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第6話 過去の戦訓

(――復讐か)


 彼の心中でのみ発された言葉は、誰に聞かれることもなく静かに消えていった。


 ピエルは、セシルに放った言葉を後悔しているわけではない。確かにひどく彼女の心を傷つけたかもしれないが、外務省の暴走を阻止するためには必要なことだったのだから。実際、必要なことだった! 必要だと考えていた。――必要だと考えていたって? 本当に必要なことだったのだろうか? ピエルが彼女に対して行った政治的攻撃は、実は二人の間に横たわる過去の出来事に対する復讐でもあったのではあるまいか? 


 誰がそれを否定できるだろう、自分はひどいことをした、とピエルは思った。とはいえ今更、それを悔いる気もなかった。ピエルに反省する気はなかった。セシルがまだ自分の婚約者だったころから、彼が政治という冷徹で非人間的なシステムに向けていた愛情の十分の一でも、同じだけの愛を彼女に向けたことがあっただろうか? それなのに自分はせめて誠実であると言い聞かせ、安心立命に浸って自分を騙すことに、どんな意味があるというのだろう。


 彼はこのような自分の生来の性質をよく理解していた。落ち着くところに落ち着いたのだ、とピエルは思った。彼にとってセシルとはそこにありながら常に霞がかった存在で、終生それが消えることはなかった。





「侵攻計画は実行する。これは決定事項だ」


 ジャンヌは純粋に驚いたような顔でピエルの方を見た。


「本気か? この計画がうまくいくと?」


「うまくいくかどうかにかかわらず、どのみち僕に決定権はない。軍と外務省のどちらもを牽制し続け、しかし彼らにとって容認しがたいレッドラインを超えてはならない。この二つの政府機関のバランスをとらなければ政権は崩壊する。したがって中止は不可能だ。もともと難しいとは思っていたが、今回の件で決定的になった」


「兄貴、一応聞いておくがその決断は――王国のためなんだよな?」


 ピエルはそこで迷うことはなかった。彼の決断は彼自身の権力基盤を維持するために問題を先送りにするといった、単なる主客転倒な決定ではなかった。仮に自らの首を掻き切ることが国家利益の最大化につながるならば、彼は進んでそうしていただろう。


「王女殿下は勉強家だ。それ自体は結構なことだが、いかんせん若すぎる。陰謀に対する抵抗力も、政治的理想主義に対する免疫もない。それでも十年前とは雲泥の差だが、まだ少々時間が必要だ。かの方が成人されるまでの時間をどうにかして稼がねばならない」


 最も穏健な手法は、二年後、彼女の成人に合わせて即位式を執り行うことだろう。しかしそこまで多くの必要な前段階を踏まなければならないし、事件は即位を待ってなどくれない。王の即位までピエルはなんとしても国家の一体性を保たなければならない。


 二年。子を持つ親であれば短いというだろう。だが魑魅魍魎ちみもうりょううずまく政界において、それはあまりに長い時間稼ぎに思えた。


「しかし、侵攻計画は敵に漏れている。現実的に可能なのか?」


 ジャンヌはそういって、ピエルに懐疑的な視線を向けた。


「外務省は一つ誤りを犯している。彼らは帝国という国を知り尽くしているし、だからこそ帝国がそんなに諦めの早い国ではないと。だがそれはあくまで帝国の一面に過ぎないし、その国家観は今回の事件で帝国が取る対応を絶対的な形で示しているわけでもない」


「根拠はあるんだな?」


 もちろん、とピエルは答えた。


「先の戦争で王国が敗北した原因の一つは、戦争序盤に海軍が海上優勢を確保できず、そのために戦地への兵力輸送が十分に行えなかったことにある。そして軍の指揮官は一度犯した失敗を――たとえ敵の犯した過ちだとしても――よく覚えている。なぜなら指揮官の失敗は配下の兵を殺すことを意味するからだ。我が国の軍部は、過去に自分たちが流した血と汗と涙から得た智慧を、相手も戦訓として得ているものと考えている」


 そういってピエルは地図を見た。海を隔てているとはいえ、アンティルから本土までの直線距離を見ると王国は帝国よりはるかに近い。それはアンティルに対して、王国が最も効率的に兵力の展開を行えることを意味していた。


「しかし、彼らの推測に根拠はない」とセシルは言った。「同じ戦訓を得ても、それをどう解釈するかは千差万別だ。彼らはそう行動するはずだと確信を持つことはできないだろう。あるいは、そう思い込もうとしているだけでは?」


「そうかもしれない。とはいえ外務省の推測も、軍部と同程度の根拠しか持っていない。どちらも見たいものを見ているだけだ。互いが持つ認識をすり合わせようとはせず、過去の経験から自分勝手な国家観を作り上げて相手の次の行動を予測している。どちらも十全の信頼に値するものではない」


