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第4話 文民統制

 王国の南東、その海を超えた先にはアンティル共和国という小国がある。共和国の首都アバナが面している湾こそヘロン湾であり、この湾は王国の通商政策上重要な意味を持っていた。


「先の戦争での敗北の結果、王国はアバナにおける海上権益を失った。……この地は我々にとって目の上のたんこぶだ」


 アンティルはかつて王国と同じ王を戴く同君連合国で、平たく言えば王国の植民地だった。だが1659年に起きた大反乱によって独立した後、アバナを統治する共和国政府は王国の仇敵である帝国と関係を深め始める。


 とりわけ王国にとって不幸だったのは、ヘロン湾が王国南部海域における重要な交易結節点だったことだ。王国はヘロン湾に面するアバナ港湾の施設改善に莫大な費用を投じており、その資金で整備された軍港は王国海軍の重要な戦略拠点としてみなされていた。それゆえ同地が独立した後も王国は共和国政府に租借地としてアバナ港湾の優占的利用権を認めさせ、その権益を維持し続けてきたのだ。


 しかし1713年の敗戦と講和条約の結果、王国はアンティル共和国における影響力の殆どを喪失した。それは同時に、王国海軍が南洋海域における主要な軍港のひとつを失ったことをも意味していた。


「予期できたことだった」とピエルは口惜しげにいった。「『王国の裏庭』が、今や我らの仇敵たる帝国海軍の庭となっているのだから。軍部が懸念を示すのはもっともなことだ」


 アバナの地政学的重要性については、外務省も軍と同じ意見をもっていた。とりわけ帝国にその地を握られていることは、王国にとっては真綿で首を絞められているに等しい。とはいえそれでも、軍部の行動は性急すぎるように思えた。


 この島を占拠することの困難さを、とうの軍が理解していないはずがない。この島が独立した1659年当時、アバナには二千の王国兵が駐留していた。しかしそれでもこの島で起きた大反乱を軍は鎮圧することができなかったのだ。ましてや現在、アンティルはれっきとした独立国である。彼らの首都アバナは一万の守備兵と防御線によって守られている。


 ジャンヌは地図に向かいながら、首を横に振っていった。


「だというのに、奴らはこの地を占領できる気でいるのか?」


「わからない。だが仮にそう考えていたとしても、今の段階で彼らを止めることは難しい」



 ヘロン湾侵攻を示唆する僅かな情報のために、政庁はちょっとした混乱に陥った。情報の信頼性がどうだとか、示すものが不明瞭だとか、そういったもっともらしい理由によるものではない。今回に限っては、その内容がもたらされた場所こそが問題だった。


「一体どこの世界に、自国の軍にスパイを潜らせなければ情報を手に入れられない中央政府が存在するんだ?」


 ジャンヌはそう嘆いたが、泣き言をいってはいられなかった。そもそも文民統制は理想的イデオロジカルな概念である。実際にはこれは紙の上でのみ成り立つ理論であり、軍に限らず政府の専門家集団は常に派閥を形成して統治者に抗おうとするものだった。


「政府機関における相互の意見調整が必要だ。この件については、外務省からブーランジェ次官を呼び出して対応する」


「セシル・ド・ブーランジェ? いいのか?」


「君だって、彼女とは大学ソルブヌムで共に学んだ仲だろう。僕も君も、お互い勝手知った仲なら都合がいい」


「悪い意味でね」とジャンヌは言った。「だが兄貴が必要だというなら、受け入れよう」


「これ以上この問題に余計な人間を関わらせたくないんだ。リスクはあるが、秘密厳守が優先される」


「秘密が守られるということがそんなに重要なのか? いや、そうか、スパイか。あたしたちがスパイを通じて軍から情報を手に入れることができたなら、列強諸国だって同じことができるはずだ」


 そういうジャンヌの口の動きに、ピエルは黙って頷いた。軍部がそれを十分に理解しているか以上に、作戦保全オプセクは深刻な問題だった。


「彼らはあるいは、ヘロン湾侵攻を成功に導く画期的な作戦計画を立案したのかもしれない……そうでなければいくら軍部が愚かでも、ここに来て急に波風を建てようとは思うまい。だがいかに優れた計画を立てていても、それがハナから敵に漏れているのだとしたら、作戦を始める前から勝敗は決している」


