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ローゼンヘン館 共和国協定千四百三十四年師走

 リザが昼時に少し真剣な顔をして地図帳を睨んでいた。

 共和国の地図は地形図と経路図との二つに大きく分かれていて、大陸全土の街道を示す街道経路図は主に指南器羅針盤や日時計と天測による経路図の一種である。

 何処其処の街で何方に進むと何処其処につながる道に至る。という具合の経路図が街道経路図になっていて、図面のほかに文章化されたページも別に存在する。北街道と南街道にはそれぞれ大水準点と呼ばれる石碑が数百ほど集落と別に打たれていて、主たる経路として州都とその大水準点を結ぶ形で街道経路図は絵描かれている。


「十日ばかり山歩きに付き合って、測量用の機材とかもあるんでしょ。ついでにあなたの知ってる最新の測量技術教えてよ」

 話しかけたものか少し悩んだマジンが近づくとリザが口にした。


「大雑把なところまででいいのか精密なのが欲しいのか、って話があるわけだけど」

「どっちもっていうと困るのかもだけど、使い分けできるとありがたいっていうのが正直なところね。地図のない土地にはまり込んだ時に帰り道を探すような場面と、目の前の敵に大砲ぶっぱなしたいような時とで使い分けたいってくらいの感じだけど」


「ん~ぁ~。そう」

 いかにも即物的な軍人風味の言い草にどう答えたらいいものか少し悩んだうめきが口元から漏れる。


「あたし、参謀過程では主席でした。計算はまぁそこそこ得意よ。計算尺使うような計算もやり方教えてくれればだいたい大丈夫」

 リザの口からそんな自分語りの言葉が珍しく誇らしげに漏れる。


 つまりそれは、彼女が軍務に復帰する気があるという意思表示をしたということでもあった。

「行軍につきあえってことか」

「ま、そんな感じね。裏の山の測量終わってないみたいじゃない。行軍訓練のついでに測量ちゃんと教えてよ」


 雪山で測量って言われてもちょっとばかり面倒が多いのだが、とは思ったものの、移動経路を考えれば基本は一緒で、基準点を屋敷の塔の上にある水準器にするというほど難しくはない。

「測量の基本は林の中を歩いていたのと同じだよ。覚えているか」


「木ぃ伐って杭打ちながら高さと位置を測ってたわね」

「そんな感じで一リーグで一シリカくらいの誤差で済ますような精度で測りたい水道向けもあるし、もうちょっと緩いやつもあるわけだが、お前はせいぜい半日の道に迷わないで、小銃撃ってのうちに大砲が当たればいいくらいにすればいいんだろ」

 マジンにそういわれると少しリザは口を尖らせた。


「もう少し言いようってものがあるでしょ。未踏の地形を見た時に地図と道のりを把握するのは士官としては当然の資質だし旅人としても重要な経験よ。そこに知的な背景を獲得したいと思うのは当然じゃないの。あなたがいくつもの道具でそれを簡単にしているのは知っているわ。へんてこな双眼鏡みたいなのも使わせてもらったしね」


「へんてこ……って。双眼鏡には違いないよ。測量がしやすいように少し機能が足してあるだけだ」

 マジンは少し席を外して測量用の機材の中から双眼鏡を持ってきた。


「地図を正確に起こすにはちょっと物足りないんだけど、兵隊が日常使いする分にはこれくらいの方が都合がいいかもしれないし、壊れにくくもできている。例の宝玉をレンズに使っているから、いまのところ数打ちは難しいけど、そのあたりはそのうちかな」

「そういう自慢はいいわ。使い方教えて」

 リザはぴしゃりと言う。


「右目と左目で最初に一番手前に寄せて左右の目のピントを合わせた後、ここで固定して調整する。これは使う人間が一緒なら毎回やる必要はない。眼鏡と同じだ。左右で極端に違わなければそれほど気にする必要もない」

 リザは興味深げにのぞき込んでいるが室内だと少し狭すぎる。


「こいつの機能は二つだ。一つは水平角を測る。実質視野は九十度ちかくある広角レンズを絞り込むことで、疑似的な水平方向の印象を強めてある。その左右の水平線を合わせることで傾きが測れる。枠の外側に方位と水平傾斜角度が書かれているはずだが、暗いと読めないかもしれない。電灯電線をつなげば夜でも見える」


 そういいながら、マジンが電池と電線をつないで操作をする。

「あ。なんかとんでもない数字が出てるわね。一応読めるみたい。こんな数字、なんに使うの?」


「色々。地形を雑に書くときとか、鳥や船がどっち向いているとか、そういうときだな。明かりの明度は夜目には明るすぎるから気をつけろ。というか、ギリギリで調整をしろ」

 そう言うとリザは鼻で笑う。


「わかってるけど、難しいこと言うわね。で、なんか盃みたいなのも光ってたけどやっぱりアレが大事なのね」


「照門って概念はわかるか」


「バカにしないで。って言いたいけど、弾丸が銃身の中を転がり出るときに通過する確率論的な仮想平面の連続体という程度にしか知らない。難解で有名な砲兵任務における三次元積分の数学的解析の実用研究テーマよ。実際の砲の特性確認と数学的な特性の評価表示の連結って割と難しいはず。記録もそうだけど、記録とった後の管理も大変だし、小銃に展開したテーマもあったはずだけど、そっちはもっとひどいありさまだったはず」


