現代では無用の長物となった長大重厚な城壁に囲まれる王都ルナティアは、いまちょうど暁を迎えたところだった。人口百万を擁するこの街の中心部には、君臨する王の意志を国家全体にあまねく広げるため整備された官庁街がある。
その官庁街の心臓部は中央政庁の最奥部、
「やれやれ、全く頭が痛い……」
朝からピエルの表情は晴れなかった。今やお決まりの口癖となった愚痴を吐き出しながら、彼は目の前の机に積まれた膨大な量の書類に目を通し、それらを異常ともいえる速さで素早く片付けていく。とはいえそれは、彼にとっては日常的な仕事のうちの一つだった。
それからしばらく時間が経った。秘書に茶でも持ってくるように頼もうかと考えたとき、一人の女性がしわくちゃになった新聞紙を片手に、横分けの淡い茶髪をたなびかせながらドスドスと乱暴な足取りで執務室へと飛び込んできた。おおよそ上流階級の淑女の雰囲気からはかけ離れた風体である。
「兄貴、今朝の『ル・マンド』の記事を見たか?」
ピエルを兄貴と呼ぶ彼女の名はジャンヌ・ド・シモン。ピエルの実の妹であり、幾多の醜聞にて知られる王国の司法大臣。そして彼女が手にしている新聞は王国最古の「良識ある」日刊紙『ル・マンド』だった。
「聞きたくもない、またどうせ僕の悪口だろう」
部屋に入ってきたときからジャンヌは怒り狂っていた。これは特別なことではなく、大抵の場合に彼女は怒り狂っているかあるいは不機嫌そうな顔をしているので、周りの人間は琴線に触れないよう彼女を腫れ物のように接していた。実際、それは彼女が周囲の人間から舐められないようにする有効な手段でもあった。
「今日は『宰相ピエルはルナティア市民の飲水を禁止』という、これまたバカげた題だ。人から水を奪うことは、その者の命を断つことである。王都にはびこる乱命は統治者の愚鈍の象徴であり、市民はその最大の犠牲者である。王なき王国に栄光はなし、と」
ジャンヌは興奮した様子で、『ル・マンド』の一面記事を嫌悪感をもって読み上げた。
「今日のはずいぶん控えめだな。昨日の記事はもっとひどかったが」
そう言ってピエルは苦笑した。
王都ルナティアの都市配水は、その地下を流れる水道管の老朽化のためにしばしば流行り病が生じる要因となる。今度もその兆候があり、数日前、破損した水道管の修繕が完了するまで当該地区の水道使用を禁止する命令を下したのだ。
ところが何かの行き違いかそれとも誰かの悪意によるものか、命令が民草に伝わる頃までにその内容は水を飲むなということになってしまったのだった。
「そんな呑気なことを言っている場合か? 最近の『ル・マンド』の連中の横暴といったら、目に余るものがある。奴ら兄貴が何もしてこないとふんで、ますます増長しているんだ。ここいらで一発、奴らに目にものを見せてやるべきじゃないのか」
「ジャンヌ、つまるところ君は僕に何をしろと? 父親が子どもに向けてそうするように、僕にル・マンドの記者たちを叱りつけろというのか?」
「優しく言葉をかけてもなおわからない奴らに対して、時には怒鳴りつけることも必要だろ。なによりメディアの連中には、市民に正確な情報を伝える義務がある」
ピエルは血気盛んなジャンヌの言葉に、思わず視線を逸らした。歴史上、女性が法律家として手に職をつけた例はジャンヌをおいて他にない。彼女は大学で法学を学んだが、高等教育を受けた女性すら今の王国では稀な人材なのだ。
今の司法大臣という職にしても、身内を優先した内向きの人事というわけではない。仮にそんなことをすれば、ジャンヌはそれこそ烈火の如く怒っただろう。しかし事実彼女はその職において同僚の男性法律家たちより遥かに有能に思えたし、礼儀作法を重んじることで知られる女王マルグリットさえ彼女の才能に一目置いていた、今の彼女の地位はそれゆえなのである。
しかし、それでも彼女は女性である。極端なまでの男性社会で勝ち抜いてきたゆえか、ジャンヌは異様なまで勝ち気のある女性だった。
「まあ、君の言っていることは間違いではない。少なくとも、理想的には」
実の妹の怒り狂う姿を前に、ピエルが頭からその言葉をひねり出すにはいくらかの時間を要した。
「だが考えてもみたまえ。ル・マンドはほかならぬ
『王党派』とは、まだ齢十四にすぎない王女殿下の国王即位を熱望する王国の政治集団である。彼らにとって殿下の早期即位に反対するピエルという存在は邪魔であり、つまるところ彼らにとってこれは単なるジャーナリズム以上に政治闘争だった。
「……だから今の状況で私が記者たちにあれこれ指図したって、彼らがそれを聞き入れるわけがない。そんなことをすればメディアに圧力をかけたという私の醜聞が世間に広まり、かえって市民たちから反感を買うだけだろう」
これ以上支持を失いたくはないからな。
それに王党派からの攻撃など、王国全体が抱える問題からすれば氷山の一角に過ぎなかった。前王の逝去から約十年。王不在の王国は内も外も政治的に不安定となりつつある。国家財政を圧迫し膨らみ続ける対外債務、不均衡な租税制度と競争力を失った国内産業、先の戦争での大敗と軍部による独断専行、広がり続ける経済格差と膨らむ社会不安……未来を絶望視し、不安に駆られ、閉塞感に苛まれる人々の多くが、この国に新たな女王の即位を求めている。それはまるで、王さえ戴けばこの国の抱えるあらゆる問題が一挙に解決するかのように。
『しかし、そんな事はありえないんだよ』
そのような声が国のどこかで上がるたび、ピエルはいつでも妹にそう言い聞かせたものだ。えてして問題とは、大きくなれば大きくなるほど一人の手には負えないものになる。政治において問題を一挙に解決する銀の弾丸は存在せず、戦場の英雄は役に立たない。
ピエルはいつも、この仕事が貧乏くじだと思っていた。十年前、ピエルが王国の摂政となり、彼が王国内外のあらゆる状況を把握したときから、彼はすでにこの国が『終わりかけて』いることに気づいていた。破滅は十年後か、百年後か。それとも今すぐにかもしれない。ピエルにできるのは、問題がこれ以上深刻なものにならぬよう対症療法に専念し、迫りくる破滅を引き伸ばすことぐらいだった。
しかし王党派と呼ばれる彼らは、それらを決して理解しようとはしない。それどころか彼らにとってピエルは問題に有効な対処ができず、座して死を待つかのような態度をとる愚物として映った。自分の権力を維持することに゙固執し、女王に権力を返すことも、あるいは潔く他の者に道を譲ろうともしない王国のガン。
彼らにとって、ピエルはまさに『史上最悪の宰相』なのだった。