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第7話 死の賭博

「それでは兄貴は今の連邦政府について、どう思っているんだ?」


「それは抽象的な質問だが、一般的な見解を述べることはできる。連邦政府はここ十年で六度の政権交代を経験しているが、彼らが取る外交政策は一貫して変わらない。彼らは二大国のどちらかが勢力を伸長し、一方に対して非常に優勢になることを良しとしていない。次に二国間で戦争が起こった時、彼らの国土が侵されないと考える理由はなにもないからだ」


 連邦は先の戦争以降、孤立主義を転換しつつある。彼らの関心事は自国が巨大な戦争に巻き込まれないようにすることにあり、そのためにここ十年、彼らの努力はこの地域における有力な二大国を和解させるという任務に注がれている。――しかしその政策は現実には、帝国を犠牲にして王国に譲歩することを意味していた。


「今回の事件についてはどうだ? 既に連邦は、我が国による侵略の兆候を察知しているに違いない。彼らはそれを支持すると?」


「おそらく彼らは迷っているはずだ」とピエルは予測した。「彼らは侵略の正当性よりむしろ両国の戦力均衡バランスオブパワーこそが重要な問題だと考えるだろう。彼らは敵になりうるが、同じぐらい味方になりうる可能性も秘めている。アンティルが王国にとっての核心的利益であることを彼らに認めさせることができれば、彼らは我々の肩を持つだろう」


「なるほど、つまりこういうことか。連邦を味方につければ、帝国はアンティルに手を出すことができないと。しかし仮に連邦政府の説得に成功したとして、侵攻作戦は軍の連中の思い通りにうまいこと運んでくれるだろうか?」


「おそらくうまくは行かないだろう。計画の変更は絶対に必要だ。だが、彼らに計画の変更を認めさせようとするなら、そのための下準備を済ませておかなければならない」


 軍は戦争の専門家である。仮にピエルたちからみて彼らの計画がいかに杜撰なものでも、それをそのまま指摘してはならない。


「なぜなら僕たち政治家は外交としての戦争行為については十分に承知していても、実際の戦争計画の立案に関しては無知同然の素人だからだ。彼らのもつ専門性を十分に理解し、議論の過程に敬意を払い、その名誉を傷つけないように細心の注意を払わなければならない。でなければ要求がどれだけ正当なものでも、プライドを傷つけられた彼らは作戦の変更を拒むだろう」


 かつて王や宰相が取り仕切ることを期待されていたのは外交と財政と軍事の三問題だけで、それも極めて抽象的なものに限られていた。だが今、行政府が取り扱う問題はそれだけではない。一世紀の間に人びとの生活の中で国家が関与する領域は飛躍的に拡大し、政府機関は肥大化したのである。商業活動の許認可、国境における出入国管理、法令の適切な執行、租税の徴収、自国通貨の独占的発行、構造的汚職の監視と撲滅、経済成長の予測、国防計画の策定、地方行政官の任命、大規模治水事業、公衆衛生の普及……それら全てを執り行うため、国家は専門家集団テクノクラートを雇用せざるをえない。今や指導者は全てを自分一人で管理することはできず、したがってピエルは紙と書類でできた官僚機構という要塞に立ち向かわなければならない。


「奴らにとって、実に虫のいい話じゃないか」とジャンヌは言った。


「お互い様だよ」とピエルは返した。「君を司法省にねじ込んだ時だって、ずいぶんあちこちの反発を生んだんだ。とりわけ王女殿下は、君の……という点を特に懸念した。この国で初めて女性として公職についたセシルの状況を見れば分かるだろうが」


「ああ。弱い立場を守るため、父親の言いなりになってる」


「殿下も同じことを懸念された。君が同じ状況に追い込まれるのではないかと。しかしそれでも私は要求を押し通した。それは法律の知識に優れ、なにより忠誠心という点でどうしても君が必要だったからだ。現代において法は全ての権力の源泉であり、政府のあらゆる機関が敵に回っても、司法省だけは私の忠実な友人でなければならなかった」


忠誠心ロイヤリティ」とジャンヌがぼそっと呟いた。「私にはその言葉の意味がまだよくわからない。それが政治の世界でどんな意味を持つのか――」


「それは政治家として最も重要な資質だ。ともかく、いくらかの願望が含まれているにせよ、軍部の推測はそれほど的外れなわけでもないと思う。もちろん外務省がどう考えるかはわからない――だが僕の見たところ、おそらく連邦は王国の側に立とうとするだろう」


 不思議なことに、ピエルの言葉には若干の含みがあった。彼はまるで、そのような状況が生じることをを望んでいないようだった。



「しかし分からないな。そこまで見通せているのに、何を兄貴は懸念しているのか」


「理解できないか? ジャンヌ」ピエルはジャンルの目をじっと見て答えた。「これは大いなる賭けなんだ。もし賭けるものが金貨百枚であるのなら、まったく統計学的な見地から私はこの賭けに乗ろうと思う。得られる金貨の期待値を鑑みて、この賭けは明らかに有利なものだからだ。だが軍部がやろうとしていたことは、それとは全く性質が異なる。僕たちがいま台に乗せて賭けているのはなんだ」


 ジャンヌはピエルが未来を見通せていると言った。だが、もしボタンを一つかけちがえたらどうなるのだろうか? 帝国がに動かず、アバナ港湾での権益を守るために決戦を挑んできたら? 連邦政府が王国の覇権的行動に失望し、大陸における均衡を回復するため帝国と共同で対抗してきたら? それらのリスクは無視できるほど小さいものではない。ではそのようなリスクが現実のものとなった時、この国の未来に対して誰が責任を取ることができる?


