにして、彼女は生徒玄関を目指して走った。


「てめぇ、待ちやがれ!」


 堀さんが、慌てて舞子さんの後を追う。生徒玄関の向こうは、澄み渡る夜明けの青空が広がっている。今は無人の集落でも、家々は残っている。学校の外に逃れたなら、隠れる場所には事欠かない。


「神尾さん、大丈夫?」

「だい、じょう……ぐぅっ」


 池中さんは僕を心配して、背中をさすってくれていた。大丈夫と言いたいけれど、喉の奥から胃液がこみ上げてきて、声にならない。こんなことをしている場合ではない、早く舞子さんを追わなきゃいけないのに、僕の身体は言うことを聞いてくれない。


「いけな、さ……おわ、ないと……」

「う、うん、二人を追うんだよね。分かっている」


 僕の言葉がどれだけ通じたかは分からないが、池中さんは頷き、僕を支えるようにして早足で歩き出した。彼の気遣いが有難い、有難いけれど、今はそんな場合では無いのだ。

 殺人犯が、無人の集落に逃げてしまう。今、堀さんが一人で追いかけている状態なのだ。このままでは、彼も危ない。そんな危機感が、僕に苦しさを忘れさせた。

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