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14:―2002年6月6日 23時00分―

 近くのトイレまで歩くと、嫌でも壁に書かれた赤色の文字が見えてくる。七つの死と、過去を清算。これは何を指していて、誰に向けた言葉なのだろう。いや、それ以上に誰が書いた文字なのだろう。

 堀さんでは無いことだけは確かだ。僕達はお互い、相手が白だと断言出来る。でも、他の人はそうでは無い。職員室で一緒に居た池中さんでさえ、何度も廊下に出ていた。彼にだってこの文字を書くチャンスはあったのだ。

 ゆるりと頭を振って、トイレに向かう。こんなところで考え込むより、さっさと職員室に戻ろう。そう思って男子トイレに入れば、不思議と個室の扉は全て開いたままだった。


「あれ? ひょっとして、トイレットペーパーでも取りに行ったのかな」


 個室を一つ一つ覗き込むが、やはり池中さんは居ない。掃除用具入れを開ければ、上の棚には未使用のトイレットペーパーが置かれていた。


「紙も、ここに有るのに……気付かないで取りに行っちゃったのかなぁ」


 不思議に思い首を傾げながらも、用を済ませてトイレを出る。


「――ひえっ?」


 誰も居ないと思っていた廊下に人影があって、僕は思わず声を上げてしまった。池中さん……では、無い。トイレ付近に居たのは、パジャマ姿の成美さんだ。


「あ、ごめんなさい。驚かせてしまいましたか?」

「いえ、すみません。人が居るとは思わなかったので……」


 なんだか気まずい。彼女もトイレに来ていたのだろうか。しばし並んで廊下を歩く。


「そちらの部屋の様子はどうですか?」

「どうと言われても……今は私一人なので、少し怖いくらいです」

「え? あの、菜摘さんと舞子さんは一緒じゃ無いんですか?」

「え、ええ。二人は元々仲が良かったみたいですし、邪魔するのもなんだか気が引けてしまって……それに、二人で話が有ると言うものですから」


 どうやら、菜摘さんと舞子さんは二人で事務室に居るらしい。本人達は体調の良くなさそうな成美さんを保健室のベッドでゆっくりと寝かせてあげるつもりだったのかもしれないが、それでも彼女を一人きりにするなんて、酷い話だ。


「もし良ければ、こっちに来ますか?」

「え? 職員室に、ですか?」

「ええ。男ばかりですけど、一応は三人居ますし」


 僕がそう言うと、成美さんは一瞬怯えた表情を見せた。あ、声をかけて失敗だったかなと僕が後悔してすぐに、少し悩んだ様子で成美さんは頷いた。


「そう、ですね……一人よりは、そちらの方が良いかもしれません」


 怖がらせてしまったかと心配したが、そうでは無かったようで、一安心だ。このまま成美さんを連れ帰ったら、堀さんはびっくりするかなぁ。でかしたとか言ってくれは……流石にしないか。成美さんも居るのだし。

 そんなことを考えながら職員室の扉を開けて、成美さんを先に促す。


「有難うございます」

「いえいえ」


 礼儀正しい彼女にこちらも笑顔で返す。職員室の中では、ソファーの上で横になってだらりと寛いでいた堀さんが、慌てて立ち上がったところだった。


「な、成美さん?」

「トイレ前で会ったんですよ。一人だと言うので、一緒にここに居た方が良いかと思って、連れてきました」

「一人? それはまた、どうして」

「菜摘さんと舞子さんは、二人で事務室に居るらしいです」

「あの二人……」


 僕が説明すると、堀さんは苦々しげに呟いた。確かに一人置き去りにするのは酷い気もするが、成美さんが体調が悪かったなら、ゆっくり寝かせてあげたいという気遣いも、考えられなくは無い。


「いいんです、私が二人にどうぞと言ったのですし」


 成美さんは不機嫌そうな堀さんを宥めている。ああ、堀さんの顔がすぐにデレてしまった。この人、分かりやすいなぁ。


「そう言えば池中さん、すぐそこのトイレには居ませんでした」

「ああ? トイレットペーパーでも取りに行ったんじゃないのか?」

「でも、掃除用具入れの中に有ったんですよ、トイレットペーパー」

「気付かなかったとか?」


 堀さんは成美さんに自分が寝そべっていたソファーを勧めた。応接テーブルの長辺にはそれぞれ三人掛けの長いソファーが置かれ、短い辺には一人掛けのソファーが向かい合うように置かれている。成美さんが腰掛けたのは、三人掛けのソファー。僕と堀さんとが、一人掛けのソファーにそれぞれ腰を下ろした。


