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デカート 共和国協定千四百三十四年立冬

 デカートの町の運河の桟橋はなかなかに賑わっていた。

 ゲノウ親方に預けたマイノラ、リチャーズ、ミリズの三人はどうやら務めきっていた。

 禁酒を命じられたマイノラは幾日目かになにやら吐いたそうだが、翌日から憑き物が落ちたように仕事ぶりが変わったという。

「アレですな。酒飲まないってのは人生の三分の一の楽しみを棒に振ってるってな、そうなのかもですが、三分の一の厄介事を抱え込んでるって感じなんかも知れませんな」

 マイノラはそう言って以前よりはいくらか血色のマシな顔でケラケラと笑った。

「まぁ、漆喰に入れる水の量の勘定、間違えたときはどうしてやろうかと思ったけどな」

 というゲノウ親方にマジンは感謝の言葉を述べて酒をおごった。

 翌日、マジンは最低限、靴とズボン上着くらいはこの機会に誂えさせることにした。

 石炭色の上下のあつらえはだいたいどういうふうに着てもそれなりに見えるもので、そういう意味ではお値段以上の買い物といえた。

 男どもはしばらくお互いの馬子にも衣装ぶりをはしゃいでいたが、黙って立っててかっこいい男がもてる、という女店員とマジンの雑談を耳にして立像のような気取ったポーズを鏡の前で研究しはじめた。

 そんな風に格好をつけた男たちを舟に乗せて、運河を通ってセレール商会の市場大門支店に乗り付けた。

 もやいを絡げ舟を落ち着かせると、ウェッソンを連れて船着場を抜けて裏手から事務所に上がった。

 船着場は二週間前とは違ってあらかた泥が剥げ、運河の匂いは仕方なかったけれど糞便や腐臭はかなり減っていた。井戸はまだ人足が張り付いていたが仕事の先は見えてきていた。

「こんにちは。セリエ・アルガさん。おいでかね」

 運河からするりと入ってきた二人組に気が付かなかったのか、事務所がひと揉めしてアルガが出てきた。

「おや、先生。どちらからおいでだね」

「荷物があるんで運河から上がってきましたよ。大事なものだが預けられるかね」

「いじわるをお言いでないよ。うちは倉庫だよ」

「わかってると思うが、今度の工事の心臓だ。預かれないってなら持って帰るよ」

「必要になるまで触らせなけりゃいいんだね。承知したよ。……ガイラ。案内してさし上げな」

 ウェッソンを筆頭に四人がかりで冷凍機関と蒸気圧機関と給炭機を、さらに細かな機材や配管やらを船から倉庫に運び込んだ。

「あの連中が先生んとこの若い衆かい。先生の倍じゃ利かないのも混じってるようだね」

「まぁ、働きは年じゃないさ。使えりゃいいんだろ。ところでそちらのグレンさんから呼ばれているんだが、なにか訊いているかね」

「ああ。聞いている。製氷庫建設のお披露目で主だったお客様を招いたところで会食しようってことになってるね。あの揃いのあつらえはそういうことかい。まさか工事のときまであの格好じゃないだろうね」

「みっともなくない程度には、準備させとかないとね。二軒目だしな。それで結局目の前の運河の使いようはわかったかね」

「河川組合に確認した。二十人漕ぎ以下は岸にそって停められる限りは泊めといて良いそうだ」

「二十人漕ぎってどの大きさだって」

「三十キュビット以下ってことだろう」

「ならうちの舟は大丈夫か。会食の間しばらく止めときたいんだが頼めるかね」

「わかったよ。……サンダ、先生んとこのの舟がいたずらされないようにヒト立てときな」

 アルガが指示を出すのに集まってきた手代たちが動き始める。

「若様、アレですか」

 ウェッソンがうっそりと返事をしたサンダを見てマジンにそう言った。

「……ま、そうなんだがね。他所の事さ」

「何かあったかね」

 怪訝そうにアルガが言った。

「お宅ンとこの手代頭のふたりにはきっちり働いてもらわないと、ウチの連中が窮屈でいけないから心配された。前に他所でコケた年寄りだから苦労があるってことらしい」

 アルガは嫌な顔をしながらも頷いた。

「先生の仕事がキッツリ上がらないと困るのは連中もわきまえてるから、道理を訊くこたあっても、そっちの注文に難癖つけたりはしないよ。……先生の言う通り、土もどけた。井戸も二つともあと三日四日で掘り返せる。資材は七割方集まった。あとなにが必要だい」

