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第8話 セシル・ド・ブーランジェ

 外務省は官庁街を正三角形に構成するちょうど北側の頂点に位置していて、その佇まいは政庁よりも優美である。ジャンヌはこの場所が大嫌いで、もし兄から命令されなければ頼まれたって行ってやるつもりはなかった。


 されたのである。


 ジャンヌの姿を見るやいなや、この国一番の知性と品格を持つ人びと――ただし皆男性――は、通路を彼女に譲るようにして横に退き、陰から彼女のうわさ話を、彼女から見えるようにやっている。


(気に食わん連中だ)


 それがおよそ正門から千七百と五十メートル続いて、それからあと半歩だけ歩いた。ジャンヌが到着した扉の前には、真鍮細工で『外務次官室』と黒檀の扉に刻印されている。


 ジャンヌはドアをノックした。沈黙の後に、ハープのような甲高い声が中から聞こえた。「どうぞ」


 扉を開けて中に入った。ミス・セシル・ド・ブーランジェはソファに横たわりながら赤い背表紙の本を読んでいた。ジャンヌは読んだことはなかったが、その本を知っていた。近ごろ流行りの空想科学小説で、誰もがそれに熱中していた。ジャンヌの知る限り、彼女の周囲でその本の流行を知らなかった者といえば、ピエル・ド・シモンぐらいなものだった。


「それで、何?」セシルは本から目を離さず、いかにも不機嫌そうに言った。「あなたの用事は、宇宙から来た侵略者にひたすら負け続けていた人類が、在来微生物の力で逆転勝利を果たすこのナンセンス極まる小説よりも面白いものなのかしら」


「面白いのか?」あらすじを聞いた限り、とても面白そうだとは思えなかった。


「ピエル・ド・シモンと一緒に食事をするのと同じ程度には」そう言いつつ、やはりセシルは本から目を離そうとはしなかった。


「なぜそんな本を読み続ける?」


「あなたがなぜピエル・ド・シモンといつも一緒にいるのかと同じじゃない?」とセシルは告げた。「私はこの本を読むためだけに、今日の政務を午前中のうちに全て片付けた。ある小国の大使と面会して彼らの乞食行為を聞き入れ、南洋経済課長が作成した定型文を読み上げるだけの省庁間の連絡会議に出席し、何を協議するかもわからない、ただ天下りのためだけに存在する意味不明な省内委員会の設立提案書にサインをした。それらがすべて終わって、王都で一番の味と言われるお茶とお茶菓子を用意し、リラックスするために東方から取り寄せた香を炊かせた」


「つまるところ、今更やめるには既にあまりにも長い時間を費やしているからか。それで、今の気分は?」


「この本をビリビリに破いて、これを面白いとのたまった読書家の口めがけて紙片の束を詰め込みたい気分。きっと心がすっとする」


「なるほどね。そうしない理由は?」


「ここに来るまでに外務官僚たちから浴びせかけられただろう下劣な視線と悪い噂に対して、あなたがいちいち反論しなかったのと同じ理由」


「まあ、そうだな」ジャンヌは手持ち無沙汰なまま同意して、セシルが寝転んでいるのと真反対のソファに腰掛けた。「をくずかごに捨てるのにも、ある程度の気概がいる」


「分かってくれて嬉しいわ」セシルは本をバタンと閉じ、ごろりと転んでいたソファから起き上がった。「それで、何の用? 彼にのを笑いに来たの?」


 ジャンヌは息をついていった。「そんなので傷付くようなタマじゃないだろ」


「まあ、そうね」セシルはふん、と鼻を鳴らしていった。「でも彼はそうは思っていないかも。ああ見えてナイーブだから」


「そんな素振りは見せてなかったけどな」


「なら、あなたが鈍いだけよ。人の性質なんて、一日や二日で変わるようなものじゃない。彼は誰もが政治的パフォーマンスだと思う芝居をするにも、後からいちいち責任を感じてしまう心の弱い人だから」


