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ストーン商会 共和国協定千四百三十四年夏至

 ともあれ試運転は無事終わり、十六樽がストーン商会に持ち帰られ関係者の祝宴に供された。

 話に聞いてはいたものの疑いを持っていた者たちも当然に多く、常識はずれの話題であれば当然に高価であろうと身構えていた者たちも多かったが、聞けば無理と諦めるほどの値段ではないと知り、興味を惹かれる者たちが多かった。

 虫とネズミを避けられるだけで食べ物の痛みの半分ほどは避けられるとあって、氷が確実に手に入るということは、自分の家に専用の井戸があるということと同じくらい便利なことであるということは誰にもすぐにわかった。



 会場に来客が出揃った頃、ハリス・ウィンス・ストーン氏が会場に現れ、よく通る声で挨拶を始めた。

「皆様ようこそおいでくださいました。

 お食事お楽しみいただけてますでしょうか。

 お食事中不躾な話とは思いますが、食べ物のことで少々深刻なお話をさせていただきたいと思います。

 私たち商人は農家や様々なところで仕入れた食べ物の実に三分の二を腐らせています。或いはネズミや虫などにくわれてしまいます。もちろん、そういった傷んでしまったものはお客様の手の届かない形で処分しています。家畜の餌や肥料になるものなどはまだマシな方で、或いは病気の元になるということで人目につかないところで燃やすこともあります。金を払って商ったものを更に金を払って燃やすなぞ、正気の沙汰とも思えない。或いはそう思われるかもしれません。ですが、仕入れお客様の手に届くところに並べたものでさえ幾割かはお客様が手にとられる前に痛み腐り捨てられます。これが商いの現実です。

 さらに、お客様が買われた、私共が自信を持って店に並べお客様もこれならと納得していただいたものも、半数はお客様が召し上がられる前に幾割かが痛み腐り或いは虫やネズミなどに食われます。

 おそらくは、お客様が手に取られた食べ物もお家で半分近くが痛み腐ってしまわれると思います。それは植物が熟れたり枯れたりという不可避のものも当然に多いですし、或いは湿気や乾燥というものかもしれません。

 なぜ腐るのかなぜ痛むのかについては、申し訳ありません。私の不十分な知識ではお答えできません。ただ、経験的に一つのことは知っています。なぜか、冬のほうが食べ物の痛みが遅く、夏のほうが痛みが早い、ということです。この違いはなぜでしょう。夏は虫や獣が活発で草も芽を伸ばすのが速いものです。冬は獲物となる獣も少なく虫も少なく草は枯れ、木も葉を落とす季節です。

 なぜか。申し訳ありません。理由はわかりません。

 ですが、夏と冬の間には違いがあることは皆さんご存知だと思います。

 夏と冬の決定的な違いは何か。

 日の長さが違います。

 気温が違います。

 天候が異なります。

 暗く寒い冬は、実は食べ物を腐らせずに保管することに都合が良い季節なのです。

 繰り返しますが、なぜかは私にはよくわかりません。

 ともかく体験的に冬は食べ物の痛みが遅い時期です。

 おそらくは生き物全体の活動が抑えられるのでしょう。

 なぜか。説明にはなっていませんが、暗く寒いから、ではないかと思います。少なくとも私共はそう確信をして仕入れた食料を日の当たらない地下室に保管しています。冬であれば十分に冷たい地下室は虫も寄り付かないのですが、残念なことに今の季節ではネズミたちの良い憩いの場になるようで、全く悔しいことにいくらかはやられてしまいます。

 お客様方、あまり笑わないでください。こうして失われてしまう食べ物は含み金として仕入れ値に上乗せされお客様の買われる食べ物の値に上乗せされてしまうのです。全く残念なことです。ですがそうしないと私共も成り立たないのです。恰も足のつかない深い水で石を抱かされているようなものです。

 ときに食べ物が驚くような安値で売られていることがあるのを目ざとい方なら市場でご覧になったことがあると思います。あれも同じことです。商うつもりで仕入れた商品が痛む前にせめてお客様に買っていただきたいという身の程をわきまえなかった哀れな商人のせめてもの誠意の顕れです。強欲にまみれ傷んだ食べ物を抱えるか、損をしてでも食べられるものを売るか。商人としては悲しむべき二者択一です。