 鼻を鳴らして胸を張るアルガに、マジンは肩をすくめる。

「無茶言った割にはなかなかいい仕事ぶりだと感心してる。アイツラの宿はどうだ。あと近場に湯屋教えてやってくれ。垢だらけの氷じゃ糞まみれと変わらんからね」

 マジンの言葉にアルガは口元をニヤリと歪めた。

「事務所の部屋を片付けておいた。湯屋は後で案内するよ」

 マジンとローゼンヘン館になれたふたりには、まぁ上等という造りの石造りの部屋でよく片付けられていて二段四組の八床の寝台もしっかりした造りで新しい寝具が入っていた。

 工具の入った袋を持ち込んで足場がなくなるほど狭くもなく、踊れるほど広くもない。

 椅子と机もしっかりしたもので、わざわざ研ぎ直したのか綺麗に面がそろって油で磨かれていた。

「なかなかいい」

 そう言いながら机を撫でるウェッソンにアルガは満足気な顔をした。

「さっきの倉庫はこの部屋の真下になる。脇に階段があるから降りれば目の前だ。鍵はかけとくからアタシか手代頭の二人に声かけてくれればいい。鍵は預けないほうが揉めんだろうさ」

「急ぎでいるものはないからそうしてくれ」

 ウェッソンが頷くのを見てマジンが応えた。

「朝食は人足や露店行商の小売共と同じもので良ければ、下の食堂で出す。モノは棚落ちだからまあまあだが、料理人はいい腕だと思っているよ。昼と晩は勝手にやっとくれ。目の前が市だから昼は困らんだろ。夜は湯屋が市の反対側にあるからそっち使った帰りに寄ればいい。コッチ側は食い物屋が少ない」

「それで、石が詰まってた方の井戸についてなにか分かったかね」

「ん。ああ、そっちは若旦那の方で調べてもらってるけど、まだ聞いてないね。ただ、まぁ運河のだいぶ下まで掘ってある古いものみたいだってのは分かった。綺麗な水もあったよ。小さい浅い方は明日明後日ってところでドロやら瓦礫やらの掻き出しが終わるだろうって話になってるから、そっちが終わったら少し手を増やせる。……ま、先生の言う通り、水が汚くちゃ氷屋どころじゃないから面倒でも井戸が二つあって助かったってところだよ」

 アルガはそう言って鼻を鳴らした。



 セレール商会の大番頭は町中の要所それぞれに店を構えていて、それぞれの店は広く古くからデカートの町を支えている。

 当然に周辺には信用もあり、町並みに組み込まれていた。

 アルガは最も新しい四人目の大番頭格で格にふさわしい新しい支店を立ち上げるべく、露天商行商人向けの卸の倉庫であったところに支店を立ち上げるということになっていた。

 過日スヌークが倉庫といったのは皮肉ではなく、今日本日只今まであの土地はただの倉庫で、アルガは大番頭ではあったが、支店ではなく露天商行商人を束ね、倉庫の管理を任されていたに過ぎない。

 その女大番頭がセレール商会の四つめの支店を立ち上げる。そういうハレの場であった。アルガは気風の良い女丈夫というよりは、良家の女主人という振る舞いで場に立っている。

 そういう内々の式典がセレールの本家の敷地でおこなわれていた。

 そういう夜会は食事を楽しむためのものというよりはセレール商会と工事関係者と関連団体事業者の顔見せと行商人たちの決起集会のような雰囲気でマジンとウェッソンはワングに導かれるように挨拶と紹介が忙しくて、食事どころではなかった。

 バーリオは今度の現場には入らないが、テルダーという名の大工衆の親方はマジンも会ったことがあった。他に三人を預かってもらう代わりに工事の口を利いておいたゲノウも合力で参加していた。

 テルダーはマジンが今回は縄張りから参加するということでちょっと驚いていたが、ウェッソンの顔を見てその上着を見て、場内に目を走らせて若い衆が出来たのかと納得したようだった。

 揃えで誂えた上着は割と目で探しやすかった。

 ワングの役回りは製氷事業に於ける工事の関係者と将来的な優良顧客と目されている商店主たちへの紹介をグレンから命じられているようだった。

 全く当り前のことながら、狭くもないデカートの町に拠点を持たないマジンは面識がある人々は殆どおらず、しかし一方でその業績の大きさはこの夏から秋にかけて、大きな名声と衝撃をすでに食料品店や料理店あるいは医者や工房など、様々なところで与えていた。