 ここには認識のねじれがあった。王国外務省は過去の経験から帝国外交の粘り強さを感じ取っており、いっぽう軍部は先の戦争から遂行困難で益が少ない戦争を帝国軍はやりたがらないだろうと考えていた。ピエルの見る限りこの二通りの情勢認識のやり方はどちらもそれなりに正しく、またどちらもそれなりに誤っていた。


「じゃあ、ひとまずはそれを横に置くことにしよう。アンティルを巡ってはもう一つ問題があるはずだ。――連邦はどうなる? 連邦の本土は帝国よりよほどアンティルに近いし、彼らは近年帝国との外交関係を重視している。仮に王国軍がヘロン湾に侵攻を行えば、連邦政府はそれを帝国への恩を売る絶好の機会と考えるかもしれない」


「ああ、ジャンヌ。僕は君が彼の国を持ち出すことを予期していたんだよ。そしてそれこそ、今回の事態を解決しうる唯一の方法なんだ」


「それはいったい、どういうことだ?」


 少し歴史の授業をしようといって、ピエルは語り始めた。



 1712年の冬、それまで十年に渡っていた両国間の戦争は終わりに近づいていた。王国側の戦況はかんばしくなく――とりわけ陸ではまるで中世の軍隊のような戦いを強いられていた。明確な戦線は存在せず、両軍は機動戦に移行し、戦場の状況は流動的だった。主力部隊は敵の部隊から逃げ回り、残存する機動戦力を活用して敵の補給線を破壊することに腐心していた。


 王国の将軍たちが冷や汗をかいていたのと同時期、帝国民もその戦況を見て苛立たしく思っていた。残存戦力のバランスから見て勝利はほぼ確実であるのに、なぜ敵に最後の一撃を与えられないのかと。


「誰よりも帝国の皇帝がその答えを知りたがった。すなわち戦争はいつ終わるのかと。政府は答えに窮した。彼らは逃げ道を欲していて、そこで目をつけたのが連邦だった」


 王国と帝国の間に位置する緩衝国家たる連邦は伝統的に孤立政策を志向しており、両国の戦争が始まったときにも中立を宣言していた。だがそれは事実として徹底されず、連邦は両国が開戦とともに失った直接の交易ルートを代替することによって莫大な関税収入を得ていた。少なくともある一面においては、王国軍の抵抗を連邦の商人たちが補給の面から支えていたというのは事実だった。


「連邦政府が好んでそうしたというわけではない。だが彼の国の発展した工業力は産業資本家を肥大化させ、内需を満たした資本家たちは国外に市場を欲していた。たとえ外務省が孤立政策を推進しようとも、経済自由主義を信奉する連邦の産業資本家たちは、国家間の外交問題と経済競争はいつでも切り分けることができるし、それぞれは政治の別の階層に位置づけられると信じていた」


 また、彼らの主張には正当な懸念もあった。連邦で始まった産業革命は工業就業人口を非常に増大させていた。工業化という点で発展途上の王国や帝国と異なり、こと連邦においては国外貿易なしに連邦経済を成り立たせることは不可能になっていた。もし彼らが国外貿易を自粛すれば、都市には失業者が溢れかえっていたことだろう。


「しかし帝国政府はそうは思わなかった。彼らはあくまで武力によって連邦の通商政策を変更できると信じていた。帝国外相は王国向けの二次加工品の輸出を禁じるよう、連邦政府に向けて要請した……」


「それは明白な主権侵害だ」とたまには法律家らしく、ジャンヌは口を差し挟んだ。「連邦はアンティルのような、国際政治に何ら影響を及ぼさない小国じゃない。彼らは強大な列強諸国の一角だ。なぜ帝国は連邦に対して内政干渉などというリスクを犯した?」


「それがこの話を理解するうえでの重要なポイントだ」とピエルは返した。「仮に小国に対して同様の主権侵害を行えば、その背後にいる列強を不用意に刺激するリスクがある。帝国はそのような危険を犯せなかった」


「ちょうど、今の私達のように。なるほど、彼らは問題を複雑なものにすることを恐れたのか。二国間で解決できる問題にしたかった」


「そうだ。帝国は連邦政府相手ならば、事態が深刻な方向にエスカレートすることはないと踏んでいた。実際、帝国の主権侵害に対して、連邦政府は彼らの要求を了解することも、あるいは拒絶することもなかった。当時の連邦政府の公式な立場は、二国間の紛争には関与せず中立的立場を取り続けることだったからだ」


