最初はこのまま一階を見て回ることにした。僕達は職員室と保健室、校長室の並ぶ廊下と、その左右にあるトイレ、玄関近くの事務室にしか移動をしていない。校舎の反対側には、一年生の教室が並んでいて、それ以外にも体育館に続く渡り廊下があり、学食と購買も併設されている。
まずは一階の教室棟に向かい、並んだ教室を一部屋一部屋チェックしていくことにした。扉を開けて覗き込み、懐中電灯で部屋の中を照らしていく。いつまた懐中電灯の明かりの先に、不審な人物の影が浮かび上がるか。そう思えば、五人で動いていても拭いきれない恐怖が纏わり付く。ここに居るうちに慣れてしまい、すっかり忘れていた、闇への恐怖。自分達が夜の廃校に居るのだと言う恐ろしさを、暗い廊下を歩くうちに、改めて実感させられる。
一年生の教室は一階ということもあり、いくつかの教室は、窓ガラスが割られていた。心ない人が侵入を試みたのかもしれない。風が吹き荒び、割れた窓から雨粒が入り込んでいる。
「寒いですね」
成美さんが、ぶるりと肩を震わせた。保健室や職員室の窓ガラスが割れていなかったのは、幸運だった。案外、そちらの方が窓ガラスが頑丈だったりするのだろうか。
長年雨風に晒されていたのだろう教室内は、他と比べて荒れ放題だった。今も窓から吹き込む雨が、床を濡らしている。
「ひっ」
突然、舞子さんが声を上げた。と同時に、彼女が手にしていた懐中電灯が床に落ちて、大きな音を立てる。
「い、今、何か――」
舞子さんが震えながら指さす方に、持っている懐中電灯を向ける。明かりに照らされた先で、黒い塊が走るのが見えた。
「うわっっ」
僕も思わず、懐中電灯を落としそうになってしまった。黒い塊が見えたのは、ほんの一瞬のこと。明かりから逃げるように、すぐに姿を消してしまった。
「鼠だろう。んなことでいちいちびびんなよ」
堀さんが呆れたように声を上げる。
「怖いものは怖いんだから、仕方ないじゃない」
舞子さんがムッとした様子で言い返す。僕も同感です。
教室棟の一階を調べ終えた僕達は、体育館の入り口に向かった。渡り廊下を歩いた先は、広い板張りの体育館だ。
広い空間に散らばり、四隅に懐中電灯の明かりを向けるが、やはり人の姿は見当たらない。体育館内は音が反響し、叩き付ける雨音がやけに籠もって聞こえた。
「誰も、居ませんね」
皆で顔を見合わせ、首を振る。ここも空振りだ。
体育館の次は、学食に向かった。小さな学校だが、生徒達が不自由無く飲み食い出来るように、学食にはかなりの数のテーブルと椅子が並べられていたはずだ。だが、廃校に際して委託業者が引き払ったのか、学食はまるで多目的ホールであるかのように、だだっ広い空間になっていた。厨房のある場所はそのまま残ってはいるものの、厨房の機材さえも、大半が引き払われている。
「やっぱり、ここは廃校なんですね……」
「当たり前だろう、何を言っているんだ、今更」
僕の言葉に、堀さんが呆れた声を返してきた。
「それはまぁ、そうなんですけど」
調査ノートで見た、学食の様子。僕の中ではそのイメージが強かったから、ただだだっ広いだけの空間が広がっていることに、少なからずショックを受けていた。
――あの子が書き残した場所は、今はもう、ここには無い。
グラウンド脇にある部室棟までは流石に探さなくても良いだろうということで、次は二階を見て回ることにした。かつん、かつんと足音を響かせながら、階段を上がる。僕は階段の数にちなんだ怖い話を思い出して、あえて段数は数えないことにした。意識しないようにと思うほどに、余計に意識してしまう。無意識に脳内でカウントしてしまう数字を振り払うように首を振っていたら、僕のすぐ後ろに居る堀さんが、怪訝そうな声を上げた。
「神尾さん、あんた何やってるんだ?」
「いや、十三階段なんて噂もあったなぁって思って……」
「それ、今言うことかぁ?」
僕の言葉で、皆も意識してしまったようだ。僕は申し訳なさで、身を縮める思いだった。別に言うつもりも無かったし、聞かれたから答えただけなのだが……ふと隣を見れば、舞子さんが目を細めてこちらを睨め付けていた。