 もちろんゲリエの名前を直接知る者がデカート市に多かったわけではないが、それでもセレール商会が内輪の集まりに客として招待するような人々には当然に名を知られていた。

 一部はストーン商会での製氷事業のお披露目でゲリエを見かけた者もいたが、ストーン商会でのそれは人々にその価値が伝わる前のもので売り出し方も仕事の回しようも十分に練られたものとはいえなかった。

 ストーン商会はデカートでは名を知らぬ者のない豪商だったが、食料品の扱いは余技であり取引先も必ずしも多くはなかった。

 しかし一方で氷を使った氷冷食品庫というモノは、このひと夏でデカートでは大きな波及効果のある人気商品になり、一階に厨房を持てる、つまりは間借り人でない家々の多くに普及した。ストーン商会の得意とする板金を使った氷冷蔵食品庫は多くのまがい物とは一線画す出来で、真似をしてみろ、と言い放つだけの細工になっており、食べ物が水浸しにならないとか床に水たまりができていないとか、そういう点で安物の類似品を寄せ付けないものになっている。

 ちょっと鉄板を多用した作りのよろしい戸棚である氷冷蔵食品庫は、ストーン商会に大きな利益をもたらした。

 更には氷冷蔵食品庫の換えの氷皿を預かって特注の氷を作るということもしている。



 それを受けてセレール商会が何をするか。

 大きな冷蔵庫としての利用が目的の一つだった。

 セレール商会が業績を伸ばす中で一方、すでに多くの顧客を抱えている既存の本店や支店ではそういった大掛かりな仕掛けを準備する目配りが困難で、周辺立地に余裕があった市場大門脇の倉庫の周辺を買い取ってその土地に当て、さらに支店として格上げにする、というのは、この数年来、商会の内部ではポツリポツリと浮かんでは決定的な採算の核にかけて消えていた案の一つであった。

 特に市場大門の周辺の貧民窟は、丁寧に或いは乱暴にどのように扱っても面倒のもとにしかならないことが目に見えていた。

 少し前から、アルガが番頭に上がった頃から五人十人と貧民窟から見どころのある子供を拾って丁稚手代を鍛えてみても、焼け石に水だった。

 アルガの連れてくる者達は多くは全く優秀な性根の素直な者たちであったが、それでも幾人かは御店を危うく揺がせにするような愚物も紛れていた。

 食べ物を扱う商人の常として腐れ果てが肥になることも、熟れと腐れの嗅ぎ分けにも長けた貧農上がりのスヌークは御店を預かる大番頭筆頭として当然に怖い筋を扱うことも辞さず、見所を感じることも多いアルガにはその筋の扱い方も教えていたが、優しすぎると感じることも多かった。

 ハッキリいえば製氷事業はアルガには過ぎたものだ、とスヌークは感じていたが、アルガがセレール商会の大番頭として支店を預かるつもりなら最初の試練としては妥当なものだとも考えていた。

 スヌークは二週間前に家族連れで本店を訪れた若い客のことをワングが空々しく紹介してみせたときも礼儀正しく応じた。

「先だってはお役に立てませんで申し訳ありませんでした。本日は奥様とお嬢様方にはお楽しみいただけていますか」

 スヌークの言葉にマジンは微笑んだ

「お忙しい折というのに突然押しかけた者に、誠意ある応対ありがとうございました。お譲りいただいた物、我が家で美味しく家族で頂いております。今日は仕事の話が主だってというところになろうかと思ったので、家に控えさせております。ところで――」

 そう言うとマジンは一枚の紙片を取り出した。

「――こちら、御店で扱いがあると聞いたのですが、小売の扱いいただけるものですか」

「どれ。……ほうほう。幾つか今年の旬が過ぎてしまったものもありますが、どれも嵩の張るものではありませんね。香草の類を姿のままとなりますとお持ち帰りは厄介ですが、お出ではまた船ですか」

