「はぁ、動いたらお腹がすいてきちゃった」
職員室に戻る道すがら、池中さんが小さな声で空腹を訴えた。
「あんなに食べただろうが」
「でも、もう結構時間も経ったしぃ」
池中さんと堀さんのこんなやりとりも、すっかり見慣れてしまった。今では二人に親しみさえ感じているのだから、ここで過ごした時間は短い割に濃密な体験なのだと実感する。我ながら単純だ。
「また倉庫から何か持ってきたらどうですか? 土砂崩れで取り残されるという非常事態なのだし、食べ過ぎと怒られることは無いでしょう」
「だよね! ねぇ、神尾さん。倉庫まで一緒に来てくれる?」
「ええ、良いですよ」
池中さんの言葉に頷き、僕はちらりと堀さんの顔を見た。彼とは外に調べに行くべきかと話していたのだ。堀さんは女性二人に視線を送る。
「俺達は倉庫まで行ってくるけど、二人はどうする?」
堀さんの言葉に、女性陣は顔を見合わせた。
「私も行こうかしら」
「そうね。待っているのも不安ですし」
「雨が降っているので、濡れてしまうかもしれませんが」
「いいのよ、どうせあそこから持ってきたパジャマを着ているんだもの。新しく替わりのパジャマを持ってくればいいだけだわ」
そうだった。女性陣はパジャマ姿なのだ。とはいえ色気のあるような物では無く、誰でも着られるようなフリーサイズのありふれたパジャマ。それはそうだ、洒落たデザインの物では無く、災害時用の備蓄品なのだ。
結局、五人全員で倉庫まで行くことになった。生徒玄関から外に出て、校舎をぐるりと回り込むように、裏手の倉庫に向かう。途中で、職員室の外を通りがかることになる。あの奇妙な人影が目撃された場所だ。お腹がすいたな~と呟く池中さんの暢気さとは裏腹に、僕は内心で緊張していた。先ほどの影が今もそこに居るとは思えないけれど、少なくとも、僕達が職員室に居たあの時間には、これから通る場所に誰かが居たのだから。
しかし、僕の緊張は職員室に辿り着くよりも先に、ぷつりと途切れてしまった。僕だけでは無い。皆の足が、そして視線が、釘付けになる。そこにある光景に目を奪われ、逸らすことが出来なくなっていた。
「菜摘……さん?」
僕の震える声は、ざあざあと降り注ぐ雨音に掻き消された。ゴトリと音がして、誰かが持っていた懐中電灯が地面に転がる。
「っうわあああああぁぁぁ!」
池中さんが悲鳴を上げ、倒れた。腰が抜けて、尻餅をついてしまったようだ。
「なん……」
堀さんは言葉を紡ぐことも出来ず、ただただ目の前の光景を凝視していた。
「な……菜摘? 菜摘?」
舞子さんが菜摘さんに駆け寄り、彼女が座り込んだ場所に屈み込む。しかし、菜摘さんの手に触れた瞬間、ビクッと驚いたように身を震わせた。
「冷たい……」
そう、僕達の目の前でコンクリートの壁にもたれかかるようにして座っている――否、座らされているのは、菜摘さんだ。灰色の校舎に同化するかのように、彼女の肌も土気色をしている。カッと見開かれた双眸は、焦点も定まらず、虚ろに空を見つめている。まるで人形のように生気を無くし、だらりと垂れ下がった両腕。地面に投げ出された両脚。どれだけ雨に打たれていたのか、彼女が着ている二人とお揃いのパジャマは、ぐっしょりと水を吸っていた。
僕はごくりと唾を飲み込み、意を決して菜摘さんに真っ直ぐ懐中電灯の明かりを向けた。青白い肌は、生者の浮かべる色では有り得ない。彼女の頬は鋭い刃物で切られたかのように線が走り、裂けていた。いや、頬だけでは無い。首元は骨が見えそうなほどに深々と切られ、肉が抉れて、彼女が着ていたパジャマが赤黒く染まっている。
僕の脳裏に、七不思議の調査ノートに書かれた噂が浮かぶ。いや、きっと僕だけでは無い。頬と、そして喉を切り裂かれた菜摘さん。その姿は、あの通り魔に襲われたという、女生徒の噂を思い起こさせる。
ただ一点違っているのは、どう見ても目の前の彼女の瞳は――光を失っている。
「う――」
ダメだ、脈を確認するまでも無く、彼女は死んでいる。それでもごく僅かな、一本の糸ほどの期待を込めて、脈を取ろうとし――彼女の腕に触れた瞬間、その冷たさに全てを諦めた。
「うぐ……」
池中さんが小さく呻き、口元を押さえる。こみ上げてくる物を、必死に押し殺しているのだろう。
「菜摘……菜摘……」
舞子さんは信じられないと言った様子で、何度も菜摘さんの名前を呼んでいた。
「おい、ここって……」
そんな中、堀さんは一人冷静にじっと一点を見つめている。彼の視線の先には、校舎の一室――校長室があった。そう、菜摘さんがもたれかかっていたのは、丁度校長室の外にあたる。
おそらく、皆同じことを考えていたのだろう。こんな時に、三谷校長はどこに行ってしまったのか。あるいは、彼が――? と。
「どう……しましょう。彼女を、このままにしておいて良いものか……いや、でも……」