 もし、不思議なほどに相場から離れて安い食べ物を売っている店を見つけたらもう一度改めて足を運び、同じ物の値段を見てやってください。そのときに値が上がっていても安かったときの値段を思い浮かべ、美味しかったように思えたら、もう一度買ってやってください。やはり美味しければそこはモノの分かったなかなか大した店です。

 ところでそうやって買ったものを家に楽しみにおいても、やはり時とともに痛みます。

 日持ちがするからと思って買った芋の類でさえ夏場には芽を出したり腐ったりします。ちびりちびり飲んでいたエールがいつの間にか酢になっていたり瓶ごとカビていたりすることもあるでしょう。食べようと思っていた肉にウジが湧くことも多いと思います。ネズミの小便の匂いをかぐことも多いでしょう。

 買った店が悪いこともありますが、家でやられてしまうことも同じほど或いはそれ以上に多いのです。

 そして、普通にお暮らしのお家では日の差さない冷たい部屋というものはなかなか準備しにくいものです。

 これが冬ならば。

 いや、冬とは言わずせめて雪解けの春の夜の涼しさなら。

 もう少しマシと思えるかもしれません。

 完全に季節を入れ替えることはできません。ですが、ほんの僅か、樽にたった一個の氷でしかありませんが、これを納戸に押しこめば樽の周りの僅かなところが氷の冷気に包まれます。

 或いは、樽の氷の上にカネのタライを置きそこを冬の砦としてもよい。肉のひとかたまりを僅かな間うるさいハエやネズミたちから避けるための城壁として使うことができれば、晩餐の一品を腐らせずにすみます。

 難しいと思われているかもしれません。

 もちろんたやすくはありません。ですが、この氷の塊を見たときに私はひとつの使い方を思いつきました。

 ご覧に入れましょう。

 これが、冷蔵棚、という私なりの利用例です」

 そう言うと部屋の扉が開きゴロゴロと二種類の風変わりなタンスが運ばれてきた。


「どなたか開けてみてください」

 明けてみると中には酒の瓶が並んでいた。


「冷たい」

 開けた客が驚いて言った。

 周りの客がざわめき始めた。

 給仕係が瓶を取り出し、テーブルにならべ、或いは客に注いで回る。

 もう片方の方は、中に木の桶が入っており氷とともに瓶が入っていた。


「物見高い目の肥えた方々には町に新しく美しい、しかしこれまでの作りとは全く違う建物ができたのをご存知かもしれません。あれは夏でも氷を作る氷室です。

 なにをバカな。或いはさては魔法か、と思われるかもしれません。そうではありません。

 氷室を設計され建築を指導されたのはここにいらっしゃる、ゲリエ・マキシマジン氏。お若いですが、かつて英雄めいた活躍をなされた人物です。ことによると密かに本物の魔法使いであるのかもしれません。

 ですが、建物を建てたのはこの町の職人スピナー・バーリオ氏。腕は確かですが一介の大工の棟梁であるバーリオ親方は魔法とは無縁の人物です。

 そして、今日ここに並んだ氷を作ったのは我がストーン商会の者たちです。もちろん四人とも我が商会でも働きをとくに期待している者たちですが、もちろん魔法とは無縁の者たちです。……そうだな、お前たち」

 それぞれに慌てたように返事をするのに客が笑う。


「魔法とは関係ない。そのことがどういうことかといえば、一言で言えば魔法使いを探す必要が無いということです。つまり、誰でもそれなりの手順を踏めば扱えるということです。もちろんあの大きな建物を誰でも買えるというわけではありません。本当をいえば商会とは別に我が家にも欲しいところですが、貧しいなどとはいう気もない我が家でも今のところおいそれと手に入れることができるものではありません。それというのも、魔法こそ使っていないものの、大聖堂の大時計のような巧妙精緻な絡繰によるもので、厄介手に余るほどに面倒ではないもののそれなりに手を掛ける必要のあるシロモノだからです。

 ですが、この製氷棚は違います。あの大きな建物の精緻さには到底かないません。もちろん氷を作るなぞできようもありません。

 ですが、より手軽に物を冷やしネズミや虫から遠ざけます。もちろん魔法ではない絡繰ではないので仕掛けはあります。

 片方は氷とともに冷やすものを入れる籠と桶が入っているだけです。ですから氷が解ければ水浸しになってしまいます。ラベルの剥がれた瓶が恐らくそちらに入っていたものでしょう。井戸水で胡瓜や赤茄子を冷やすのと同じことです。