 スヌークは天の階亭で教わったメモの写しを見ながら言った。

「そうです」

「ならば、面倒は少ないかと。新支店の方に準備させればよろしいですかな」

「本店の方に出向いてもよろしいですが」

「アルガ。よろしいか。ゲリエ様がご相談をお望みだ」

 スヌークがアルガを呼んだ。

「あらあら、先生。何かございまして……失礼いたします」

 呼ばれたアルガが機嫌よくやってきた。

「ゲリエ様がこちらをお探しだ。そちらで扱いのないものもあるが、本店から回してもいい」

「おや。これは素敵な。なかなかのお揃えですね。スヌークさん、私どもの店でお受けしてよろしいですか」

 アルガはそんな風にスヌークに言った。

「今回の件、ゲリエ様のお力のこともある。新支店でお任せします」

 スヌークがそう言うとアルガはニコリと品よく微笑んだ。

「ところで先生。ご紹介したい方がいるのですが」

 アルガはそう言った。マジンが従うと三人の初老の男と一人の子育てが終わった頃合いの女がいた。

「こちらは河川組合の方々とウチの辺りの街区長さんと対岸の街区の街区長さん。お舟の話をしたついでに水の話をしてみたらお話を伺いたいということになって」

「よろしくお願い致します。あの辺りの運河の淀みが綺麗になる方法があると伺ったのですが、どういった方法でしょうか」

「つまりは腐れを推め切って肥にしてしまおう。ということです」

 マジンの言葉に誰もがピンとこなかったようだ。

「――つまりですね。物が腐れるためには適度なバラけ方と温度が必要なんです。水が動くこと、年中多少温かいこと。それをセレール商会さんの煙突に少しばかり細工をして働いてもらうって寸法です」

 誰も理解しているわけではないという雰囲気ではあった。

「それで、セレール商会さんの機械の払いが増えるってことは例えば燃料が増えるってことはないんですか」

 街区長のひとりが、難しいことは後回しで先にわかりやすいところからという雰囲気で尋ねた。

「機関の管が伸びてしまうことで機械が増える分の払いはいただくことになります。五十万タレルです。ですが、わざわざの払いが増えることはありません。もともと空に飛ばすしかない煙突の熱なのでつけなければ庭先につける井戸の組み上げくらいにしか使えませんし、井戸も使わない間とあれば捨てるしかない位のものです。燃やす骸炭が増えるということはありません」

 アルガが眉をピクリとさせた。

「おや、そら聞いてなかったですね。あの小さい方の井戸にもなにかつけてくれるのですか」

「要らなければやめますが、設備を外に出す都合でそれくらいは寄り道を勉強させてもらってもいいですよ。手押しのポンプも便利なものですが、欲しいあいだ水が止まらないってのは一度癖になるとなかなかいいものです。井戸の機械ポンプの方はあってもなくても五十万タレルです。ただ運河の浄化の話がなくなるなら井戸に腕を伸ばすのはナシです。こちらは配管の都合です。井戸一つで建屋の壁を破るのは気も進みません」

 冗談めかしたマジンの言葉にどういったものか困った場がとりあえず笑った。

「それで、冬場はどうなるのでしょう。先のお話、年中暖かくするということですと冬が大事のようにも思えるのですが」

「それはセレール商会さんの計画次第ですね」

「当商会では冬も製氷業務を続ける予定でいます。当然多少絞るつもりでいますが、デカートでは一樽まるごと凍るほどに冬が冷えることは滅多にありませんし、ご家庭の厨房でも野菜に霜が降りることはあっても凍るほどに冷えることは極稀だと思います。料理店やお医者様といった方々は恐らく冬でも一定量の氷を求められると思います。――絞っても問題ないものですか」

「完全に炉が止まるようですと問題ですが、乱暴に言えば煙突の風抜き棄て口をどう使うかという問題ですのでゆっくりとでも機関が動いているようなら問題にはなりません。やや複雑ですが、荒れ野でたまにある井戸の風車みたいなものだと思っていただければよいかと」

 二十キュビットも深みがあるようだとそうも行かないとは思ったが、井戸の深さを見る限りそこまで運河は深くないだろうとマジンは目論んでいた。

「それで、効果が出るまでに十年ほどはかかるとか」

「水が澄む、ということはつまりは水の中に藻草が茂って魚が戻る、という意味ですので、それくらいは見ていただいたほうがよろしいかと。五年かそこらで水鳥が往来したり釣りができるようになればと思っていますが」

 魚というわかりやすく具体的な意味が示され、人々は目を見張った。

「それで金額の方は」

「五十万タレルです。こちらはセレール商会さんの機械設備がありますのでかなりお安く出来ています。もちろんセレール商会さんの方で私の目論見提案が怪しげということであればお断りいただくのも、止むを得ません」

「仮に川の浄化設備だけということであれば如何程に」

 改めて河川組合の者から問があった。

「きちんと計算をしているわけではありませんが、機関百万タレルと川の幅に応じた配管で四十万タレルと他に火の番をおこなう人々と骸炭が日に一ストンとして恐らく月に百タレルほど、年に千タレルあまりというところでしょうか。実のところ五十万タレルというのは初めての試みとしては割高に感じられると思いますが、あくまで運河に面したところにそれなりの設備とヒトがいるということを前提にしたついでの余録としての提案なのです。運河や川の広さを思えば尻込みするのもひとつと思います」

