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26:―2002年6月7日 3時20分―

「ずびばぜん……」

「ああ、ほら。まだ鼻水出てんぞ」


 いい年をして、人前でぼろぼろと泣いてしまった。恥ずかしい。鞄からポケットティッシュを取り出して、鼻をかむ。


「はー……」

「少しは落ち着いたか?」

「はい。有難うございます」


 堀さんには、すっかり情けないところを見せてしまった。三十路に差し掛かった大の大人が人前で号泣なんて、引かれても仕方が無い。でも、こちらに向けた堀さんの視線は、心なしか温かな物に感じる。


「神尾さんって、随分と涙もろいんだな」

「そういうことにしておいてください」


 下手に同情されたり、彼女と知り合いだと知られて気まずくなったりするよりも、揶揄われるくらいの方が今は心地よい。

 かんでもかんでも出てくる鼻にポケットティッシュが底を突いた頃、向かいのソファーに寝そべる巨大芋虫のような池中さんの身体が、もぞりと蠢いた。


「うぅぅん……」


 今度は寝苦しそうに、小さく呻いている。どうやら僕と堀さんとで話し込んでいたために、眠りを妨げてしまったようだ。


「お腹、すいた……」


 と思ったら、どうやらお腹がすいて目が覚めたらしい。なんとも池中さんらしい話だ。


「さっき、結局倉庫には行かなかったですもんね」


 女性二人まで起こしてしまわないように、小声で話す。そうなんだよとばかりに、池中さんが頷いた。


「とてもじゃないけど、倉庫まで食べ物を取りに行こうって言い出せる雰囲気じゃ無かったよね」


 それはそうだ。なにせ、倉庫に向かう途中で菜摘さんが亡くなっているのを発見したのだから。


「まさか、今更食い物を取りに行きたいとか言うんじゃねぇだろうな」

「い、一応、我慢はしているよぉ……」


 堀さんに凄まれ、池中さんは再び芋虫よろしく毛布にくるまった。




 夕食はちゃんと食べたと言っても、倉庫に常備されていた缶詰などの非常食ばかりだ。池中さんにとっては、とても満足のいく量では無かったのだろう。そう考えると、少し可哀想な気もしてくる。

 とはいえ、今は非常時だ。いつ三谷先生が襲って来るか分からない以上は、単独で行動する訳には行かない。


「三谷先生、今頃どこで何をしているんだろうな……」


 僕の呟きに、堀さんが片眉を上げる。いきなり何を言い出すのかと言いたげだ。


「なんでこんな雨の中、外に居たんだろう」

「そりゃ、あの女を殺す為じゃないのか?」

「皆を手紙でここに呼び寄せたのも、三谷先生だったのでしょうか」

「そりゃ、そう考えるのが自然だろう」


 堀さんはそう言うけれど、どうもしっくり来ない。

 まずは、僕以外の皆がここに呼ばれた、あの手紙だ。今日、この場所に彼等を集めたことには、きっと意味が有るのだろう。だが、偶然土砂崩れが起きて、偶然ここに全員が取り残されてしまったというのは、何ともご都合主義な話だ。

 もし、それが偶然では無いとしたら? そうだ、あの土砂崩れは土砂崩れを防止するネットが切れたことで発生していた。ネットを切るだけなら、人為的に土砂崩れを起こすことが出来るかもしれない。

 ……いや、それもおかしい。三谷先生は、この廃校までタクシーでやって来たのだ。タクシーは現地まで送るだけでは無く、ここから町まで戻って行く。もし三谷先生が来る時に土砂崩れの細工をしていたのなら、タクシーが戻れなくなってしまうはずだ。もしかして、タクシー運転手もぐるだったりするのだろうか。


 ダメだ。分からない。色々考えようにも、頭の中でぐにゃり、ぐにゃりと形が歪んで、綺麗に纏まらない。そうだ、さっきあの写真を見た時にも、何かがおかしいと、そんな気がしたんだ。だが、その内容が何なのか。違和感は確かに掴んでいるのに、その詳細が見えて来ない。

 ふと見れば、堀さんもまた、怖い顔をして考え込んでいるようだった。彼もまた、色々と考えを纏めようとしているのだろうか。


 そして、池中さんはと言えば。


「ああ、やっぱりお腹がすいた……」


 ぐうぅぅぅ、と派手にお腹を鳴らしていた。


「ねぇ、僕一人でも倉庫に取りに行ってきても良いかなぁ?」

「危ないですよ」

「やっぱり、そうだよね……ねぇ、二人は寝ているみたいだし。ご飯を取りに行くくらいなら、ダメ?」


 堀さんと、思わず顔を見合わせる。


「そうだ、倉庫に行くなら何も校舎の外から回り込まなくても、体育館の入り口から出て行けば、すぐに着くよ! そこなら近道になって、戻って来るのも速いし、雨にも濡れない。ね? ね?」

「はあぁぁぁ、ほんっとお前、食い意地が張ってんなぁ」


 呆れたように呟く堀さんだが、彼のお腹もきゅるるる、と小さな音を立てた。


「……まぁ、缶詰だけだったしな。こんな時間になりゃ、腹も減るわ」


 堀さんの同意を受けて、池中さんが目を輝かせる。


「じゃ、取りに行こうよ、食べ物!」


 ずっと職員室に籠もっているよりも、三谷先生を探しに行った方が良いのでは、とか。凶器になりそうな物を探しに行くべきでは、とか。色々考えたりもしたけれど、まさかそれよりもご飯を取りに倉庫に行くことになるとは思いませんでした。食欲、恐るべし。

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