 もう一つの方は上の鉄の引き出しの中に氷が入っています。そしてそのそこから伝わった冷気が棚全体を冷やします。朝氷が届いたときに氷を切り出して冷やし始めたところですが。……ちょっと見てはくれないか。どれくらい残っているだろう。……あまり大きくはないようですが、氷は残っているようですね。もう一晩とあれば少し大きな氷棚が必要なようです。ですが、造りは簡単です。ちょっと立派な戸棚を作れる職人なら同じものはいくらでも作れるでしょう。

 厨房の一角に冬の寒さを持つ棚があるということはその分だけ食料が長持ちすることを意味します。それは人々のおカネの使いみちを少しだけ余裕あるものにします。そうなれば私達商人が売るものに興味を持ってもらえる幅が増えるということになります。

 真似をするか。そう思われた方がいれば、お止めしません。

 真似されたくらいで咎め立てるような小さな了見であれば皆様をご招待はいたしませんし、この冷蔵棚をお見せもしません。いや、むしろ大いに真似をしてください。感謝の声言葉がいただければ光栄至極ではありますが、もちろんそれだけではありません。

 私共の氷を買っていただければありがたく思いますし、もう一ついえば皆様の日々の食卓のご繁栄と優雅を通しておカネの使いみちに余裕ができれば、また是非とも当商会でのお買い物をお楽しみいただけることと確信しているからでもあります。長々の挨拶、お付き合いいただきありがとうございます。引き続き会食歓談お楽しみいただければと存じます。皆様ようこそのおいで感謝いたします」

 ハリスは挨拶を終えると個別に来客に挨拶を始めた。


 ハリスに引きずられるように来客と挨拶を重ねるマジンのもとにメラスとイノールがやってきた。

「やぁ、こんばんは。これは大変な事業になりそうだ。幾らとかそういう金額をつけるのがバカバカしくなりかねない歴史に名が残る事件性を持った事業だよ」

 メラスがおどけるように言った。


「私も付いてきてよかった。夏の氷なぞ、単に涼むだけの金持ちの玩具だと思っていたが、あの冷蔵棚か。あんなものを見せられたら欲しくなってしまう。この時期の季節は肉魚は言うに及ばず、チーズ・バターの類もしばしば怪しいことになるからな。結局は氷の値段次第ということになるが、それでも手に吊るせるくらいの大きさ重さなら毎日買えないこともないという値段になりそうだと聞いた。あの冷蔵棚というやつもキミのアイディアかね」

 イノールはもうちょっと具体的に同じようなことを言った。


「いえ。ストーン氏の独創です。恐らく以前にヴィンゼで氷を見たときから考えていたのでしょう。或いは不満や疑問を持っていたのかもしれないですね」

「疑問?とはどういうことかね。作り方という意味かな」

 イノールが尋ねた。


「いえ。なぜ樽で氷を作っているのか、というような意味ですが」

「水を入れる大きな容器だからだろう」

 メラスが当たり前のことをいうように言った。


「もちろんそのとおりです。大きい割に転がせるので運びやすい。ですが、樽も安くはない。それに大きいので割合に邪魔です。田舎であれば、藁を厚く被せるだけでそれなりの氷室になりますが、町中ではそうもいかない。大きいまま取り出そうとすると箍を切らないといけないので、それなりに面倒でもありますし、ご婦人には少々危ない」

「そういうものかね。まぁ面倒というものは次々出てくるものだが」

「言われてみれば、面倒というか、邪魔だな。空樽の始末ってのは。酒も樽で買えば割安なのは知っていてもなかなかそうもいかない」

 メラスとイノールは言われてみれば、という様子であった。


「――しかし、真似して結構。というのはどういうことだろう。しかも作った者たちの名前まで上げて」

 イノールが首をひねるように口にした。


「あれは少々驚いたな。まぁ高いものだというのは、駅馬車の広場の脇のあの建物の出来栄えを見れば想像がつくが、それにしてもあんな風に紹介してみせれば、好条件でゲリエ氏に依頼をしようと様々なところから殺到してくるのではないか」

 メラスの言うとおりマジンもあれは驚いた。後追い商法はご法度というわけではなく、当然に釣れる釣り場には釣り客が殺到する。当然にストーン商会の条件よりも良い物を被せてくるだろう商売敵がいるはずだ。