「何と言ったらいいのやら」ジャンヌは厳粛そうにいった。「少しはその本性を、目の前で見せてやったらどうだ。そうすれば兄貴が抱える心の重荷も少しは晴れるだろうに」


「嫌よ」


「どうして?」


「私が楽しいから」


 その返答にジャンヌは神妙な顔をした。「君は悪女だ」


 セシルは人差し指で鼻筋をこすった。「私からすれば、彼がお人好しすぎるだけ。今どき齢六つの子どもでさえ、もう少しまともにマセてるわ。その点彼は女性慣れしていないと言うか――童貞臭い?」


「それは事実だが、一つ言っておくと、私の回りでその小説にさしたる興味を持たなかったのは兄だけだ」


「なら、審美眼は確かね」そういってセシルはわずかに笑みを浮かべた。「社会性がないとも言うけど」


「さっきから親友の兄を貶したいのか褒めたいのか、どっちなんだ?」


「あいにく私は人間よ。人の噂や悪口が大好きだし、人の趣味に自分の感情で口を挟むし、心は狭いし純情でもなければ忠実でもない。国家の命運なんかに興味はないし、私の預かり知らぬところで人がいくら死のうがどうでもいい。とはいえ周囲に無能とみなされて爪弾きにされたくはないから、そう思われない程度に仕事はこなす」


「確かに凡庸な人間だ。君が世界で初めて公職についた女性だって点を除けば」


「驚くべきは、その凡庸な悪女にあの男が惚れたってことよ。どんな小説よりよっぽど面白いことだわ」


「そうかな」ジャンヌはいささか同意しかねる気持ちだった。


「そうよ。それにアナタだって芝居を楽しんでるじゃない。『元婚約者に突っかかるブラコンな妹の演技』は楽しいんじゃないの?」


「半分は本気だ」とジャンヌは一応付言しておいた。「だが君もそうじゃないのか。兄貴に惚れてるから未だにこうやってつっかかる。普通ならとっくに吹っ切れてるだろ、婚約を解消したのは何年も前なんだから」


「ノーコメント。彼は私の上司でしょう。いちおう私も職務規定は弁えているの」


「やれやれ、アホらしい」


 セシルの言葉は、暗にジャンヌの言い分を肯定しているようなものだった。ジャンヌはこれ以上の痴話喧嘩には付き合いきれないといった様子で、呆れて天を仰いだ。



「それで、彼に言いつけられたお使いの内容は?」


外交書簡コミュニケの作成だ。連邦のウィリアム・リチャードソン大使に対して」


 そう言ってジャンヌは、持ちこんだ書類をセシルに手渡した。受け取った書類に素早く目を通すと、セシルの表情は先ほどと違って真剣なものに変わった。


「ピエルは戦争を始める気?」そう言ってセシルは眉をひそめた。


「外務省は反対か?」


「主語が大きいわ。外務省じゃなくて、私の父外務卿


「父親は嫌いじゃないのか?」


「そうだけど。でも父は謀略家ではあっても、この国を滅ぼす気まではない」


「元婚約者の立てた作戦は信用できないか? もとはと言えば、君の父親が立てたその謀略のせいで――」


「私に何を期待してるの、ジャンヌ? 私は政治家ではなく官僚なの。上司が私の父だろうがそうでなかろうが、外務卿から強く命令されたら次官の私は従わなければならない。大臣の下で働くいち官僚が個人的な感情に任せて好き勝手なことをし始めたら、国が滅びる前に官僚組織が崩壊してしまう。いい? 政治という船旅には二種類の人間が必要なの。一人がピエルで、もうひとりが私。組織の全員がピエルなら、船頭多き船は内乱で壊滅する。組織の全員が私なら、進むべき方向を見失った船は途中で難破する」