 したがって彼らはいつも通りに要求を無視した。政治的にみても、連邦が帝国政府の要求に従うことは不可能だった。


「我が国のように君主の政治的権限が極めて強い帝国と違って、議会制民主主義国家たる連邦において産業界は政府の傀儡かいらいではない。彼らは表立って政府に反抗することさえいとわない。もし強行すれば、政権は産業界からの政治的支持を失って瓦解することになる……」


 しかし何かしらのポーズは必要で、連邦の産業界は政府との交渉の間で妥協案を提示した。帝国から輸入した品物を海上で別の船に積み替え、そしてそれを王国に輸出する。


「いわゆる『瀬取り』と呼ばれる手法だ。積み替えの手間が増えるぶん経済的効率を犠牲にはするが、帝国政府に逃げ道を与えることもでき、これはいい案に思えた。商品を輸送する船を公海上で変えてしまえば、帝国の輸出品目が王国に送られたという証拠はどこにも残らない。少なくとも、帳簿上は」


「屁理屈だが、よくできた屁理屈だな」


 ジャンヌは呆れ顔でそれに同意した。


「両国政府は一件をこれで終わらせようとしていた。だがこのカラクリは予想外にある人物の怒りを呼び起こし、これが帝国政府にとっての新たな頭痛の種となった。その人物とは、帝国皇帝だった。仮にも中立国家を標榜する連邦が交戦当事国の一方に肩入れするような態度を取ったことに、彼は怒ったらしい」


 当時の帝国内部の状況は知りようがない。当事者である軍は連邦の動向をそれほど重視していなかったかもしれない。政府でさえ、それが国民向けのガス抜きであることを承知していたはずだ。しかしだからといって、激怒する皇帝の意向を無視することなど彼らにはできなかった。


「やむなく帝国外相は連邦大使に向けて長文の抗議書簡を送ったが、なおも双方の意見の相違は取り除かれなかった。……もしその書簡の内容が帝国政府が陥っている苦境をわずかにでも伝えていたなら、連邦外務省は彼らの窮状を理解するように努めていたかもしれない。だがこの問題は目下皇帝の関心を引いており、そのために帝国は対外的な面子を崩すことができなかった」


 そしてこの事件はまた、王国外務省に『帝国政府は実益より面子を重視する』という歪んだ帝国観を植え付けることになった。


「事態は打開の兆しを見せず、しかたなく帝国政府は強硬策を取った。あろうことか彼らは海軍を用いて、ロラン湾で瀬取り行為を行っていた連邦商船を砲撃したんだ。しかしそれは船の船首方向に向けた威嚇射撃にすぎず、危険ではあるものの国際法上通常の手順で、重大な問題にはならないはずだった。帝国政府は連邦政府が状況を楽観的に解釈してくれると期待していた」


 しかし後にロラン湾事件と呼ばれるこの事件が連邦言論界にもたらした反応は、帝国政府が当初予想していたよりも遥かに激烈なものだった。連邦の世論は急速に反・帝国へと傾倒し、連邦政府は外交態度を急激に硬化させた。その時になって帝国政府は自分たちが致命的な失策を犯したことを悟ったが、もはや全てが遅すぎた。


「帝国は連邦政府に甘えすぎ、見えないところにあった彼らの政治的なレッドラインを安易に踏み越えてしまった。世論に押されて、連邦政府は自国領内における王国軍の自由通過を黙認した。これは一歩間違えば戦争行為だったが、帝国にこれを押し止める力はなく――帝国外務省はこれを戦争行為とは認めなかった。この上さらに連邦と戦争を行う体力はなかったからだ。そして彼らは外交の主導権を失った」


 これは1713年春に行われた王国軍の反転攻勢につながることになる。この春季攻勢は戦争の停滞ぶりを決定づけ、両国は連邦を仲介国に講和条約を締結した。それは帝国にとっての最大の外交的失敗だった。


「帝国にとっての最大の痛手は、連邦という中立的な講話仲介国を失ったことだった。王国と帝国という二大列強同士の戦争を仲介するなら、仲介国は強力な外交手腕を持つ列強のいずれかでなければならない。そしてそのようなプレゼンスを発揮しうるのは、この地域においては連邦しかなかった。結果として帝国は、当初の講話案よりもかなり譲歩した形で王国との和平交渉に望まざるを得なくなってしまった。彼らは戦場で勝利したが、外交で敗北したわけだ」


 そしてこれこそが、軍部が連邦の動向を重視していない最大の理由だろう。


「おそらく、軍はこの事件の顛末てんまつを重く見ているのじゃないかな。彼らはこう考えているはずだ――いま連邦と帝国が口先で協力を語ろうとするのは、それを阻む理由が両国にあるからだ。背後ではかつての不信がいまだ根付いていて、互いを疑心暗鬼にしていると。仮に侵攻を行っても、彼らが共同で事態に対処するなどということは、とてもありえないというわけだ」

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