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第9話 外交と芝居

「閣下、リチャードソンが来ます。機密漏洩を知っているかと」


「放っておけ。どのみちどうにもできん」


 部屋にはいつもの三人がいた。ピエル、ジャンヌ、そしてセシル。


 ジャンヌはセシルに目配せし――セシルはそれに曖昧な微笑をもって応えた。セシルはあれからわずか五分で、ピエルの書いた草稿を国家の公的文書にあるべき完全な形に整えた。


――超人的だ。


 もちろん、それが容易な仕事であるはずがない。単に修辞の技法に優れているだけでは不足なのだ。外務省が各所に抱えるしがらみについて熟知していなければ、後で必ず修正が加わることになるのだから。いかに個人としての倫理観に問題があっても、その能力が不世出のものであることは違いないとジャンヌは感じていた。


 ピエルはセシルに経験が不足していると言った。本当だろうか? ジャンヌは兄の人を見る目を信頼していないわけではなかったが、ことセシルについての眼力は信用できなかった。


 そこで、昨日さくじつの会話――セシルはまるでストーカーのように、ピエルのことをよく知っていた。妹のジャンヌが知らないような、より根源的で、ごく個人的な動機まで。それは二人が婚約者としてどれだけの時間を共に過ごしてきたかの証明でもあるはずだった。……それなのにピエルはいまだ、セシルのを理解できていない。こと彼女のことになると、彼の思考は曇り、歪み、誤ちを重ね続けている。そんなふうに、ジャンヌには見えた。



 ウィリアム・リチャードソンは連邦の優れた大使だった。優れたという言葉にも色々あるが、彼はとりわけことが得意な老人である。この白ひげを蓄えた典型的な外交官は先日祖国から重要な知らせを受け取ったばかりで、会談の重要性をよく理解していた。


「リチャードソン大使、ようこそおいでくださりました」


「宰相閣下」自分より遥かに若い権力者の手を、リチャードソンはかたく握った。「とても大切な用事があると言われたからには、駆けつけないわけにはいきません」


――政庁と連邦大使館の間の距離は、九ブロックしかない。


「大使には事前にお伝えしました通り、我が国の司法大臣と外務次官が会談に同席します」


 彼はにこやかに微笑んだ。「かまいませんよ、賢いお嬢さん方と話をすることは、いつでも楽しいものですからな。しかし――」


「しかし?」


「――会談が終わるまで、我々が友人でい続けることができるかどうかは分かりませんが」


 その言葉にセシルの表情が固くなり、ピエルに耳打ちした。「何かしらの問題があるようです」


 双方が腰を落ち着かせようとする前に、大使は王国側に不意の爆弾を投げつけてきた。彼は手札として、最初に王国側の情報漏洩を突いてきた。


「我々は良き友人でいられるでしょうか?」ピエルは張り付いたような笑みを崩さなかった。


「そうあることを願っていますが」沈痛な面持ちで、リチャードソンは告げた。「今のところ、は敵同士であるようです」


 敵。


「連邦は我が国を敵だとみなしているのですか?」


「その質問に答える前に、から一つ申し上げたい。あなた方が計画している作戦は極めて危険です。どうか中止していただきたい」


「大使、どうやらあなたは我々を誤解しておられるようです……」


 状況は思っていたより悪いかもしれない、とジャンヌは思った。リチャードソンがここまで挑戦的な態度を取ることは予想外だった。大使が独断でこのような態度をとるわけはないから、彼は本国から相当自由な裁量を与えられているのだと見たほうが良いだろう。


 大使はピエルに告げた。


「宰相閣下、はあなたに個人的な恨みはありませんし、貴国の歴史や文化を敬愛ています。ですから率直に申し上げます。は、ここ数ヶ月の間に起こった出来事から、統治に必要な政治的規律が内部から急速に失われたと感じています」


「それは違います、大使」横からジャンヌが口を挟んだ。「政府は事態を制御下に置いています」


「残念ながら」大使は首を横に振った。「からみて、王国政府は国家機関を十分に監督できているとはいえないようです。軍は中央政府の命令を無視し続けているだけでなく、あなた方は軍が今何をしているかすら把握できていません。はそれを危険な兆候だと認識しています。」


「大使」今度はピエルが発言権を取り戻した。「それは連邦の最高指導者による公式の見解ですか? それとも、あなた自身の見解ですか?」


「政府首脳部による見解です、閣下」大使はその答えを予想していたようだった。


「なるほど」ピエルはそこに糸口を見いだせたような気がした。「ではあなたはなぜこの場に? 政府が軍に対して何もできないと思っているのならば、あなたがここを訪れる意味もない」


 大使はその言葉に深く失望したように、ため息を吐いた。「閣下、には選択肢がありませんでした。他国の国家元首から召喚の要請を受けながら、それを拒否することは外交儀礼に反しています」


「あなたの行動は矛盾しているようですね、大使。あなたは連邦政府の使者として、軍の暴走の危険性を指摘しました。そして状況はすでに王国政府の制御を離れたという。そんな状況の中で、連邦政府が私たちを重要な交渉相手としてみなすわけはありません」


 リチャードソンの眉が、ピエルの言葉にピクリと動いた。


「どういう意味だ?」ジャンヌがピエルに尋ねた。


「外交官にとっていちばん大切なのは、相手の前で何を喋るかではない。何を喋らないかですね、大使?」とピエルはいった。「あなたは重要な事実を隠している」


「どんな事実をですか?」リチャードソンは傾聴の姿勢に入ったようだった。


「あなたの口ぶりからは、あなた自身と連邦政府の意図が異なるように見える。主語が『私』のとき、あなたは常に私に対して宥和的であり、かつ私が軍に対して影響力を発揮できることを前提にしている。『私たち』の場合は逆です」