二階は二年生の教室と、広めの特殊教室が並ぶ。多目的ホール、音楽室、コンピュータールーム、図書室など。無人のだだっ広い多目的ホールを抜けて、音楽室へ。そういえば音楽室も学校の七不思議では定番の場所だが、調査ノートには無かったな。そう思い油断していたところ、懐中電灯の明かりが音楽家の肖像を浮かび上がらせて、ひぇっと声を上げてしまった。笑う者は誰も居ない。皆も不気味に思ったのだろう。しかし、スルーされるくらいなら、まだ笑われた方が気は楽だった。
気を取り直して、図書室へ。本棚の本はどこかに移されたのか、ほとんどの棚が空になっていた。広めの部屋に、棚だけが並んでそびえ立っている。
「本の無い図書室って、なんだか不思議ですね」
「ここに有った本は、どこに行ってしまったんでしょう」
成美さんが不思議そうに呟く。
「図書館にでも寄贈されたんじゃないですか?」
「ああ、なるほど。それが一番有りそうですね」
これだけの部屋に収められていた本となれば、かなりの量だ。処分するのも一苦労だろう。どこかの図書館に寄贈されたにせよ、それ以外の施設にせよ、必要とする人の元に本が届いてくれたならば良いのだが。
「ちょっと、本なんてどうだっていいじゃない」
舞子さんが少し苛立った様子で言った。菜摘さんが心配な彼女にとって、本の話をする僕達は、暢気過ぎるように見えたのだろうか。
「すみません、すぐに行きます」
僕に続いて、成美さんも図書室を出て廊下を進む。特別教室を一通りチェックした後は、教室棟へ。二年生の教室は、一階にあった一年生教室とは違って窓が割られておらず、どの教室も比較的綺麗な状態だった。とはいえ長年使われていない為に、懐中電灯の明かりを向ければ、白く埃が舞う。教室の隅の暗がりまで照らすようにして、一部屋一部屋調べていく。並んだ教室を全て調べ終えたら、階段前にあるトイレまで。しかし、校舎二階を調べ終えても、いまだ誰の姿も見つからない。
ここで、少し考えた。ひょっとしたら、校舎の中を調べるよりも先に、人影が見えた校舎の外を調べてくるべきでは無いのか。相手を特定せずに〝誰か〟を発見するだけならば、その方が可能性は高そうだ。同時に、教室を覗いていたあの影と対峙することを考えて、ぞわりと全身の肌が粟立った。
皆に提案するべきだろうか。しかし、あのシルエットが誰か分からない以上は、危険を伴う。どうするべきかと逡巡していると、声が掛かった。
「どうした?」
堀さんだ。懐中電灯をこちらに向けて、軽く首を傾げている。いや、明かりは僕が眩しくないように、やや下目に向けられていた。こういうところで気遣いがしっかり出来ているんだよなぁ、彼。
「少し、考えていたんだけどさ」
「おう」
「校舎内を探すよりも先に、さっきの人影が居た外を見た方がいいのかも……って」
「あー……」
僕の言葉を、堀さんは否定しなかった。彼も同じように考えたのだろう。その後の僕の懸念も、また同様に。
「もし外を調べるんなら、女二人は連れて行かない方がいいな」
「二人だけじゃ危ないと思う」
「それなら、池中の奴にも居てもらうか。頼りにはならねぇが、三人居れば何とか……どうだろうな」
少し自信無さげな様子だが、どうやら彼は成美さんと舞子さんを危険に晒したくは無いようだ。その気持ちは分かる。とても良く分かるが、だからと言って僕と二人で見に行くというのも大丈夫なのだろうか。
「あの、僕、全然身に覚えが有りません」
「は? 何の話だ」
突然の言葉に、堀さんが面食らった顔をする。
「間違えた、僕、全然腕に覚えが有りません!」
恥ずかしい。単語を一つ間違えただけで、全く違う意味になってしまった。堀さんはぷっと吹き出して、声を上げて笑った。
「いきなり何の自供を始めたかと思ったぞ。あはは、分かっているよ。神尾さんに腕っ節なんざ期待しちゃいないって」
「でも、それだと堀さんが危なくないですか?」