「うん。そこまでわかっているとだいぶ話が早い。ただ、双眼鏡の場合は相手が光とレンズとそれを支える機構だからある程度相手が限られる。はっきり言えばボクの気合、具体的にはレンズ操作機構の出来とそれを反映する数学的な根拠にかかっている」


「普通数学的根拠が先に立って機構の出来が後にくるものじゃない?逆じゃないの?」

「いや。この場合、技術的な試験というか、材料の未熟がわかっているから数学根拠は後に立ったうえで、実用性の担保の確認がおこなわれるんだ。一応、二種類の方法で担保してあるからいっぺんに破綻することはたぶんない。ってか、照門法の方が慣れれば早いよ」


「つまり、この杯が、光学的な照門になる。ってことなのね。そしたら、あとはできるだけ正確に距離と大きさを測って基準点標定しないといけないってことじゃない。やっぱり付き合いなさいよ。もうひとつってのは?」


「焦点法。基本的に右目と左目の像が綺麗にあったところで距離を測る」

「え?どういうこと?右目と左目の像が合うって言ったっていっぺんに見ることできないわよね」


「そういう部分を作るんだ。で、そこの絵が綺麗につながるようにレンズを調整をする。そうやって、焦点距離を出す。これも、計算でいくらかは事前に検討はしてあるけど誤差がバカにならないから標定しておく必要がある。下の方に丸い欠けた窓みたいなところがあるだろう。後で表で試してみるといい」

 技術的な説明をメモしているうちにリザはいくらか気がつく。


「さっきからアナタ自身が気にしている実際と計算の差って、どれくらいあるものなの」

「基本的な理論っていう意味で言えばほとんど穴はない。計算に使った理論の背景の導式が全部知りたいって言うなら順番に説明してあげてもいいけど、三次元積分の数学的解析が難解だ、っていうようだと一年かかっても充分には説明してあげられる自信がない。物体の時間運動を光の反射屈折と物性の角度に変えただけで根幹部分では大差ないんだよ。そこまでは時間をかければそれほど難しくない。ただ、実際の工作部分ではズレが大きいし、使っているうちにいつの間にか狂っているはずだ」


「どのくらいズレているものなの」


「何とも言い難いところだな。たぶんっていう話で言うなら計算と設計の狙いの上で最初から一万分の一シリカは必然としてズレている、ってところだと思っている。他に色々な部品が数十から数分の一シリカという工作レベルでズレが起きている可能性を含んでいる。測定結果として例えば野外で測定するとなると十リーグを測ろうと思うと一キュビットくらいの誤差になる可能性はある。現場で使われてガタツキが出れば当然増えてくるわけだよ」


「つまり、ええと、この双眼鏡の精度はもともと水道工事には向かない精度で、二つの測定結果に差が出だしたら、信用すべきは照門法をつかえって話はそれとして、メガネがそろそろ寿命だって話ね」

「まぁそうなるな」


 標定は確かに道具として使う上で必要なことではあったのだけど、マジンにはちょっとばかり面倒くさくも感じられる作業でもあった。

 しかしわずか半日前の自分の意見をあっさりと覆すマジンに驚いていた。


 マジンは館が見える位置での冬の野歩きがこんなに楽しいとは思ってもいなかった。それが、何に由来するものなのかマジンにはまるでわからない。リザは自分で言うだけあって学問的な勘所が良かったし体力もあった。野を走るシカの一頭を仕留めて食事の足しにした。


 二人で天幕を二枚重ねてなお霜落ちる中で抱き合って笑って互いに暖まった。


 リザとマジンの測量実習は庭先から始まって裏手の山から側塔の測量が進んだところで終わった。




 驚いたことに、というべきか、そうはあたらないのか、リザは雪解けをまたずに年明けすぐに南街道で道が拓けると軍務につくべく軍都に帰っていった。ザブバル川はたしかにそれが許される交通河川でもある。

 結局、彼女の腹に子供が宿ったかどうかはマジンは知らなかった。

 彼女は冬の間、朝晩欠かさず森の小道を駆けていた。

 理由はよくわからない。

 なんとなく肉欲を祓って眠るために疲労が必要だったのかもしれないし、軍務に挑む軍人として鍛錬の要を感じたのかもしれない。或いは寒くなり始めてからの幾月かでそれとわかるほどに膨らみ始めた胸や尻になにか違和感を感じたのかもしれない。

 雪の少ないほとんど雪のない森の道は、日のあるうちならともかく日のない時間や雪が降ったあとにはすこしばかり心配ではあったが、朝餉や夕餉の支度を終えたアルジェンかアウルムが逆周りに迎えに行ってみれば、全く健やかに体を暖めて戻ってくるので、ただ彼女の肉体の健全さに感心するしかなかった。

 なんとなくそういう冬の間の習慣が娘達にも引き継がれ、アルジェンとアウルムは朝の作務が上がると森の小道を駆けるような習慣になっていた。

 デカートの軍人会で軍装を隙なく身につけ、自分の体力で抱えられるだけの私物の欲張りをみせて、リザは南街道経由で原隊復帰の途に就くことを申告した。

 彼女はデカートからの去り際に酒場で募兵をおこない、小娘一匹と侮った無法者をひとりその場で殺し賞金と換え、四人を従え連れてデカートを去る伴とした。無謀というべきかどうかはよくわからない。

 当然に広い荒野で女一人が始末されたとして見つけられるという保証はなかったし、軍都までの片道ひとつきの道のりは腐れ果てるとして十分な時間になる。

 デカートの軍人会にでも問い合わせれば多少は追えようが、去る者を何故にと屈託もあってそこまではしなかった。


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