 燃料について酷く現実味のある数字が出て人々の反応が泡立つ。アルガは頭の中で計算を建てた結果に概ね満足したような顔をしていた。

「具体的に運河に設備が置かれるとしてどのようなものになるのですか」

 街区長が問いかけた。

「空気を通すための管を井桁に組んだものになります。管の径は十分の一キュビットほどですので沈めてしまえば邪魔にならないでしょう」

「大きさはいかほど」

「セレール商会さんの岸壁の幅で対岸までを考えていますが、そのあたりは河川組合の皆様にお任せします。……面倒なのは空気を送る機械の方でして。正直言えば、水中の管の方は、材料も工事も見積もりに足すのを忘れました。が、今回は実績もまだないので、お付き合いいただけるなら私も一口払うということで納得しています」

「先生。気前よろしいですね」

 アルガがちょっと驚いた顔で言った。

「十年後に魚が戻っていたら配管分はお支払いいただくということでお約束いただけると励みになります」

 マジンが肩を竦めた。

「それでよろしければ」

 アルガが微笑んで言った。

「機械で空気を送り込む都合、不定期にアブクが起こります。当面おそらくは二年ほどはいまより臭くなるはずです」

 マジンがそう言うと、皆が顔を見合わせて何事か尋ねることはないかと探しているのが分かった。

「――縄張りで明日明後日はこちらにおります。また合間合間に参りますので、そのときにご意見いただければと思います」

 マジンが微笑んで場を離れた。

「配管の話、本当なんで?」

 ウェッソンが小声で尋ねた。

「本当さ。使って良い運河の幅を尋ねる前に値段決めちゃったからね。ついでに最低舟をもう一隻と人が必要なことも忘れてた。でも、実績欲しいし、いいだろう」

 あっさりとマジンは応えた。

「アタシもね、身代持ち崩した切欠は似たようなシクジリからだったんで言うのはなんなんですが、ホント気をつけてくださいよ」

 ウェッソンは口の中で何回か言葉を変えて確かめるようにしてから声にした。

 利益の有り無しが問題なのではなく、計算をしていないということ自体を問題にしているのだろうと、マジンはウェッソンが口の中で消した言葉を想像した。

「先生」

 そう言って声をかけてきたのはグレンだった。

 傍らには夫人と思しき女性と娘と思しきふたりの少女と息子らしき幼いといえば怒るだろう少年を連れていた。

「私の家族です」

 聞けばもう一人一番上に他家を支えるようになった長女がいるらしい。

 八歳になるグレンの息子、ウェイドはマジンの若さに無礼なまでの驚きを隠せず家族に様々に叱られていた。上の娘メイは十七で婚約が定まり、下の娘ユーリは十三で学志館で学んでいるとの事だった。

「ゲリエ様はどちらで秘儀を修められたのですか」

 ウェイドの関心は足元に絡みつく子犬のようなもので、そういえばマジンの娘達もときどきこういう風になる、と思えば微笑ましいものだった。

「あいにく荒れ野育ちだったもので、どちらということはございません」

「先生について勉強しなくても氷を作れるのですか」

 ウェイドは勉強をしないで良い言質が取りたいらしいとマジンは察した。

「荒れ野には先達がおりませんでしたが、日々の労苦の積み重ねは裏切りません。ときに若様、日にどのくらい走られておりますか。私が若様ほどの頃は野山を毎日二十リーグほども駆けて手製の道具で狩りをしておりました。おかげでいまもこの通りのことが出来ます」

 そう言うとマジンはウェイドのズボンのベルトを掴み、片手で頭の上まで何度かゆっくり持ち上げてみせた。馬上でグレン氏を使って同じことができるマジンにとっては子供が多少暴れても、周りに手足が当たらないように配慮することなぞ、造作もなかった。

「――私の娘は数理の計算がたいそう得意で私の家の家計簿を預かってくれています。子供は四則演算がきちんと出来て辞書を傍らに使えるようになれば、ともかく走るのが仕事だと思います」