「しかし、ことによるとそれが狙いなのかもしれません」

 マジンは二人にそう言った。


「どういうことかね」

 メラスが説明を求めた。


「ボクを忙しくさせておこうということかなと。良い面も悪い面も多いのですが」

 メラスが黙って首をしゃくり、続きを促した。

「――つまりですね。例えばボクが同じものを作ったとして単純に中身にひと月あまり、外側にふたつきほどかかっているわけです。怠けずに働いて一年で大体六から八です。そして、あの製氷庫の性能は三百樽は保証できますが、上はせいぜい四百か五百樽。手際が良くても日産千はゆきますまい。デカートの町の人口は約十万、とか。ボクが他の遊びをなげうって狂った様に製氷庫の普及に血道を上げて働いたとして、製氷庫の性能が見積もりを超え日産千であったとして一年で日産八千、二年で一万六千、三年でも二万四千。十年でやっと八万。ハッキリいえば、少々の商売敵があったとしてストーン商会にとっては大した損はないのです。それよりはいらぬ風評を立てられて商売を妨害される方がストーン商会にはよほど困る。大工たちも同様でしょう。あちこちで今回の仕事に尽力してくれた職人たちが如何にもな方々に囲まれている。内々でただ酒が飲める、服も礼儀も気にしないで良い、と言われたのでしょうが気の毒に。彼らの仕事も見る人が見れば当然に興味深く、自宅の建築を任せたいという方々も出るでしょう」


「引き合いが多すぎて手が足りない。ということだろうかね」

 イノールが溜息をつくように言った。


「まぁそうです。ボクも半月もしないうちに裁判ですし」

「そうすると、例えば絡繰を盗み出したりとか、そういうことをするものが出てくるのではないか。本体は荷馬車に乗るくらいの大きさなのだろう」

 メラスが検事らしい想像を巡らせる。


「ストーン商会がいま気にしているのもその辺かと。ただ、盗んだとして使えるかというのは別ですし、同じものが作れるかというのもまた別でしょう。本当にそれは大聖堂の大時計を盗んで自分の家で使えるかというのに似ていると思います」

「盗賊が時計を作れるなら盗む必要もない、盗賊は時計職人ではないから盗んだ、ということだな。しかしそうすると時計職人を盗めば良いのではないか。まぁこの場合はゲリエくんなわけで、私はキミの腕が立つのはよく知っているが、そういう問題だろう」

 メラスがマジンの話を受けて言った。マジンは頷いた。


「どう伏せても、製氷庫が事業としてうまく軌道に乗ってしまうと後追いを目論むものは出てくるでしょう。いずれはボクの名前も出てきます。そうすれば碌でもない輩が増える」

「しかしあんな紹介のされ方をすると注目も高まるでしょうな。さっきの検事長の言いようの後追い事業の話も玉石混交の有象無象で困ったことになるんじゃないかな」

「まぁ、そこは身構えておけという警告と思っておきます」

 イノールの言葉にマジンは肩をすくめた。


 見るといつの間にか、ジュールとウェッソンが皿と杯を片手に現れていた。

「どうした」

「あ、いえ、お話に割り込む気はないんでお気になさらず。見かけたんで寄せていただければと」

 ジュールが肩をすくめる様な会釈をしながら言った。


「彼らは? 」

 メラスがマジンに紹介を求めた。


「冷凍庫の建設にあたってボクの助手を勤めてくれた者達です」

「あ、いや、大したことはしてない小物なんで、お気になさらず」

「バカ、若旦那のお相手に無礼な口を利くんじゃねぇ」

 ジュールが嬉しそうに下手な謙遜をするのを、ウェッソンが小突いた。


「ああ、もともとこういう場だ。君たちの現場で一緒に働いていた連中も居心地悪げに困っているようだが、それは全くなんというか主賓が責められるべき筋合いのことであって君たちが縮こまるべき筋のものではない。かくいう私も仕事の帰りにでもたちよってくれというお誘いだったので着古したシャツだったから、上着を脱ぐのもためらわれる」