「危ないのはどっちも同じだ。でも、男の俺等が行くべきだろう」
堀さんの言いたいことは分かる。しかし、僕で大丈夫なのだろうか。かと言って、僕以外の男性となると、池中さんになる訳だけれど。客観的に見て、どちらも頼りにはならないんだろうなぁ。
「しかし、ここまで来たんだ。まずは三階をちゃちゃっと調べちまおうぜ」
それもそうだと頷き、歩を進める。
三階に上がり、今度は三年生の教室が並ぶ教室棟から調べて行った。同じように一部屋一部屋中を確認して、菜摘さんと三谷先生の姿を探す。やはり、三年生の教室にも彼等の姿は無い。
トイレを調べた後、渡り廊下を通って、特別教室棟へ。三階の特別教室棟には新聞部が部室として使っていた会議室、割り箸を探しに来た調理室、生物室、美術室などが並んでいる。新聞部の前には大きな姿見が有り、夜の廊下をぼんやりと映し出していた。
懐かしいな、なんて考えてしまう。高校一年の秋、親の都合で転校を余儀なくされた僕は、新聞部に居たあの子に転校のことを伝えたくて、でも言い出せなくて、連日新聞部の部室を訪ねようとしては決心が付かずに居た。ぶつぶつと独り言を呟きながら新聞部前をうろうろとする姿は、確かに傍目に見れば不審者だろうが、まさか自分が七不思議の一つになるだなんて思いもしなかった。あの調査ノートを読んで知ったことだが、新聞部の部長さんには怖い思いをさせてしまったかもしれない。部長さんに限らず、か。七不思議の噂の一つとして、責任を取れとか言われたらどうしよう。とはいえ、僕が発端となった七不思議なんて一番可愛いもので、他と比べれば被害は軽微なはずだ。そう思いたい。
懐かしの新聞部室であった会議室も、中をしっかりと調べて行く。新聞部の活動の記録が残ってはいないかと奥の棚を調べてみたが、中はがらんどうだった。期待して来た訳では無いものの、少しがっくりとしてしまう。
生物室を調べる時は、調査ノートにあった七不思議の話を思い出して、少し背筋が寒くなった。実際にこの学校で蛙の解剖が行われていたかは分からない。それに、トラックに轢かれて死んだ荒木進は、確か学校前の道路で発見されたはず。……それはそれで恐ろしいことに、今更ながらに気付いてしまった。僕は意識せぬ間に、人が一人轢き殺された現場を通り過ぎて来たことになる。ここに通っていた生徒達が、学校に来たくないと思い辞めていったのも、仕方の無いことなのかもしれない。
特別教室を調べて行って、最後の部屋。屋上に上がる階段の手前にある、長年使われていなかったという空き教室。その部屋を調べようとしたら、僕より先に舞子さんが扉を開けて、手に持っていた懐中電灯で中を照らした。
「ここにも居ないわね……」
「そうですね」
頷きはしたものの、僕はこの部屋自体に少し興味が有った。あの子が最後の七不思議の謎として、調べようとした場所。しかし、部屋の中にはこれと言って目に留まるような物は無かった。椅子と机が置かれてはいたが、全て重ねられて端に追いやられている。広いスペースが確保された、空き教室。ただそれだけの部屋だった。
これで校舎内は一通り調べた訳だが、菜摘さんも、三谷先生の姿も、どこにも見当たらない。二人はどこに行ってしまったのだろう。
「屋上……は、調べる必要は無いか。この雨だしな」
堀さんの言葉に頷き、皆が階段を降りていく。僕はその流れに乗れず、一人で屋上に繋がる階段を見上げていた。
あの子が最後に居た場所。命を落とした場所。彼女は何を思って屋上に居て、どうして飛び降りることになったのだろうか。今の僕には、まだ、答えは見付からない。
「神尾さん? どうしたんですか?」
階段の途中で足を止めた成美さんが、不思議そうに声を掛けてきた。
「ああ、ごめんなさい。今行きます」
後ろ髪を引かれる思いで屋上に繋がる階段に背を向けて、その反対の、二階へと降りる階段を下っていく。いつか、全てが分かったら、君の最後の場所に花を手向けに来よう。
その時まで、僕に出来ることは――全てを、知ることだ。