「皆さんは何かお話をしていたんですか?」

「ええ。僕の取材に協力してもらっていました」

「まぁ」

「こいつに根掘り葉掘り聞かれちまいましたよ」


 僕達の言葉に、成美さんが表情を綻ばせる。これはチャンスだとばかりに、僕はレコーダーを手に取り成美さんに詰め寄った。


「あの、良ければ成美さんからもお話をお聞きしたいのですが」

「え……」


 途端に、成美さんの表情が強張る。ああ、僕には女性の機微が難しい。


「おいおい、無理強いはするなよ」


 成美さんの表情を察してか、堀さんに止められてしまった。


「ダメ……でしょうか」


 成美さんは拳を握りしめ、俯いてしまった。


「あの、私からはお話するようなことは何も……」


 消え入るような成美さんの声を掻き消すように、ガラガラと職員室の扉が開いた。


「あー、すっきりしたぁ……って、なんで女の人がここに居るのぉ?」


 場違いな声に、気が抜けてしまう。どうやら、池中さんがトイレから戻ってきたようだ。


「成美さんが一人で居たので、連れてきたんですよ。池中さんこそ、どうしたんですか。僕もトイレに行ったけど、居なかったじゃないですか」

「ああ、ひょっとしてすぐそこのトイレ? 嫌だよ、あんな文字が書かれたところ、怖くて近付きたくも無い。それに、大きい方だったからね。誰かが来て、音を聞かれたら恥ずかしいじゃないか」

「わざわざ別のトイレに行っていたんですか?」

「そりゃ勿論」


 さも当然とばかりに頷いて、池中さんは長いソファーに腰を下ろした。重みでソファーがずしりと沈み込む。




 男三人の時はそれほど気にはならなかったが、四人となると、流石に人口密度が高い気がしてきた。女性を意識しているというのも、勿論ある。気にせずに居られるほど、僕は経験豊富では無いのだ。堀さんだって、ちらちらと横目で成美さんのことを見ている。きっと、気にしていないのは池中さんだけだ。彼はいまだ、首から掛けたままの僕のデジタルカメラに夢中だ。


 池中さんは特例としても、男ならば大半の人間は成美さんに目を奪われるだろう。それほどまでに、彼女の容姿は際立っていた。肩から腰までのほっそりとした体つき、それでいて出るところはしっかりと出ていて、メリハリが利いている。きっとシルエットだけでも美人と分かるに違いない。顔立ちは舞子さんほど派手では無く、菜摘さんよりも女性らしさを感じさせる。自然なメイクが彼女の美しさをより際立たせ、少し青ざめた顔色も、また庇護欲を掻き立てる。彼女からは匂い立つような色香が漂っている気がした。

 って、いかんいかん。これでは堀さんと同じじゃないか。僕は女性に見蕩れている場合では無いのだ。十五年前、この学校で何が起きたのか。その事実を明るみに出し、世間に公表するという目的が有るのだから。


 そう考えると、脅迫文を送りつけた主と僕の目的は、そう遠くは無いのかもしれない。何の目的であんな文章を送りつけたのか、残したのか、そして今日皆をこの廃校に集めたのか。その理由は分からないにせよ、僕の興味を引きつけてやまなかった。




「で、どうするの。今日は結局四人で寝ることになるのかな?」


 池中さんがのんびりと尋ねる。僕と堀さんは、思わず顔を見合わせた。


「それが良い……と、思いますけど」

「そ、そうだ。こんなところで、何が起きるかも分からないしな」


 普通なら、男三人と一緒の方が怖いのかもしれない。だが、成美さんは不安げに瞳を揺らしながらもこくりと頷き、立ち上がった。


「私、事務室の二人に、ここに居ることを伝えてきます」


 そう言って、成美さんが立ち上がる。一人で職員室を出て行こうとする彼女の後を、慌てて堀さんが追って行った。


「待って、一人じゃ危ない。俺も行く」

「僕と池中さんがトイレに行く時は、何も言わなかった癖に」

「本当だよ」

「うるせえ、夜の学校を女性一人で歩かせられるか」


 僕と池中さんの突っ込みに声を荒らげ、堀さんも職員室から出ていく。二人残された僕と池中さんは何とは無しに顔を見合わせ、同時に立ち上がり、二人の後を追った。

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