 そう言うと、メラスはチョッキの前を開いてシャツの繕い接ぎを見せた。


「はあ。なるほど。……若様、こちらどちらかのお師匠筋か大旦那様ですか?」

 メラスの言葉を聞いてジュールが尋ねた。


「いや、メラス検事長殿だ。お隣はボクの裁判の弁護人を引き受けてくださっているイノール先生」

「はぁ、っははあ?へっ。検事長?ってぇと、あの悪党ふんじばる側の親分の検事長ですか」

 ジュールが言葉の意味を確認して驚く。


「まぁ、おおよそそんな風の仕事だが、つまりは書類仕事を主にしている半ば引退者だよ。……あの仕事の助手か。どれくらい、一緒に働いているんだね」

 メラスは軽く自分の仕事を説明すると、マジンに尋ねた。


「今回の現場からです。なんというか、見かけて仕事を探しているというような話だったので、試しに手伝うかと」

「ふむ。仕事にあぶれたか。気の毒に。ゲリエくんが助手に使っているくらいだから見どころはあるのだろうが。ところで前職はなにかね」

「ハニエルの炭鉱で働いていたそうです」

 マジンが場に付きかねている二人にかわって端的に言った。


「ハニエル。ハニエルの炭鉱というと、彼らはアレかね。いや、ああ、まぁ、悪いと言っているんじゃないんだ。ここにいるということはまっとうに義務を果たしたということだからね。ふむ」

 メラスはふたりが刑期上がりの囚人であることを察したらしい。


「――しかしまぁ、すると今は大工衆として実績もできたということなのかな。むこうでしばらく馴染んでいたようだが」

 メラスはマジンの背後を目で示すと大工衆たちがそれぞれ浮かれていいやら縮んでいいやらと居心地悪そうにしていた。


「馴染んだっていいますか、急に若旦那……ゲリエさんの助手ってことになったもので仕切りつうか、すり合わせ、みたいなことをさせていただいたんですが、もともと大工衆ではないんで、おいでのお客様方に親方衆と同じ扱いされるといろいろメッキが剥がれるわけでして。ケツの皮が赤くなる前に逃げてきたところです」

 ウェッソンが説明した。


「それで、この先あの現場のあとはどうするつもりだね」

「このあとは、まぁ。若様。……ゲリエさん次第ってところです。あたしらがいうのもなんですが、面倒に巻き込まれたって話は伺っているので、無理はいう気もありゃせんが、ご厄介になれりゃ及ばずながら働いてみせるつもりでもいやす」

「すげえ御仁だってのは前々から知ってたんで寄せていただければとは思ってますが、まぁそんなところです」

 メラスの言葉にジュールが応えウェッソンが受けて言った。


「私なりに先ほどの紹介の意図を考えていたんだが、あの紹介にどういう意図があってもなくても、ゲリエくんはしばらく、周りが諦めるまで多少なりともゲリエくんを知った者を増やす努力をした方がいい。そういう意味では人々がゲリエくんを知る切っ掛けになったんじゃないか、そう思う」

 メラスはそう言った。


「知った者っていうのは知人という意味ですか」

「まあ、そう言ってもいいが、なんというかだね。……ああ、例えばだ。私は半熟のゆでたまごは大好きなのだが、目玉焼きばかりは半熟は絶対ダメなのだ。なんというか、あの目の前で崩れていって皿の上がベタベタに汚れて固まってゆく感じがね。ところで、私の家内はたいそう料理が得意でね。まぁ私がいうのもなんだが、火加減が絶妙なんだ。時間がどうのというよりも、火そのものの扱いがね。そんなわけで火と湯と砂時計で完璧な半熟ゆでたまごを作ってくれるんだが、彼女自身は半熟の目玉焼きが大好きで、結婚初日にこう完璧な半熟目玉焼きというやつを嬉しそうに並べてくれたわけだよ。そのときの私の胸の内がわかるかね。……いや、わからなくてもいいんだ。ただ、つまり、いまは私の妻が怒っている時の私の朝食には完璧な半熟目玉焼きが出てくるということだ。妻が私のことを理解しているということでもある」

 メラスの話はマジンには迂遠に感じられたが、なんとなくの雰囲気だけは伝わった。


「味方や友人を増やしたほうがいいというのは、自覚しているのですが、なんというかモノグサな性分でして」

 マジンがそう言うとメラスは心外そうな顔をした。


「ゲリエくんの場合、大事なのは味方や友人の数ではないよ。誰にでも愛される必要があるというわけでもない。嫌って嫌われていてさえ構わない。明確な敵対関係というものは、ときに軽薄な好意にまさる。そうではなくてだな。業績に比してキミのことを知っている人物が少なすぎる。私たち夫婦の話で言えば、キミは全く新婚初日の朝食に突然出てきた完璧な半熟目玉焼きみたいなものなのだよ。キミの仕事は最低限この場にいる人達に顔を覚えてもらい覚えることになる。家内に言わせれば、完璧な半熟目玉焼きの美しさは料理の中でも一際の栄誉であるらしい。私にはわからんがね。そういうことだよ」