雨晒しになっている菜摘さんの姿があまりに気の毒で、そのままにしてはおけないと思う反面、僕だって現場保存という言葉くらいは知っている。勝手に動かして良いものか、判断に迷い、皆の顔を見回す。
「こういうのって、動かして良いものなの……?」
池中さんが、疑問を口にする。
「現場保存が大事だとは、よく聞きますが……でも、今の僕達には警察に連絡を入れる手段も無ければ、警察だってここにすぐ来られる訳では無い」
「んじゃ、動かして良いってことか?」
「僕にも分からないですよ、そんなこと」
堀さんの言葉に、思わず声を上擦らせる。僕に〝良いってことか〟なんて聞かれても、答えられる訳が無い。専門家でも無いのだから詳しいことは言えないし、責任だって取れないのだ。
「ねぇ、じゃ、菜摘はこのままなの……?」
菜摘さんの傍らにしゃがみ込んだままの舞子さんが、途方に暮れた顔で僕を見上げた。
「僕だって、どうにかしてあげたいですけど……」
動かして良いかなんて、分からない。ああ、こんな時に図書室の本でも残っていれば、調べられただろうに。いや、そもそも電話さえ通じれば、土砂崩れさえ起きていなければ――あれこれ思いはするが、結局、その全てが叶わなかったからこそ、僕達は今この廃校に取り残されているのだ。
僕はふと、静かなままの成美さんを見つめた。彼女はまるで遠くを見るような視線で、ここでは無いどこかを見ているかのようだった。虚ろな瞳には、何も映し出されていない。衝撃的な菜摘さんの姿も、僕達の顔さえも。
「あの、成美さん……?」
このまま放っておいたら、彼女はふっと気を失ってしまうのではないか。そんな不安に駆られて、僕は思わず声を掛けていた。まるで無機質な人形のように、ゆっくりと、彼女の顔が僕の方を向く。真っ直ぐにこちらに向けられた彼女の瞳を正面から覗いて、僕の全身がぶるりと震えた。
彼女の顔からは、感情が消えていた。恐怖も憐憫も驚愕も、何も映し出されてはいない。元が美しい彼女だからこそ、その感情の消えた顔はより作り物めいていた。こんな凄惨な現場を見て、どうして無表情で居られるのだろう。僕には、彼女こそが不気味に思えてきた。
「何でしょう」
「あ、いえ、成美さんはどう思われますか?」
「どう、とは?」
ごく静かな成美さんの口調。職員室では楽しそうに談笑していたり、調査ノートを読んでは涙を零したりしていたのに、今の彼女は同一人物とは思えないほどに感情を失い、冷え切っている。
「菜摘さんの遺体を、動かして良いかどうか……」
遺体と口にして、改めて彼女が死んだのだということを実感する。ああ、そうだ。ここにあるのは、死体なのだ。しかも、自然死では無い。明らかに、誰かに殺されたものだ。
――そうだ。菜摘さんは殺されたのだ。誰に? 僕の脳裏に、職員室で見たあのシルエットが浮かび上がる。僕はハッと弾かれたように、周囲に視線を走らせた。懐中電灯で当たりを照らし出しても、人影は見当たらない。
「現場保存の鉄則、という言葉を聞いたことが有ります」
そんな僕を意に介する様子も無く、成美さんが淡々と答える。
「私達素人が勝手に動かして警察の捜査を混乱させるよりは、そのままにしておいた方が良いでしょう」
成美さんの言葉は、正論だった。僕も池中さんも、堀さんまでもがその言葉に頷く。
しかし、一人だけ。舞子さんだけは、成美さんに食ってかかった。
「貴女ねぇ、菜摘をこのままにしておけって言うの? 雨の中、野晒しに?」
「仕方の無いことかと。下手に現場を荒らしてしまった後では、元には戻せませんから」
どこまでも冷めた様子の、成美さんの言葉。どうして彼女はこの状況で、こんなにも冷静で居られるのだろう。堀さんもまた、成美さんを心配そうに見つめていた。
「僕は、死体に触るの、嫌だなぁ……」
池中さんがまったく別の観点から口を挟む。その言葉に、舞子さんは今度は池中さんを睨み付けた。
「別にいいわよ、あんたなんかには頼まないから!」
「そ、そもそも、動かさない方がいいって……」
どうしたものかと、堀さんに視線を向ける。彼は肺に溜まった重苦しい空気を吐き出すかのように、大きなため息と共に、こう告げた。
「そのままにしておこう」
苦々しい声だった。
「そんなっ」
「仕方無ぇだろう!」
なおも食い下がろうとする舞子さんだが、堀さんに怒鳴られて、それ以上の言葉を飲み込んだ。彼女だって、理性では分かっているのだ。ただ、感情が納得していない。そのように見える。
「……戻りましょうか」
動かさないと決めたなら、これ以上ここに留まる理由は無い。流石にこんな状況で、池中さんもお腹がすいたなどとは、これ以上言いはしないだろう。現に、遺体を見て嘔吐きそうになっていたのだし。それより何より、これからのことを皆で相談しなければならない。
僕の言葉に皆頷き、菜摘さんの遺体に背を向けて、歩き出す。雨に濡れたせいもあるのだろうが、来た時と比べて、僕達の足取りは酷く重かった。