――かつて、中世における軍事力の主役は傭兵だった。王は傭兵と期間契約を結び、傭兵は資金や物資と引き換えに軍事力を提供したのである。一般に傭兵集団は戦闘技術に長けており、一度に必要とする雇用費は高かったものの、長期的には常備軍よりも低コストで運用できたので重宝された。
だが時代の変遷は戦争のあり方そのものを変えてしまう。相次ぐ疫病と戦乱は国家の生産力の過半を傭兵たちの雇用費に投入するという事態を生み出し、それは彼らを経済的に非効率な存在へと変えてしまった。
加えて王にとっては、傭兵たちの忠誠心のなさも問題だった。彼らは軍事力を利用して王からできうる限りの利益を引き出そうとし、自分たちの主張が認められない場合には進んで王権に抵抗したからである。
これらの理由によって、王たちは傭兵を雇いたがらなくなった。今日、国家の軍事力は正規軍によって保証されている。その主役は貴族や富裕な市民の子弟たちであり、彼らに率いられた末端の兵たちが戦場を駆け回るのだ。
そしてそれはいわゆる『赤と黒』のうちの赤――出世街道としての軍人階級、『軍部』の誕生をも意味していた。彼らの上昇志向は強く、自らの出世にとって最大の機会となる対外戦争を強く望んでいる。
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だから軍部が大規模な演習作戦を立案しているという噂を耳にしたとき、ピエルの脳裏をかすめたのは「これはまた、ろくでもないことが起きるぞ」という悪い直感だった。
「なぜ軍の連中は、私たちに報告を上げてこない?」
ジャンヌの声色は苛立ちを隠していなかった。中央政府を蚊帳の外に置いて国家の大事を決定しようとする軍部の秘密主義と独断専行は、なにも今に始まったことではない。
王の手足となって動く『国王の軍隊』たる軍は、本来何をするにしても王にいちいち報告を上げに来なければならない立場であるはずである。演習のように軍を動かす案件であればなおさらで、今回の場合であれば将軍たちの方から王の代行者である宰相ピエルにお伺いを立てにやってこなければならない。
だが今の王国において、そのような政軍間の連絡は破綻していた。軍は宰相の統治を拒んでいるわけでなくともいささか軽視し、彼をれっきとした王の代行者としてはみなしていなかった。
「意図的に情報を隠すのは、彼らが何かを企んでいるからだろう」
「私たちに話せないような企みをか? ああ、だとすると、ただの演習じゃないな。演習という名目で、奴らまた戦争をおっぱじめるつもりだ」
そういうとジャンヌは執務室の中を落ち着きなくグルグルと回りはじめて、ピエルの気を散らした。
「彼らは先の戦争での敗北を苦々しく思っている。次の戦争でその汚辱を晴らし、名誉を挽回しようとしているんだろう」
そのピエルの言葉には根拠があった。先の戦争において王国は敗戦を喫し、軍はその権威を失墜させた。講和条約は王国の経済にとって致命的なものではなかったが、それでも多くの海外権益を喪失したことは痛手であることに変わりなく、軍はそのことを気にしているように見え、また焦っているようでもあった。
とはいえそのことを差し引いても、今回軍が起こした行動はとうてい変化する国際情勢を踏まえた上で行われようとしているもののようには思われなかった。少なくともここ十年の間、列強各国は新たな戦争に対してより回避的な態度を取り続けていて、今この状況で下手に動けば悪目立ちする危険もあった。
それでも軍がしびれを切らして動いたのは彼ら自身の内輪の論理が彼らを突き動かしているのだという紛れもない証拠で、王なき王国が陥っている政治的
「そんなことは、十分すぎるほどわかってるさ。敵を殺し、土地を奪還し、栄誉を得る。奴ら軍人の頭にあるのはそれだけだ。そのために犠牲になるモノのことなど、何もわかっちゃいない」