「その理屈っぽい物言いは、一体誰の受け売りだ?」


「あなたなら分かるでしょう?」セシルはそう言って肩をすくめた。「もしピエルにこの国を滅ぼす気がないなら、一つだけ忠告しておいて。先日のは心象が悪い」


「誰の心象を損ねたって?」


「言うまでもないでしょう、私の父よ。そもそも父は、婚約を復活させるために彼を表舞台から引きずり下ろす気だったんだから」


「冗談だろ?」ジャンヌは開いた口が塞がらなかった。「兄貴と君の婚約を復活させる?」


「事実よ」セシルはあっけらかんとした調子で答えた。「そのために父は軍の計画を放置した」


のために大勢の人々が巻き込まれているってのか?」ジャンヌは純粋な怒りをあらわにして立ち上がった。「。君は兄貴が自分の父親の企み通りには動かないと分かっていたはずだ。それどころか、君は確信していたはずだ! なのにそれを言わなかった! ! この作戦が実行されることによって一体どれだけの人間が命を落とし、何人の子どもが自分の父母を失うことになるか分かってるのか?」


なんて、おかしなことを言うじゃない。ジャンヌ、あなたはさっきはずよ?」セシルは仕方なさそうに肩をすくめた。「それともピエルの理屈は、私の理屈よりもより崇高な理屈だとでも言いたいのかしら? 仮に私たちの婚姻問題のためではなく、世界平和のためなのであれば、侵攻作戦で人が何人死んでも構わない?」


 ジャンヌはピエルと口喧嘩をしているときのような無力感を彼女に覚えた。これほど馬鹿げた理由で戦争が引き起こされようとしていることに対する生理的嫌悪感を、そう感じないものに向けて説明することは難しい。


。列強間の戦争が起きることによって生じる戦禍と死者の数を考えれば、侵攻作戦で生じる死者は許容されうる。少なくともそのほうが、痴話喧嘩を原因とするより筋が通っている」


「ああジャンヌ、あなたはまるでろくでもない人類が、これまで筋の通った理屈にしたがって動いてきたような言い方をするじゃない。では、あなたの主張に一定の敬意を払って、ここでは私の理屈が狂っているのだと仮定することにしましょう。で、仮にそうだとして――ピエルはなぜ今こんな努力をしているの? 彼が黙って喉元を掻ききれば、それで全て済んだ話なのに」


 「それは」目の前の知性に、口喧嘩で勝つことはできない。ジャンヌは自分の劣勢を感じつつも、声を張り上げた。「国家の未来に対して責任をもつという意味で、そのほうがより道徳的だからだ」


「なるほど?」セシルは諭すように言った。「だけど、道徳的だということと、正しいことであることは、両者必ずしも一致するものではないわね。例えば一世紀前まで、女性が公職に就くことは道徳的ではなかった。あなたと私がここにいることは許されないことかしら?」


「それはおそらく……何らかの理由で……人間の衝動的な行動を抑制することが必要だったからだ。あくまで例えではあるが、女性が公職に就くこと、あるいは就こうとすることは、その当時の社会にとって害悪だったと考えることもできる」


「なるほど」セシルはジャンヌの反駁を面白がるようにしていった。「それは面白い見解ね。たしかに世の中にいる大半の人間はピエルほど思慮深い人間ではない。世の中の人間みなが自分の好き勝手に行動すれば、結果として共有地の悲劇が起こることは容易に想像できる。だけどあなたも知っての通り、彼はそんな軽薄な人間じゃない」


「はっきり言ったらどうだ」すでにジャンヌは疲労困憊だった。「君はどうすれば納得する?」


「道徳には二つのがあるわ。第一に、規則に違反した者を罰すること。第二に、自分は規則に違反した者でないと周りに示すこと。道徳はいわば日々の政務をこなす時に使うマニュアルで、国家危急の事態に陥った政治家が見るべきものじゃない」


「それが君の道徳に対する結論か? それではまるで」それ以上言葉を紡ぐことに、ジャンヌは意味を見出せなかった。王女マルグリットがここ十年来、彼から受けている影響を考えれば――


「その通り、道徳律は全くの妄想にすぎないのよ、ジャンヌ。彼がそれを口にするのは、単に彼が次世代の政治家たちに教育を施したいから。だって考えてみて――仮にその道徳律が従わなければならないのなら、その道徳律に従うべき合理的な根拠はなにもない。逆にその道徳律が従わなければならないのなら、正しさの源泉はその道徳律とは別のところにある」