 軍部はそのような可能性を深く追求することはない。彼らはに縛られている。そして軍部がと考えているものの正体は、実際には先の戦争における偶然と、将軍たちの意思決定の傾向の積み重ねにすぎなかった。しかし戦場の霧の中では、自然科学の諸法則が暗黙裡あんもくりに想定する自然の斉一性は何ひとつとして保証されていない。


 そのような観念的予測に国家の未来を委ねるのか?


「軍人たちには常にがある。仮に侵攻作戦が失敗しても、彼らは新たな宰相の下で新たな作戦を実行すればいい。敗戦の責任を取って数人の将軍の首は飛ぶかもしれないが、軍全体に粛清の嵐が吹き荒れることはない。――なぜなら彼らは政治家に対して仕える職業軍人でこそあれど、国家の未来に対して責任をもつ職業政治家ではないからだ。そして我が国が焦土と化し、彼らが責任を追求される番になった時、その責任を追求できる人間は表舞台から消え失せている」


 軍にとって最も重要なのは自分たちの栄誉と出世であり、ひいては対外戦争を通じてその機会を得ることにある。それゆえ軍部は『外交的手段で状況は打開できず、戦争は不可避である』、あるいは『計画の成功は確実であり、目的は必ず達成できる』というような、自分たちにとって都合の良い論理ポジショントークを指導者に押し付ける。


 彼らは己の専門性を十分に発揮し、作戦を成功させるために途方もない努力を払うが、間違っても問題設定が間違っているとは考えない。作戦の遂行は軍の存在理由そのものであり、問題の矮小化は軍自身の自己否定につながるからだ。


「もちろんこれが軍に限った話でないのは、君も知ってのとおりだ――さあジャンヌ、君の政治家としての資質を試してみよう。僕はこれまで、軍部の独断に懸念を示し、外務省の策略を牽制した。そして今や連邦との外交交渉に臨もうとしている。これらを通して僕がやろうとしていることの核心は何だ?」


「王国の国家利益を追求することだ」ジャンヌは確信的な口調で答えた。


「その自信は結構だが、では不十分だ」ピエルは静かに、諭すように言った。「というのは、軍や外務省に同じことを聞けば、彼らもやはり君と同じように言うだろうからだ。国家利益は政治の核心だが、なにぶん抽象的すぎるがゆえに扇動者デマゴーグたちにとっても都合がいい。なにせ国民の大多数は個人的利益と国家利益を峻別しゅんべつすることができない」


 だからより適切な言い方をしよう、とピエルは言葉を続けた。


「たとえ戦争の勝利によって敵国の都市すべてを灰燼かいじんと帰すことに成功したとしても、そのために自らが皮と骨しかない病人となっては何の意味もない。だがと、君は理解したはずだ。国家を主導する政治家や外交官、軍人たちが自らの策や計略に溺れ、誰も自らの行動がどのような結果を生み出すのか予想できないまま事態が進行していったとしたら? そこにはもはや人間の意志が介在するいかなる余地もない。歴史書は人びとの命と血を喰らい尽くすまで止まらない暴走馬車を記録するだろう。そのような状況こそあらゆる政治家が最も恐れるべき事態であり、それを防ぐことこそあらゆる政治家に課せられた最大の使命だ」


「兄貴が言いたいことが分かった気がする」と、今度は曖昧な口調でジャンヌが言った。「状況を常に制御下に置くこと。一か八かの勝負で大勝ちを狙おうとするのではなく、最悪の事態が起きた場合にさえ、それが国家そのものの破滅と同値になることを防ぐこと」


 その言葉に、ピエルは頷いた。


「その通り。軍も外務省も、自分たちの行動が生じさせうる最悪の結果を理解していなかった。軍は戦争の勝利の部分だけを見ていたし、外務省は政争の勝利の部分だけを見ていた。彼らの行動は適切に抑止されていなければ王国の権威失墜を招き、あるいは政権を瓦解させていただろう。もし僕たちが連邦との交渉に際して彼らの失敗に学ばなければ、同じ結果が待ち受けているかもしれない」


 政治は――よく誤解されがちだが――たとえ敵味方で対立することがあっても、単なるゼロサム・ゲームではない。舞台にのぼったすべての演者が勝利することもあれば、すべての演者が敗れ去ることもある。


「兄貴が言っているのは……帝国に逃げ道を与えなければならない、そういうことか? 連邦と結託して、彼らに身動きをさせないようにするのではなく。帝国が軍事的合理性を見失って、人間の素朴な愚かさから――1712年に起きたようなが、再び繰り返されないようにするために」


 ピエルはあえてそれに真正面から答えることをしなかったが、暗にジャンヌの言葉を肯定しているようだった。


「政治家は常にに自覚的でいる必要がある。そして同時に、どのような道を選ぼうとも、リスクが常にある事を理解しておかなければならない。だが幸いにして僕たちの自由意志は、物事の勝ち方を一つには定めていない。リスクは低減可能だ。少なくとも、勝ってはならない場所で勝つことは、負けてはならない場所で負けることより数段悪いと知ってさえいれば」


 それからピエルは長い沈黙を保った後、ゆっくりと、しかし確かな口調でジャンヌに告げた。


「それでも権力者は常に勝利への誘惑に晒される。端的に言えば、その誘惑をはねのける精神力こそ『忠誠心ロイヤリティ』と呼ばれるものの正体だ。科学技術の進歩と行政能力の発達によって、国家間戦争は破壊的なものになりつつある。政治家のおめたごかしや軍司令部の上昇志向、外交官の策略好き――それらはすべて忠誠心ロイヤリティの欠如によるもので、いずれこの世界全体を破滅に追い込むことになるやもしれない。しかし今、僕の治世のもとでは、そのような死の賭博を認めるわけにはいかない」

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