 メラスはそう言って肩をすくめた。


「目玉焼きの話はさておいて、会場の人々に挨拶をしてきたほうが良いというのは私もそう思う。もちろん主役はストーン氏なわけだが、会場の人々の注目自体はむしろゲリエ氏にあるはずだ。私達が独り占めするとあとで私達が痛くもない腹を探られることになる。一周りしてくるといい。助手のふたりも連れてゆくと次の就職先を見つけられるかもしれない」

 イノールも朗らかに言って三人を送り出した。



 さてどこからと目を泳がせたマジンを救ってくれたのはアエスターの声だった。

 アエスターは年の離れた友人というよりは教師導師のように先生と呼んで扱った。

 来客の階層は様々で服装も華美な者も如何にも野蛮物騒な者もいないが、やはり職業柄や生活感がそこにはにじみ出ていた。そういった人々をアエスターはとくに扱いを変えることなくさらりサラリと一言二言挨拶して回った。

 これは一種の才能のようなもので、ただにこやかに挨拶と名前を告げ、マジンの名を紹介し、マジンに名を紹介し、おくつろぎください、と告げて去る。ジュールなどは恰も機械仕掛けの人形劇を見ているのかという感想を抱くほどの型にはまった所作であったが、そういった動きでなければ会場の人々すべてを回るのは難しいだろうと思えるくらいには賑わってもいた。

 当然に、幾人かは話したがり引きとめようとしたが、そこばかりは頑固に辞して次の挨拶を続けていた。


 会場を一周りした頃には本当に挨拶に顔を出しただけの忙しげな客は去り、ある程度客の物珍しさも落ち着き、物見高い来客に夏の風を扇ぎ入れられていた冷蔵庫は氷も溶けすっかり生ぬるくなっていた。

「ホストのお勤めは終わりましたかな、ストーン商会の若旦那」

「ああ、これはグレンさん。先ほどお宅のウィード氏にはご挨拶申し上げたが、あなたにはご挨拶し損なったようです。遅くなりましたが、ようこそおいでくださいました」

 グレンと呼ばれた男はちらりと三人の身なりに目を走らせた。

「お招きありがとう。いや、実はお招きいただいたが家の者をこちらに向かわせて、私は用向きが済んでからご挨拶だけ間に合えばといった次第で、詫びをせびったようで面目ない。それでこちらが……」

「こちらがゲリエ・マキシマジン氏。我が商会に新たな事業として製氷業を立ち上げる機会を与えてくれた人物で、本日の宴席の本来の主賓です。うしろのお二人はウェッソン氏とジュール氏。ゲリエ先生の助手として大工衆との取持ちをしていらっしゃいました」

