俺はとことんついてない男だ…。仕事場で怒りのあまりにとんでもない事をしでかしてしまった…これからどうすれば良いのだろうか…。まさにお先真っ暗といった状態に俺は陥っていた…。
俺・津上寛太の夢は漫画原作者だった。幼い頃から漫画が大好きだった俺だが、絵を描くのは超が付くほど苦手だった。それでも物語を描く仕事をしたかった俺は、原作者としての道を歩んだのだ。その近道として、東京にある漫画雑誌の出版社の面接を受け、無事に内定を貰った。編集者として多くの漫画家達と交流を持ち、共に仕事をしていけば、創作のノウハウを培う事が出来るだろうと考えたからだ。会社へはなるべく近場から通いたいと思った俺は、実に打って付けの部屋を見つける事が出来た。4階建てのビルの最上階で、部屋の広さは10帖のワンルーム。家賃が敷金・礼金なしで3万円なのだから、これ以上に好条件な物件は中々ないだろう。最初は俺より先に入居希望者がいたそうなので、半ば諦めてはいたのだが、突然キャンセルの連絡があったと不動産屋から聞かされた。俺は実についてる男だと思い、即入居を決めてこの部屋に引越してきた。ここから俺の将来の夢への第一歩が始まるのだと、胸を躍らせていた。
だが、人生はそんな甘いものではない…。
「すみません…先生の原稿がまだ終わりそうもないので、もう少しだけ待っていただけないですか?」
『なに待てだとぉ⁉馬鹿野郎‼締め切りは今日なんだぞ‼なんとしてでも今日中に描かせろ‼でないとクビにすんぞお前‼』
電話の相手は編集長だ。いつもこうなんだ…。俺はあるアナログ派の漫画家先生の担当を任されていたが、その先生が遅筆なために、このように編集長から毎日のように怒鳴られ通しだった。先生からも、「君が担当になってから筆が遅くなってしまった」と言われてしまう始末。このくらいで済んでいたのならまだ良かったが、俺は後に取り返しのつかない失敗をやらかしてしまったのだ…。
その日の先生は絶好調だったのか、いつもよりペン先がスムーズに進み、原稿が早く描き上がったのだ。これで今日は怒鳴られずに済むと安堵した俺は、出来上がった原稿を急いで出版社に持って帰った。けれど…会社に戻り鞄の中を見ると、預かったはずの原稿が無くなっていたのだった…。どこを探してもないのだ。俺は先生宅に慌てて電話をかけたが、先生は『君が鞄に入れて持って行ったじゃないか!』と答えた。俺は先生からも編集長からも大目玉を食らってしまった。先生は急いで新しい原稿を描き始めたが、締め切りには間に合わなかった…。そして、これが原因で俺は会社をクビになった…。
「ったく!本当に使えねぇ野郎だなお前は‼」これが編集長から言われた最後の言葉だった…。
会社から出た俺は、辛い涙を必死で堪えながら、家に帰ろうとした…が、その途中、俺は信じられない光景を見た。
「…アッ‼」
会社近くのゴミ置場に、漫画の原稿がビリビリに破り捨ててあったのだ。それは、紛れもなく先生の原稿だった…。
「ど…どうして…⁉」
俺は我が目を疑った…。原稿は間違いなく自分で鞄にしまったのだから、誰かが盗んで捨てるなんて事は到底考えられない…。考えられるとすれば、やはり自分が捨てたという事になる。普通であったらまずそんな事は絶対に有り得ないだろう…だが、ここ何日も眠らず、食事も満足にとらず働き続けたために、一時的におかしくなったのではないかと俺は考えた…そうとしか考えられなかった…。
「ちくしょう…俺はなんて馬鹿なんだ…」
俺は無残に破かれた用済みの原稿を搔き集め、黙ってその場を後にした…。
俺は本当についてない男だ…。
会社はクビになったが、俺は漫画原作者の夢を諦める事が出来ず、原作者募集に応募したり、小説サイトに作品を投稿したりなど、近くのコンビニで働きながら創作活動に専念していた。だがこの地域は決して治安が良いとは言えず、店の前は夜になると不良達の溜まり場となっている。不良達が騒ぐせいで、近所から何度もクレームが来ていた。その上最近の中年は威張り腐っていて、ちょっとした事ですぐに腹を立てる。やれ接客がなってないだの、マニュアル通りにやるなだの、そんな事ばかりだ…。しかし一番不愉快に思ったのは、ある一人の女だった…。
いつものようにレジで仕事をしていると、一人の怪しげな女性客が現れた。見たところ30代半ばくらいだろうか。真っ赤なノースリーブワンピースを着た黒長髪のその女は、死んだ魚のような濁った目で、俺を見ながら薄気味の悪い笑みを浮かべた。
《…変な女だ》と、俺は思った。
女は炭酸水を持ってレジにやって来た。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちですか?…袋はお付けいたしますか?…」
女は何も答えない…。忙しくてイライラしていた俺は、女を早く帰そうと思い、さっさと会計を済ませた。
「…ありがとうございました」
女は黙って店を出て行った…と思ったが、俺がふと外を見ると、ガラスの向こう側から女が俺の方を見てまたニヤリと笑ったので、思わずゾッとしてしまった…。女は毎日店にやって来ては、俺を見てあの薄気味悪い笑みを浮かべた。