「そうかもしれない」ジャンヌは言った。


「――そして、ある道徳律の正当性がその種の外在的な正しさを前提に置いているなら、一般的な道徳原理が前提に置く正しさというのは、全ての有りうる正しさの中から選んだ、たった一つのものにすぎないかもしれないのよ。だとしたら、この宇宙に住む、人類とは違う知的生命体が食人嗜好カニバリズムや近親相姦を美徳とすることだって、十分に有り得ることじゃない」


「あまり気持ちの良い想像じゃないが」


「ええ、でもその時あなたは気付くはずよ。私の行動を擁護する道徳原理を組み立てることも、宇宙人の道徳と同じように可能なのだということに」


「いや、どうもまいった」ジャンヌは人差し指で額を掻いた。「君が大学で私と同じ内容の法学の講義を受けたなんて、どうも信じられないな」


、この種の考えかたは自然なものになるわ。法の正しさを証明するのは道徳そのものではなく、道徳の均衡だということにもね。法を執行することによって得られる社会善の効果が、法を執行するにあたって生じる社会悪の効果を上回るのだと民衆を説得できれば――その法は正当なものとみなされる。たとえその法が客観的にみて悪法であったとしても」


「君の見解は面白いが、高等法院の裁判官たちはそのに耳を傾けたりはしないだろう」


「そうでしょうね。とはいえ私は政権の擁護者として、高等法院に居座る頑固な老人と渡り合わなければならない司法大臣じゃない。そしてあなたは私の最初の疑問にまだ答えられていない。――さあ答えてもらいましょうか、ジャンヌ? ピエルはなぜ、こんな悪あがきをしてると思う?」


 しばらく考えた後、ジャンヌは口を開いた。「兄貴は他の人間からの人気を気にするタイプじゃない。だから道徳をうまく用いて他人を操作するというようなことはしない」


「もし彼がそんな器用なタイプなら、彼は新聞記者たちにこれほど激しく叩かれていないでしょうし、今ごろ私はこんなところにいないでしょうね。彼は有能な宰相だけど、人心掌握には疎いから」


「じゃあ何だ? 兄貴はなんのために政治をやってる? 君は答えを知ってるんだろ?」


「好きだからよ」


「なんだって?」


「子供のころ、広場で戦争ごっこをしてた男子たちがいたでしょう? 彼もそうだった。彼にとって、政治はその延長線なのよ。彼は自分が優れた政治家だと思い込みたがっている。そして彼の知性は、彼にその演技をさせるのに十分なほどの才能を与えた。彼に足りなかったのは、その思い込みに対する盲目さだけ」


「そんなことは――」


「ないと言い切れる?」セシルはジャンヌに試すような視線を向けた。


「兄貴を侮辱したいのか?」


「彼は自惚うぬぼれ屋よ。自分が取り仕切れば何でもできると思ってるし、だから私のことも気にしてる。それに王の即位如きで国は変わらないと豪語する当人が、実は誰よりも宰相という立場にこだわっているのは、考えてみればおかしなことだと思わない?」


「そうだな」彼女はそれに異議を唱えようと思ったが、やめた。セシルの反駁は執拗で、ジャンヌはこの会話を終えたくなっていた。「だがそうだとして、君はこんなところにいて満足なのか?」


「生憎だけど、私に野心はないの。私はいつでも自分の頭を働かせることだけに熱中したい。誰だろうと他者との会話は常につまらないもので、それでも時には慰めになる。世界に自分と同じ種のつまらなさを感じているのが、自分の他にもいることさえわかれば――」


「他に、ね」セシルが誰のことを指して言っているのか、ジャンヌにはすぐに分かった。「君は確かに兄貴にお似合いだ」その時の顔は呆れ顔だった。


 セシルは表情を変えなかった。「褒め言葉として受け取っておくわ」


「そこまで思っているなら、君の方からさっさと復縁を持ちかければいい。勘の良い君なら、兄貴がそれを拒否しないことなんてとうの昔に分かっているだろう。なぜそうしない」


「ああジャンヌ、私たちの齢を考えて!」その言葉に、初めてセシルは声を上げて笑った。「私たちはもう学生じゃないのよ」

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