「あなたとこうやって食事をするのも、ずいぶん久しぶりな気がいたしますわ」
大宮殿は王都ルナティア百万の喧騒から逃れるように首都郊外に建設された、王国の象徴たる大建築である。とりわけ目を引くのは王族の住処たる宮殿を取り囲むように建設された噴水庭園で、この庭園の建設者は揚水機械と水道橋を用いて荒涼とした大地を緑と花の咲き誇る楽園へと変化させた。
ちょうど陽が真南から西へと傾こうとする時間帯、ピエルは庭園である人物と秘密の会食に臨んでいた。といっても、ここでの『秘密』という言葉は「噴水庭園を見物に訪れる一般民衆とは隔たれた場所で」という程度の意味しかない。ピエルが週に一度大宮殿を訪れて王女マルグリットと食事を共にし、同時に今週の国政について報告を行うことは今やこの場所で働く誰もが知る慣わしとなっていたからである。
「しかし前回の会食からちょうど一週間です、王女殿下」
「あら、そうだったかしら。どうもこの頃は暖かいせいか、時の進みがいっそう遅く感じます」
王女マルグリット。淡い緑がかった金髪が印象的な少女。王国で最も尊敬される女性にして、王位継承順位第一位。王不在の王国において、次の王となることを宿命付けられた籠の中の鳥。
ピエルは昔からこの少女が苦手だった。以前彼は、なぜこの少女を自分は苦手に思うのだろうと考えた。もちろん彼は目の前の少女に向けて王族に向けるべき当然の敬意を払っていたし、
けれども目の前の人間が王族であることや、あるいは一人前の女性であること以上に、彼女が若すぎるということが彼の気に障った。
さらに奇妙な言い方をすれば、ピエルはマルグリットが自分以上に品格高い聡明な人間であると認識していたがゆえに、その政治能力については年相応か、あるいはそれ以下の期待しか向けていなかった。というのも彼女の生来の才能は次期王として彼女に期待を寄せる王党派にとっては高貴さとして映ったが、少なくともピエルにとっては将来彼女自身の身を滅ぼしうる危うさとしてしか映らなかったからである。
茶の入ったカップを皿の上に置いたあと、マルグリットはピエルに尋ねた。
「今朝のル・モンド紙を見ました。またずいぶんと手ひどくやられていましたね」
「お恥ずかしいことです。しかし、いつものことですから」
「なにか対処をしようとはなさらないのですか?」
「妹にも同じことを進言されました。しかし思いとどまったのです。私のことを批難する者をいちいち処罰していては、王都から人が消えてしまうと。この国に百万の囚人を留め置ける施設はありませんから」
この返しはピエルなりの冗談のつもりだったが、マルグリットはぴくりとも笑うことがなかった。彼女は真剣な表情をして言った。
「ピエル、私は私があなたを信頼しているということを、もっと重大に受け取って欲しいのです。あなたは過去十年の間に、先の戦役で傷ついた我が国の外交的地位をかつてと同じ水準にまで復活させました。実務家たちはこの国から官僚腐敗を撲滅しつつあるあなたの巧みな行政手腕を評価していますし、厄介な軍部や聖職者たちの派閥もあなたを支持しています。にもかかわらずあなたはその実績に驕ることなく、王国に対して固く忠誠を誓っている……なればこそ、あなたが臣民、とりわけ、『王党派』と名乗る者たちから愚物の如く扱われることに、私は我慢ならないのです」
マルグリットの主張は君主としてもっともなことであり、ピエルは己の冗談の才のなさを呪った。彼は自分の上唇を噛み、生唾を飲んで王女に弁明することになった。
「真にもったいないお言葉です。……しかし殿下、一方で政治とはそういうものでもあるのです。王国が外交的地位を回復できたのも、腐敗撲滅運動がこれほどまでに首尾よく運んだのも天運に恵まれたに過ぎません。私を支持しているという軍部は先の戦役で大敗北を喫し威信を失ったゆえに大人しくしているに過ぎませんし、聖職者でさえ彼らの免税特権が維持される限りにおいて私の政治を認めているに過ぎないのです……」