《まったく気持ちの悪い奴が現れたもんだ…もう来ないでくれよ畜生め…》と、俺は心の中で彼女を罵倒した。
俺がコンビニで働き始めて1年が経とうとしていたある日の事、俺はベッドから起き上がり、トイレに行こうとしたその時だった。突然足元が滑り、俺はクローゼットの扉に頭をぶつけてしまった。幸い怪我はなかったものの、扉は木製だったので、ぶつけた部分が破損してしまった。修繕費は約20万、火災保険は10万円しか保証されず、残りの10万は俺の負担となってしまった…まったくついてない…しかし何故転んでしまったのか自分でもよく分からなかった…。ただあの時、まるで誰かに押されたかのような感じがしたのだ…。
おかしな事はこれだけではなかった…。いつものように働いていると店長が、「あれ?随分痩せたんじゃないかい?」と、俺に言った。言われてみれば確かにそうだ。この前までは少し太っていたのが、今では肋骨が浮き出るほどに痩せていた。別に食事制限や激しい運動をしているわけではない。なのに、俺の身体は日増しに痩せ細っていき、まるでミイラのようにガリガリになっていった。心配になった俺は病院で身体検査を受けたが、身体自体は至って健康そのもので、医者はストレスが原因だろうと診断した。だが、俺は身体だけでなく精神的にも病んでいき、段々と乱暴になってきているように感じていた。仕事では溢れ出そうな怒りをどうにか抑えていたが、プライベートでは通行人にちょっとぶつかっただけでも怒鳴ってしまうくらい短気になっていた。そのうえ毎日疲ればかりが堪り、食欲もあまり湧かず、肝心なストーリー創作の作業も手に付かない状態で、休みの日は一度も飲んだ事の無かった酒とタバコをやりながら、家でただダラダラと過ごす日々が続いてしまっていた…。
俺は、以前の自分とはすっかり変ってしまっているのを感じていた。悪魔か何かに身体を乗っ取られたかのように、俺の精神はどんどんと蝕まれていった…。
そして、俺はついにとんでもない事をしてしまった…。その日、俺は一人のサラリーマンの客から難癖をつけられた。レジで同じ商品を2度スキャンしてしまったというほんの些細なミスだった。だがその客は俺を怒鳴り罵った。俺は今にも爆発しそうな怒りを必死で堪え、店長と一緒にただ「申し訳ありません」と謝り続けた…だが、客は俺に対しこう言い放った。
「それでも店員かよ!つかえねぇ野郎だな‼」
その一言を聞いた途端、サラリーマンの顔に俺の拳が飛んだ。
「何をするんだ‼」俺は店長の言葉で我に返ると、サラリーマンが床に倒れ込んでいた。
「お客様!大丈夫ですか⁉」店長は慌ててサラリーマンを助け起こした。そして、サラリーマンは俺の顔目掛けて拳を振るった。
「クソッタレが‼」倒れた俺にそう吐きかけて、サラリーマンは店から出ていった。鼻から血を流して倒れている俺を見ながら、他の客達も通り過ぎていく。店を出る客達をただ茫然と見ていた俺は、ある気配に気づき、外を見た。ガラス向こうで、あのノースリーブの女が俺を見てニヤリと笑っていた…。
俺はバイトをクビになった…。暴力店員が働いている店などという悪評が広まる事を恐れた本部と店長の意向だった。2度も仕事を失いむしゃくしゃした俺は、パチンコ店に足を踏み入れた。しかしそんな事で気が晴れるわけもなく、ただ金を無駄にしただけだ。挙句の果てには店内で怒り狂い、俺は店から追い出された。夜道をトボトボと歩く俺の前からチンピラ2人が歩いて来て、肩にぶつかったので俺は怒鳴った。
「どこに目つけて歩いてんだよクソが‼」
「なんだゴラァ‼」
俺はチンピラ達と喧嘩になり、あっけなくボコボコにされた。
傷だらけの身体で家に帰宅した俺は、バスルームでシャワーを浴びながら立ち竦んだ。シャワーの湯で殴られた傷を洗い流すが、身体の傷よりも、心の傷の方が大きく痛むのを感じた。痩せ細った肉体の上を血の混じった湯が流れ落ちていき、俺はそれをただ黙って見ていた…。
「…俺は…どこまでついてないんだ…」意気消沈した俺の脳裏に、一つの言葉が過った。
『死んでしまいたい』
俺は洗面台に置いてあった剃刀を手に取り、左手首にグッと押し当てた…。
ピンポーン
突然鳴り響いたインターホンに驚き、俺は急いで着替えて玄関へと向かった。ドアスコープを除くと…あのノースリーブの女がいた…。
「なんであいつが…⁉」
普通の人間ならここで恐怖を感じるだろう。だが俺は女を見て、激しい憤りを覚えた。
「…くそぉ!…あいつだ!あいつが現れてから俺の人生はおかしくなったんだ!疫病神め‼」
怒り狂った俺は、台所の包丁を手にし、ドアを開けて女に怒鳴った。
「おい!なんでこんなところにいるんだよ‼俺の後をつけてきたのか⁉えぇ⁉」
女は俺の問いに答えず、ただ「ふふ…ふふふふ…」と笑っていた。
「…さっさと帰れよ‼帰らないとぶっ殺すぞ‼」俺は包丁を振るい上げて叫んだ。すると、女は口を開いた。
「…あなた、面白い子と一緒に住んでるわね…」
「…は?」
女は俺の後ろの方を指差して、ニヤリと笑いこう言った。
「…ついてるわね、あなた…」