そこでジャンヌが問題にしていたことは、強制的に徴集された国王民兵や戦乱の犠牲になる人びとのことだったのかもしれない。ただピエルにとっては、ヒト以上にカネのほうがより大きな問題だった。外征には多くの資金が必要となる。財政難にある今の王国では大規模な対外戦争を軍に許すだけの余裕はない。
とはいえ、だからといって彼らの要求をすげなく却下するわけにもいかない理由もあった。軍部は宰相の政治を承認する、数少ない支持者の一人だったからだ。そして彼らの支持は「ピエルが軍のやることをある程度大目に見る代わり、軍も宰相の職域で起きた出来事に口出しをしない」という微妙な緊張関係の上に保たれてきたものだった。
「ジャンヌ、分かっているだろうが……私たちと彼らがこれまで築きあげてきた関係を鑑みるに、彼らが『演習』と言っている以上は、今はまだ軍部のやることに口出しできない」
――むろんピエルが影響力を行使して大ナタを振るえば、今の段階で軍部の企みを潰すことは可能かもしれない。だがそうなれば、軍部は彼のそのような振る舞いを重大な裏切り行為とみなすに違いなかった。そしてそれは、これまで繊細な感覚によって保たれてきた政軍間のガラスのような関係に致命的なひび割れを残すことになる。
「じゃあどうするっていうんだ。連中がこの執務室に乗り込んできて計画の絶対的な成功を熱弁し、兄貴に書類に判を押させるまで座して待つのか」
「ジャンヌ、少し落ち着け。僕たちはまだ、彼らがどこを目標にしているのかすらわかっていないんだから」
軍が狙いそうな戦略的価値のある目標は無数にあった。彼らがそれらのうちのどこを目標としているかわからない以上、対処のしようもなかった。
「それについて、なにか情報はないのか?」
ジャンヌの言葉に、ピエルは一枚のメモを取り出した。それは中央政庁が軍に潜り込ませているスパイからの報告で、彼はかろうじて演習作戦の作戦名を知ることに成功していた。
「これによれば、作戦名は……えー、
「奇妙な命名だな。しかし、作戦名がわかったところで――NOREH? いや、まさか」
ジャンヌは眉をひそめ、信じられないといった様子で手元の紙にNOREHと書いてみせた。そしておそるおそる、それを逆向きに読んだ単語をもう一つ下に書きあらわした。
「こいつはとんだ浅知恵だ!」
ジャンヌはペンを机の上に放り投げた。ピエルが覗き込むと、紙にはHERONと書いてあった。それはヘロンと読めた。二人とも、それが指し示す意味はすぐに分かった。
「嘘だろう?」
本当に? そんなことがありうるのかと、ピエルは頭痛がした。それはただ本当に、文字の順番を逆にしただけだったのだ。
彼らは何を考えている? 単に愚かであるのか、あるいは自らの愚かさを賢さと読み違えているのか。作戦名というたった一つの情報が漏れただけで、作戦目標までが分かってしまうだなんて!
この種の蒙昧さには、とうのジャンヌですら狼狽した様子だった。
「ブラフじゃないのか? 偽情報かもしれない。作戦名で油断させるとか」
「いや、それにしては目標の選定が明確すぎる。それに目標がヘロンなら、政庁が把握している軍の物資や人員の移動についての諸情報とも合致する。一体何を考えているのか……」
ピエルはそういった後目をつぶって額に手を当ててみせ、ここに含まれる彼らの真意について彼なりに理解しようと試みた。そしてこの原始的な暗号技術の中にも、おそらくなにかの合理性があるのだと考えた。
しかし結局、その試みは限りある時間を無駄にしただけで終わった。彼の迷宮めいた思考はジャンヌの身も蓋もない、しかしおそらく正しい一喝によって終わりを告げた。
「何を考えているだって? 兄貴は奴らがなにか意味のあることを考えていると思うのか? 何も考えてない、それ以外にどんな答えがあるんだ」
そう言ってジャンヌは壁掛け地図の方へと目を向けた。
ヘロン、その言葉が指し示す地は一つだった。
「奴らの目標はヘロン湾だ、間違いない」