『過ぎない』という言葉を三度使って、ピエルはいかに自分の成功が神の差配によるものかを強調した。ピエルは聖職者上がりとはいえそれほど敬虔な人物というわけでもなかったが、それでも彼は成功が偶然の賜物であることを強調しすぎることはないと感じていた。彼はとりわけ、それを自分に言い聞かせた。
「ではあなたは――王党派があなたを糾弾しているように――この国に大してなんら価値ある貢献をもたらしたことはないとおっしゃるのですか?」
怪訝な表情をして、マルグリットは聞き直した。いつも問題に対して迅速かつ確実な判断を下しているように見える宰相が今は自身の決断に今ひとつ自信を持てないようでいること、そしてそのことをさも当然かのように話すピエルの断固たる姿勢は、いくぶんマルグリットを困惑させた。
「語弊を恐れず言えば、そうです。もっとも私以外のほかの誰が同じ宰相の座についたとしても、この国に『価値ある貢献』をもたらせはしないでしょうが」
「それは一体、どういう意味です?」
「いいですか殿下。仮に政治家という人種が国家に対して『価値ある貢献』なぞを成したのだと主張し、またそのことによって人びとの歓心を買おうとしているのなら、その時その瞬間からその政治家はもはや政治家ではありません。私に言わせるなられば、彼は『政治屋』です」
「政治屋?」と、マルグリットは首をひねった。「それらは具体的に何が違うのですか?」
「政治家の職務は国家利益の追求です。対して政治屋の職務は個人的人気の追求です。これだけをとってみても、二つが目指すものはそれぞれが全く正反対なものなのです。政治家は国家の方を向いて仕事をするべきであって、人びとの方を向いてはなりません。政治家が人びとの方を向けば、彼の政策は必ずおめたごかしになります。仮に彼が並外れて善良な人間で、それゆえに彼の在任中にはすべてが上手く回ったとしても、彼の後継者は必ず国家など無視して自らの欲望を満足させることに熱中することになるでしょう」
「ピエル、あなたの話には世界に対するいくぶんの真実があるようですね」
マルグリットがクスクスと笑ったことで、ピエルは自分がつい多くを話しすぎていたことに気がついた。彼女は聞き上手で、それもまた彼が王女を苦手としている一つの要因だった。
「それでは最近、王国の知識人たちがこぞって話している『規範的理論』については、あなたの見解はいかがです? 彼らは政治においては規範的――『政治とはいかにあるべきか』という理論こそが重要であり、政策とはその上に組み立てられるべきものだと主張しています。そしてとりわけあなたを、その代表的な成功者としてみているようですが」
「私の政策が? 規範的ですって? とんでもない! ――いったい誰がそんな事を言い出したのやら。最近の知識人たちの観念的というか、空想的というか、理性崇拝というか、とにかく帝国かぶれは程々にしてほしいものです。政治の最大にして唯一の目的とは国家利益の最大化であり、それ以外にはありませんよ……しかし近ごろ流行りの科学の方法――啓蒙主義とか、あるいは合理主義と呼ばれるもの、あるいは何かと理屈を使ってモノを切り分けようとする考え方は、こと政治の世界においてはほとんど役に立ちませんね。たとえ役に立つとしても、それはスピーチライターが原稿を書く助けになる程度でしょうし、どちらにせよ最後までその主義を貫くことはできっこありません。なぜなら理論はあくまで理論であって、現実に存在する力の代わりにはなり得ないからです」
ある古代の哲学者が主義者を批判したときの言葉を、ピエルは思い出していた。あらゆる現象はすべて一度きりの機会であり、それらを支配しているのは主義や法則ではなく神の意志なのだと。ピエルは特段神を信じているわけではなかったが、過去の歴史と自分自身の経験から、政治の世界にその種の一般法則を持ち込むことがいかに危険であるかについては重々承知していた。