 そう言うとグレンは順番に握手を求めた。

「こちらはセレール商会の跡継ぎ、グレン・セレール氏。こう見えて私よりも十ほども上ですが、毎年競艇競技に出場されています」

「歳のことはいうな。今でも初対面の人間には二十五で通しているんだ」

「それはひどい。娘さんが聞いたら泣きますよ」

「もう聞かれた。父さん私を五つのときに生ませたのかって上の娘にはバカにされた。なんでそんな話になったかは流石にこの場では勘弁してくれ。あまりに外聞が悪い」

 グレンはニヤリとして言った。

 ヴィンゼの酒場の二階にある柱の傷みたいな話なのだろうと思えば微笑ましい。

「それでアレは幾らで建てたんだ」

 グレンは直截にアエスターに尋ねた。

「まだ定まっていませんが、ひとまず数百万タレルと言っておきましょう」

「ふたつきほどでいきなり建ったが、いつからだ」

「内々では去年から。本格的には年が明けて春先頃に。先生には陰働きをしていただいていたようで正確な日数はこたえられませんが」

「お前のお父上の話をうちの奴が聞いたところでは、真似できるものならしてみろと言ったとか」

「そう誂ったように取られたのなら父の不徳のなすところでしょうが、決して軽薄な悪意によるものではないと誓えます」

「ならば、我が家も真似をするぞ」

「氷が溶けるものであることをご理解いただいた上で真似してくださるなら、当家も本望です。仁義は守っていただきたいところですが」

 グレンは頷いた。

「ウチが市場の南にちょっとした土地を持っているのは知っているな。彼処はどう思う」

「市場には近いから露店が利用しそうではありますが、ガラの悪い土地で馬車の通りには不便なのでは」

「そちらのお家から場所に不満が出なければ、そこはいい」

「ところで冬頃、お宅の大旦那様に父が話を持ち込んだときは鼻で笑われたとえらく憤慨していましたが」

 ふと思い出したようにアエスターが言った。

「うん。私も聞いた。バカなのかと私も父に言ったよ。なぜ乗らないんだと。百万タレルは確かに大金だが、その程度で揺らぐような我が家でもない。たしかに金策の折に年に幾度か悩む額ではあるが、あちこちつまめばそれくらいは出る。商い物の腐れの処分を考えればそれくらいはすぐに積まれる額だしな。月に十万では片付けの人足の手当もできない」

 グレンがアエスターの言葉の裏の嘲りに頷いて応えた。

「――だが、改めてあの白い建物を見て思ったよ。父が過日、キミの父上の話に乗らなかったのは如何にも愚かな事で商売としては後塵を拝することになるわけだけれども、我が家の商売を考えれば、あの建物ではすぐに満足できなくなって、ウチの父のことだ。扱いをめぐって争いになっていただろうとも思う。そう考えれば、お父上が真似をしてみろ、と発破をかけてくださったことは全くありがたく思っているよ。先ほど氷の卸値を見せてもらったが、アレならウチでいくらでも引き取っても良いくらいだ。日産幾らだ」

「とりあえず今は樽で数百とだけ」

「あの建物の中に氷室があるとして、樽で千を超えるとは思っていないから、まぁそうだろう。賢聖野に道を啓くとは云うが、それにしてもヴィンゼとは驚いた。言っちゃ悪いがあれほど枯れた土地でしがみついているというのはなにかよほどの者達だろうとウチの商売では考えざるを得ないヒドい土地だからな。……あ、イヤ。失礼。これは無礼が過ぎました」

 グレンがマジンの存在を思い出した様に詫びた。

「お気になさらず。実際、農民はかなり苦しいようです」

「しかし、ここしばらくで土地を捨てる人々も減ったとか」

 マジンの言葉にアエスターが噂の話を尋ねた。

「まぁ、盗賊騒ぎがなくなれば町も落ち着くでしょう。それくらいは誇らせていただいてもいいかもしれませんが、あとは人々の努力がようやくというところかと」

「なんでも、風変わりな肥料をヴィンゼでは扱いだしたとか。乾いており匂いが殆どないとうちの者が言っておりました」

 どういう耳の早さか初夏から雑貨屋に収め始めた肥料の話をアエスターは知っていた。

「肥料?それは聞き捨てならないな。ぜひ伺いたい」

 グレンが興味を示した。

「ああ、まぁ、おっしゃられたとおりあの辺りは本当に枯れた土地ですから、ちょっとした石炭灰のようなものでも、水を蓄える助けになるのです。もちろん多少他にも工夫はありますが、実のところ雪解けの辺りからの本当に新しい試みなので、気休めかどうかは来年の冬越しを待ってからというところで、しばらく見守っていただければと。或いは両商会で後押ししていただければ様々助かるとは思いますが、ああ、ご存知かとは思いますが、私裁判を抱えておりまして、先程から製氷庫の建造の話をお二人でされていますが、ままならぬ目もあります。実のところ来年の話どころか、秋冬の話をするのも憚られるような有様なのです」

 マジンがそう言うとグレンは気の毒そうな残念そうな顔をした。

「その話は伺っております。なんでもお家と工房をかけた裁判になっているとか。更にはリンス判事から謂われない侮辱を受けたとか。リンス氏は幾度か裁判でお世話になったことがありますが、いわゆる物取り刃傷沙汰ですと正義漢ではありますが、ご商売には疎い人物でご理解いただけず私共も泣かされたことがあります」

 グレンが溜息をつくように言った。

「それで、どういう具合でしょう」

 アエスターがマジンに尋ねた。

「ご尽力くださっている弁護士の方によれば、おそらくはカネの問題に落ち着くだろう、ということでした。ただ私の家というのが歴史的に名のある建物なので相応の金額になる、その争いがどう転ぶかということでした」

 マジンの言葉にふたりはホッとした顔をした。

「いずれにせよ、この度の冷凍庫のお約束の実績を示して、裁判の結審を待ちませんとおちおち次のお話はしかねる状況です」

 マジンはそう言った。


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