「お若いのにもう娘さんがいらっしゃるの」

 ウェイドを頭の上に釣り上げたままのマジンの言葉に夫人が驚いた。

「娘が四人おります」

「あらあらお賑やかそうね。お幾つですの」

 ボクは男だ、とウェイドが頭の上で抗議の声を上げたのを丁寧におろしてやる。

「上が六つ、下が五つのそれぞれ双子の年子です」

 そう言うと夫人は自分の腹を抑えて心配そうな顔をした。

「あらあら。奥様大変」

「妻はしばらく前に亡くなりました」

「お気の毒に。立ち入ったことを申し訳ございません」

「荒れ野でのことですのでお気になさらず」

「そうされると、お一人でお子様をお育てになられたの」

「幸い四人とも皆、妻に似てよく出来た子どもたちでしたので、大きく助けられました」

「それで、若いのに落ち着いていらっしゃるのね」

 夫人はグレンと顔を見合わせた。

「――それで後添えのお話はあるの」

 善意というものか好奇心というものか判断のしかねる慎ましい笑顔で夫人が尋ねた。

「結婚を申し込んでいる女性がいます」

「あら、それは結構なことね」

 夫人は安心したという笑顔になった。

「明日明後日で縄張りを終えて、手を付けようとおもいますが、よろしいですね」

 マジンの言葉を聞いてグレンはニッコリと微笑んだ。 

「存分におねがいいたします。細かい話は後ほど」

 そう言ってグレン一家は去った。


 マジンが男衆に近づくとミリズが気がついて軽く頭を下げた。

「お疲れ様です」

 マイノラは酒を飲まずに茶を飲んでいるようだった。

 だがマキンズは奇妙に難しい顔をしていた。

「マキンズはなんかあったのか」

「食い物がうますぎるって機嫌悪いんすよ」

 リチャーズがマジンに言った。

 確かに会食の料理はどれも素材の姿がわかるような、敢えて材料が見えるような色形をしたものが多く並び、菓子の類でさえそうだった。

 この会の食事に供された食べ物はこの場に出ない十倍百倍の素材の中から選りすぐりをして、更に一手間加えたものばかりで、これだけのことをなせる者はデカートでもわずか、おそらくは数を覚えたての子供でも数えられる人数しかいない。

 金を出すだけならマジンにもできるが、この準備を手配することはマジンには出来ない。

 贅沢な目利きの仕事だった。

「ヴィンゼは貧しい田舎だからな。だが、まぁ今年は麦の出来が良かったところが多いらしい。元が悪かったから並になったってことなのかもしらんがね」

「そういやちょっと前に試しにこさえた脱穀機はどうだったんすかね。――マキンズ。アウルム嬢様と何軒か脱穀機持って回ってたろ。アレどうだったよ」

 ウェッソンが思い出した様に言った。

「ううん?評判良かったけど高過ぎる安くしろってんで、めんどくさかったから使いたきゃ勝手に使えって言ってミストブルの店においてきた。若様それでいいっつうてたから」

 ウェッソンの言葉に引き戻されたようにマキンズは言った。

「買うって話はなかったのか」

 ウェッソンは不思議そうに言った。

「ああ、まぁ、どうだろ。どっかのバカが店の裏に置いてあんの壊したら言い出すんじゃないかね」

「例のスピーザヘリンんトコはどうだったよ」

「まぁ、アッコは貧乏っちゃ指折りのところだからな。まぁ威力は認めてたみたいだった。なんせ下のガキでもガラガラやってりゃ仕事になんだからな。オヤジは相変わらずクソ食ったみたいな顔してたし、上のガキどもは石ころみたいな顔で見てたが、下のちっこいのは面白がって欲しがってた。でもま、子供のおもちゃってわけじゃねぇからな」

「なんだい。つまんねえな。オリャ見た時にゃ、こりゃすげーってなもんだったが」

 ウェッソンが下らないオチを聞いたような顔をした。

「ま、すげーってのと買った~ってのは違うってこったろ。ンナだから貧乏抜けらんねぇってのに、貧乏人は旨いもん食わねぇで、金持ちばっかに食わせてやがる」

 そう言うとマキンズは皿の料理を乱暴にまとめて突き刺して口に詰め込んだ。

「――ちょっとなんか悔しいんで、一回り食い物集めてきます」

 そう言ってマキンズは場を離れた。

「たまげた。マキンズが真人間臭いこと言ってたよ」

 マイノラが間を失った顔で言った。

「そういう言い方はよせよ」

 リチャーズが嗜めるのにマイノラは茶を飲んで頷いた。

「いや、ま、そうなんだ。言葉が悪かったが、アレだ。アイツぁオレと同じような小者クセェ奴だと思ってのに、なんかどっかの看板しょってるみたいな口聞いてたじゃねぇか」

 マイノラが弁解するように言った。

「その、脱穀機ってのはなんなんです」

 ミルズが尋ねた。

「ああ、まぁ脱穀する機械だよ。麦の穂を束ねて上から差し込むと麦やら粟稗の穂から籾を剥いだり、籾殻と粒とを分けたりするんだ」

「へえ。それ、子供でも簡単にできるってすごいじゃないですか。――高いンすか」

 マジンの説明にミルズが関心を持ったように言った。

「まぁ作るとなるとそれなりに手間と時間はかかる。材料は家建てるほどじゃないけどね。ボクが線引いて、ウェッソンとマキンズとで任せて組ませてどれくらいだっけ。半月かかんなかったくらいかね」