 しかし軍部は、いったいを敵とみなしているのだろうか? 仮に彼らが敵として定めているものがアンティル共和国軍だけなら、彼らの計画は決して成功しないだろう……



 ノックの音がした。そして執務室の分厚いドアを開けて、ミス・セシル・ド・ブーランジェが入ってきた。「閣下、お呼びですか」


 「よく来たね、セシル」ピエルはセシルを歓迎し、優しい手つきで彼女とハグをした。彼女の着ていたフォーマルな白いブラウスと首元の黒いリボンタイが目に入った。「かなり深刻な状況だが」


「ええ、聞いてます」セシルはピエルと離れた後、そう言って襟を正した。「まさしく外交的大惨事です。よりひどいのは、その大問題の原因が敵ではなく、身内にあるということですが」


 彼女は手で髪を整え、黄金の長髪が小刻みに揺れた。彼女はこの部屋の中にいる人間の中で一番冷静で、落ち着いており、自分を律するのに十分な精神力をもっているように見えた。


「陸軍卿のカニヨン氏は友人でしょう。彼とは会合を?」


「体よくシラを切られて断られたよ。『軍はその職掌の範囲内で事を遂行する』と。彼らは内輪で何もかもを進めるつもりらしい」


「状況を再確認せねばなりません。軍が閣下に十分な情報を提供していない以上、今こそ政庁は外務省との綿密な連携をとるべきです」


 セシルの言葉に、これまで部屋の隅に隠れるようにして立っていたジャンヌが口を開いた。彼女たちの性格は正反対だった。


「まるで外務省は私たちの知らない、独自の情報を持っているかのような物言いだ。なぜ今まで報告しなかった?」


「ああジャンヌ、あなたいたの」そう言ってセシルは否定的な視線をジャンヌに向けた。「どうもこうも、情報の裏付けや内容の精査に時間が必要だっただけよ。外務省には分析のための人員が不足しているから」


「それが国家の大事に繋がると分かりきった情報でも?」なおジャンヌは食い下がった。「情報を受け取った時点で兄さんに報告すべきだった。外務省はあんたや、あんたの父親外務卿の王国じゃない。この国の王は一人だけだ」


「もちろんあなたの王国でもないわ、ジャンヌ。相変わらずそのせっかちな性格は治っていないのね」旧くからの友人に売り言葉を浴びせられて、一瞬彼女の冷静さは揺らいだようだった。しかしまたすぐに何時もの落ち着きを取り戻した。「精査されていない情報はクズよ。そしてそんな価値のない情報をかき集めて出た結論も、やはりクズでしかない」


「クズかどうかを決めるのは、あんたじゃないだろ――」


 ジャンヌがそう言いかけたところで、横槍が入った。


「もう結構」ピエルはぴしゃりと厳格そうな声を出して、双方の険悪な対話の応酬をそこで終わらせた。「私はこの国で最も偉大な二つの知性が共に会する時間を、場末の酒場で毎晩のように起こる喧嘩の如き不毛さのうちに捨てる気はない」


 その言葉に、セシルがはじめに変わり身を見せた。「はい、閣下」しぶしぶジャンヌもそれに続いた。「分かったよ」


「それで、外務省は何を知ってる?」とピエルは聞き直した。


「重大な問題があります」とセシルは注意深く言った。「軍部の計画は外に漏れています。共和国政府は軍の作戦計画を事前に承知しているのです。それも我々すら知らないような細部まで――海軍部隊の編成や上陸部隊の数、上陸地点の詳細な位置、果ては共和国内部にいる反体制派の協力者の名前まで」


 その言葉に部屋は凍り付き、それから何秒かの沈黙があった。


「ほとんど全てだな」


「はい、閣下。皮肉なことに、敵は我々よりはるかに軍部の動向を把握しているようです。しかし、ここからが重要なことですが――我々の知る限り、共和国政府にここまで高度な情報収集能力を持つ組織は存在しません」


「つまり、誰かの入れ知恵か」


 ピエルは特に驚きはしなかった。今日、アバナ港湾には王国を含めて三つの列強が潜在的な野心を抱いている。王国と帝国、そしてその二国に挟まれた緩衝国家たる連邦だ。彼らとの対決なしにアンティルを手に入れることはできない。


「現状の分析では、そうとしか考えられません。帝国か、連邦か――おそらくは帝国でしょう。連邦の情報部は優秀ですが、共和国政府に情報を流しても彼らはそれに見合った利益を得られない。帝国であれば話は違います。彼らにはアバナでの帝国権益を守るため、共和国政府を助力する深刻な動機がありますから」


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