「それは、連邦政府と大使の持つ意図が異なるということか?」ジャンヌが尋ねた。


「それは違う。彼は大使であって、全権大使ではない。政治家ではないいち官僚が他国の最高指導者の前で、単なる自分の感情を口にするわけがない」


 ピエルは言葉を続け、大使はあえて黙ってそれを聞き続けた。


「あなたが私の元を訪れたのは、単に外交儀礼を遵守するためでも、あるいは個人的な懸念を私に直接伝えるためでもない。あなたは連邦政府に仕える外交官として、政府の命令を忠実に実行したのですね?」


「理解できない」とジャンヌが喚いた。「兄貴が今言ったのは、まるで真反対の立場だぞ」


「もしひとつの政府の中に真反対の立場が共存しているのだとしたら?」 


「そんなことは――」


 ありえないと返そうとしたところで、ジャンヌの口が止まった。


「ありうることです」それまで会談を横で見ていたセシルが、やむを得ないという様子で口を開いた。「連邦政府も一枚岩ではないのでは?」


「一連の軍事計画によって、我々の関係は危機に瀕しています」そこでようやく、リチャードソン大使が口を開いた。「しかし、もし今からでもそれらの状況を制御できる余地があるなら、私たちは王国政府に協力できるかもしれません……」


「交渉すべきです、大使」ピエルは簡潔な物言いをした。「我々は妥協できます。必ず。どうにかしてここで、恐ろしい流れを食い止めなければなりません」


「そうあることを願っています」大使は初めて人間的な微笑みを浮かべた。



「――ヒヤヒヤものだった」 会談が終わったあと、パウダールームでジャンヌはセシルにホッとした表情を向けた。「だけど、うまくいってよかった」


 その言葉にセシルは怪訝な顔をした。「あなた、今の交渉が本気で危機を防ぐ取引か何かだとだと思ってたの?」


 ジャンヌは素っ頓狂な声を上げた。「違うのか?」


 その返事に、セシルはため息を付いた。「最初から最後まで、あの部屋で起こったことは全て芝居よ」


「芝居?」ジャンヌは困惑した。「最初だけではなく?」


「こうは考えなかったの? 連邦政府は二つに割れてなどいないし、連邦は王国政府の統治能力を本気で心配してなどいないと」


「何? いや、大使は――」


「大使は肯定も否定もしていない」


「じゃあ、『私』と『私たち』の違いは――」


 セシルは呆れた様子でいった。「あなたが連邦の指導者だとして、そんな聞き間違えやすく、相手に見過ごされやすい言葉に、国家の全命運を傾けるつもりなの?」


「待て、待て待て待て……」ジャンヌは手を使ってセシルの言葉を止めた。「だが君はそういったはずだ」


「ええ」セシルは方をすくめて肯定した。「は連邦政府内が二分されていると理解した。でも、使そのことを認めていない。外交にはよくあるやり方よ」


 そこでジャンヌはようやく理解した。「……私は一杯食わされたのか」


「あなたは難しく考えすぎなのよ、ジャンヌ。外交において、一度の交渉だけですべてが決まることなんてありえない。些末なことは事前に外務省の下っ端役人たちで交渉を重ね、相手の動向を探り、信頼関係を築いていく。それでもどうにもならないことだけを国家の首脳同士が互いの面子をかけて話し合い、切り抜ける。そこで通用するのは専門知識ではなくよ」そう言って、セシルは彼女を優しく諭した。


「そうかもしれない。ここ最近の出来事は――身の回りで起きる全ての出来事が策略のように感じさせるには十分だった」


「最初あなたを同席させると言い出した時、ピエルが何を考えているのかさっぱりわからなかった。頭でっかちで外交のガの字すら理解できないようなあなたを、なぜ重要な会談に出席させたのか。――今ははっきりわかるけどね。ピエルはあなたの援護射撃にずいぶん感謝しているでしょう。彼ったら、その場のこじつけであまりにおかしなことを言うもの、笑いをこらえるのに苦労したわ」


「今日のこれは――なぜこんな芝居を打ったんだ?」


「連邦政府の立場を忘れたの? 彼らは地政学的に、王国と帝国の中間で挟まれた位置にある。先の戦争での遺恨がある中、ヘロン湾侵攻を連邦政府が全面的に黙認すれば、帝国世論の心象悪化は免れない。だから連邦政府から戦闘行為の黙認をとりつけるためには、連邦の外交的立場を守らなければならなかった」


「だが下手に密約を結べば、マスコミや帝国情報部にすっぱ抜かれる恐れもある。だからか。だから例えこじつけでも、連邦政府に逃げ道を与えた」


「彼らは過剰なリスクを取る気はなかった。てっきりあなたもそれを理解しているものだと思っていたのだけれど、違ったようね」


「いや、確かに兄貴はそんな事を言っていたよ」そういってジャンヌは項垂れた。「だが、こんな馬鹿げた言い分が成立するのか?」


「それが成立するのを、あなたは今日あの場で目撃したのよ。少なくとも連邦は、その言い分で十分だと考えた。最初にリチャードソン大使は政府から指示された取引の前提条件をそれとなく匂わせた。もし逃げ道がなければ、連邦政府は王国の敵にならざるを得ない。それでは取引など到底望めないとね。そこでピエルがとっさに逃げ道を用意し、大使はそれに乗った」


 ジャンヌは天を仰いで嘆いた。「まったく、なんて化かしあいなんだ」


「人は色々いう。悲しんだり、怒ったり、脅してきたり、喜んだり。それ自体には何の意味もない。あなたに怒ってほしいから、人は怒る。畏れてほしいから、脅してくる。でもその人の本当の目的はその先にある。――言葉の先にあるものを見なさい。そうすれば少しは外交も上手くなる」


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