「ま、そうですね。手先仕事の腕試しってところで、それなりに自信がある大工衆なら中の下って感じだと思います。マキンズ一人じゃ苦労するのは間違いないところでしょうが、作らな死ぬってな追い込みがあるなら、やっこさん一人でもやれるとは思いますよ」

 マジンの言葉をウェッソンが受けて言った。

「そしたら、この辺に売り込んだらいいんじゃないすか。デカイ農場多いでしょ」

 ミルズが言った。

「まぁね」

「誰が作んだよ」

 マジンの気のない応えにウェッソンが言った。

 男たちは納得する。

「しかし、まぁ冬場に作らせてこの辺に売りに来させるってのは良い小遣い稼ぎにはなると思うんだ。一台千タレル。十ダカートなら冬の月の農家の稼ぎとしちゃ上出来だろ。材料費で三ダカートってところかな」

「……小遣い稼ぎですか。そりゃまた随分豪勢ですが」

 マジンの言葉にリチャーズが言った。

「気の利いた鍛冶屋と大工が中身を見れば、言うのも簡単に作れるからね。作り自体はそう難しい物じゃない。少し流行れば、すぐ真似されるよ」

「若様が突然食卓の席で線を引き始めた時には何事かと思いましたが、確かになんで思いつかないんだってな感じの、造りですからね」

「そんなもんすか」

 ウェッソンの言葉にミルズがピンと来ないように言った。

「なんだって、思いつくなぁ大変だ、っていう作りだよ」

 ウェッソンが言った。

「なんか新しいもん作る話ですかね。お邪魔していいですかね」

 そう言いながらテルダーとゲノウが若い衆を引き連れてやってきた。

「ああ、さっきは済まない」

「いや、とんでもないです。先生はこの会の主役の一人なんで、お忙しいところすまんでした」

 テルダーはマジンの詫びを流した。

 テルダーは七人、ゲノウは四人若い衆をそれぞれ連れていた。

「ホントはどっちもあと二三人来るはずだったんですが、色々立て込んでましてとりあえず明日からはこんだけです」

 テルダーが若い衆を示しながら言った。

「ウチはこの四人が軸でこのウェッソンが太いところを仕切る」

「よろしく合力願います」

ウェッソンがテルダーとゲノウに挨拶して握手を交わした。

「ゲノウ親方は残りの三人を知ってると思いますが、四人とも大工としちゃ半人前なんでそっちは期待しないでください。ただ、このウェッソンは前の現場のあともちょっと真面目に仕込んだんで、冷凍機関についちゃ、ちょっと大したものです」

 ふたりは、ほう、という顔をした。

「ま、先生がそう言うならそっちは任せましょ」

 ゲノウが言った。

「いやね、寄せてもらったのは明日の件の真面目な話もあるんですが、ちらっと小遣い稼ぎなんて単語も聞こえたんで、そっちも教えてもらえないかなって話もありまして」

 テルダーが隠さず話を振った。

「でもおたくらくらい腕の良い大工衆だと半月で材料込み十ダカートなんて見向きもしないだろ」

 そういうマジンの言葉に、む。という顔をしてテルダーとゲノウは顔を見合わせた。

 口の中で千タレルの仕事について唱えているようだった。

「そりゃ、ずっと詰めてないとなんないような現場なんで? 」

 ゲノウが問い直した。

「ちょっとした細工物だから、庭先に雨除けておいとけるなら別にいいかな」

「馬車の大きさってなると厄介ですが戸棚みたいな大きさなら、まぁなんとか」

 マジンの答えにゲノウが言った。

「アタシらの仕事もお天道様のご機嫌には勝てないんで、手隙の時間自体はポチポチ出来ちまいますからね。修行を思い起こして手遊びなんてのは割とありますよ」

「そういや最近は氷冷食品庫なんてのも頼まれることもあるんで、まぁアリですな」

 テルダーの言葉に、思い出したようにゲノウが言った。

 ふむとマジンは鼻を鳴らして考えこんだ。

「話から察すると、ああいう感じの行き渡ったらおしまいみたいなものなんですか」

 興味ありげにテルダーが尋ねる。

「農具だからね」

「農具」

 そういった瞬間に二人の大工の親方はマズいものを口にした顔をした。

「どうかしたかね」

 マジンは不思議に思った。

「ああ、いや。ま、先生の思いつきなんで、ハズレっつうコトはないのわかってるんですがね」

「農夫はこの世で三番目に古い商売なわけなんで。まぁそういうわけで稼ぎの話をすると糸引っ張ることになるわけですよ」

 テルダーの言葉にゲノウが付け加えた。

「二人は面倒にあったのかい」

「面倒つうかですね。先生の辺りだともっとかもなんでアレなんですが、この辺りでも連中とりあえずなんでも六掛けは自分らでやっちまうわけですよ。ウチラなんかだと十やるところなんでまぁそれはそれで結構なんですが、何でも五を超えればなんとかなっちまうもんなんで、連中とことんカネ落とさねぇ、アタシらの商売の価値をみせつけてやる機会ってのが極端に少ないんですな。まぁ中にはアタシらだけじゃなくて他人の十を見つけちゃ、自分の六を八にも九にもする御仁もいるわけでそりゃまたそれで厄介なんですが、ま、そういうわけでアタシらみたいな職人と農民農夫ってのはなかなか縁が乏しいわけです」

 ゲノウが何かに触れないように言った。

「金持ちの農民なら新しいもの買うってことかな」

 マジンは尋ねるともなく口にしてみた。

「そういうところは、たいてい自前で組合つうか座みたいな根深い付き合いを持っていて、仕事の仕組みがしっかりしてんですよね。そういうところがウルサイんじゃないですかね」

 テルダーが言った。

「――あとは、どうしてもってならコチラみたいな太いところから推していただくのが、面倒は少ないでしょうかね」

 テルダーが自分の背中越しを指すのにマジンは肩を竦めた。

「小遣い稼ぎでそれもなぁ」

 新奇な物を誰かに預けるとしてその先で面倒が起こればいらぬ騒ぎになりかねない。

 デカートは州国として狭くなく、セレール商会の取引は更に広い。


 翌日、マジンは一気に縄張りを終え、更に翌日井戸のひとつが掘り起こり、手押しポンプで水が汲めることを確認すると、二つの井戸の水を預かり、マキンズとともに一旦引き上げることにした。

 案内された湯屋は花街の筋違いにあって縄張りを終え、仕事初日ということで男どもの羽目を外して腰を軽くすることを許した。

 まずは掘り上がった井戸に建てた手押しポンプから出てくる水は泥混じりのものであったが、水を使っているうちにどうにかなることを期待するしかなかった。とはいえ工事の作業に使うなら十分といえた。より深く大きな井戸の方はまだ瓦礫が塞いでいたが、長いこと人が触れた様子もなく淀みもなく澄んで見える。

 テルダーの仕事は全く手堅く淀みなく、マジンの打った縄張りに沿って石畳の要所を剥がし鉄索を打ち込んでレンガ積みの基礎を固め始めた。

 マジンは自分の若い衆の動きを確認して、ゲノウ親方に改めて感謝した。少なくともウェッソンの仕事が止まるということはないと確信した。

 アルガは帰り際、揃えた商品の他に今年詰めと十年ものの葡萄酒を一樽づつ土産にくれた。

「あのあと、まとまったのか」

「まだグズってる。というか、持ち帰らないと決済できない腑抜けがいたからね。とはいえ、押しきれると踏んでる。連中もアタシらもこれでいいって思ってるわけじゃない。多少ともマシになる目があるってなら乗ろうって腹になってる」

「ご本家は」

 マジンがそう言うとアルガは意味を問いただす間に表情を険しくした。

「これはアタシの店の商売だよ」

「失礼した」

「いいさ。悩んだのも事実だ。半分ったって安かないからね」

 マジンの謝罪にアルガは表情をゆるめた。

「――察するところ倉庫のアレが五十万、百万、百五十万でいろんなカッコの筒っぽが五十万で先生のアタマが二百万ってところの値付けなんだね」

 まだ掘り終わらない井戸の作業を眺めながらアルガが言った。

「高いと思うか」

「いや、わからないね。ウチでも氷冷食料庫を使っているよ。まぁアレはいいものだ。それの親ってことだから、大したものであるのは間違いない。だが、値付けの話となるとわからない。お客があってのことだからね」

「モノとしちゃストーン商会のところに負けることはないよ」

「そう願ってるよ」

 アルガはそう言ってマジンの腰を叩いた。


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