目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
デカート司法庁 共和国協定千四百三十四年霜止出苗

 朝食を終えて政庁に向かい、裁判所の要請に応じて出頭したことを受付で告げると待合で待てと告げられ、政庁全体に昼休みの鐘がなり響き、受付も食事中の看板を出して閉じてしまった。


 仕方がなく露天で昼食を買い求め、受付の前に戻ろうと裁判所の正面で、軍服を着たリザが身なりのよさ気な男性に不平を言いながら中から出てくるのと出くわした。

「私は当時も今も共和国のために奉職していたんですからね。それをなに、確認もしないで死んだことにした上で、今度は責任の所在は死んだ私の両親が相続手続きしていないのが悪いって、いくらなんでも気が狂った言い草じゃないの。アレがこの街の良心だっていうなら、この町まとめて気が狂っているとしか思えなくなるわよ」


「ゴルデベルグさん。言いたいことはわかりますが、その辺で今は。まだ聞き取りだけですから」

「あなた、誰の弁護をしているか分かって言ってる?改めて言っておきますけど、家が取り返せなければ、カネを払うなんてありえませんからね。本当をいえば、今からでも軍に戻ってここの司法の連中の頭とケツの毛まで勘定してむしりとって、その毛を灼いて燻し殺してやりたいくらいなのよ。無能の害虫どもを」

 敢えて近寄るまでもなく知らん顔をして通りすぎようとしたマジンを、視線で焼き殺さんばかりにリザは睨みつけた。


 無視して通りすぎようとしたマジンの前にリザが割り込む。

「さっさと荷物をまとめてでてゆきなさい。アンタが何処で事業をしようがそんなのは知ったことじゃないけど、あそこは私の家なの。私の家で勝手な真似はしないででてゆきなさい」

 マジンは一歩半下がって間合いを作った。


「ご覧のとおり今日はボクも武装している。そちらも証人になってくださりそうな弁護士の方をつれていらっしゃる。裁判が面倒だというなら、お連れの方に証人になっていただいて、家を懸けての決闘でもボクは構わない。ボクも今回の騒ぎの流れは不愉快なんだ。死んでさっぱりしたいというなら、見事冥府のご家族のもとに送ってさし上げるが、如何か」

 脅しというわけではなく、それも決着かとマジンは思っていた。


「そちらに立会人の準備がないのはどういうわけかしら」

「弁護士をなさる方が法廷の入り口で受けた決闘をそのどちらかに肩入れするなぞ不公正をなさるとも思えん。割って入ればまとめて切り捨てるまで」

「いえ、あの。やめてください。ゴルデベルグさん。ゴルデベルグ少尉殿」

 うろたえた弁護士がリザの袖を引く。


「貴方は部下ではないから、殿は要らないわ。下がってなさい。……決闘の条件は」

「やめてください。裁判の心証に響く」

 弁護士がリザの袖を引きながら訴えた。


「どうせなにをやっても対等じゃない。ボクが死んだら屋敷はくれてやる。お前は欲しいものを何も持っていない。実に不公平だが死にたいというなら付き合って殺してやる」

 マジンが吐き捨てるように言った。


「なんだと。貴様!私の家を奪っておいて」

「奪った仇が何処にいるかも知らないで、偶々目についた人間に八つ当たりしている世間知らずの小娘がなにを偉そうに」

「ふざけるな!貴様が余計なことをするから仇討の機会を逸したんだ!」

 マジンに鼻で笑われたリザが吠えかかる。


「その件については朗報もある。なにやら、ご両親を始め君の一族を殺した連中はボクが捕らえた連中に罪をかぶせてのうのうと逃げ延びているそうだが。詳しくは知らん。知りたければボクが偶々生かして捕らえた連中の調書を探してみるんだな。そういうのは弁護士先生が得意だろう」

「そういうことなら、調査にご協力しますから、この場は是非とも穏便にお願いします。ゴルデベルグ少尉。ゴルデベルグ様」

 マジンの言葉に活路を見出した弁護士が改めてリザの肩を引く。


「悪党の言葉が信用できるっていうの」

 弁護士の手を払いのけながらリザが聞いた。


「信用なぞ知るか。敵討ちってのは借金の取り立てとは違う。やりたきゃ勝手にやれ。この場で決着を着ける気がないなら、ボクも判事に呼ばれている。行くぞ」

 リザはマジンを背中から撃たなかった。




 戻ってみれば受付にはまだ食事中の看板がでており、マジンが食事を終えてもしばらく、そして看板が片付いてもまたしばらくマジンが呼ばれることはなかった。待合にヒトがいなくなり午後の日が西日の色を帯びだした頃、ようやくマジンがあまり広くない部屋に呼ばれた。


「ゲリエ・マキシマジンさん?今日お越しの件はわかっていますか」

 机の上にある名札によるとワーズ・リンス判事はマジンが席に着くや自己紹介もせずにそう尋ねた。

「裁判の呼び出しと聞いておりますが」


「リザ・チェルノ・ゴルデベルグ氏が土地建物の売買取引の差し戻しを求めております。受け入れられますか」

「受け入れるとはどういうことでしょうか」

 目の前の判事の言葉の意味をマジンは理解しがたかった。理解したとおりなら目の前の人物は愚物であった。


「ゴルデベルグ氏の訴えを認め、差し戻しを受け入れられますか」

 判事は短く言い直したものの木で鼻をくくったような言い様は変わらなかった。


「私は三年ほど前、ヴィンゼの町で公有地の売買の斡旋を受け、こちらデカートの行政司法の登記上の手続きをこなし、求められた金額を既に収めた上で所有に至りました。そのデカートの司法の砦である裁判所でそのような申し出が出ること自体驚きです。差し戻しは受け入れられません」

「引っ越される気はありますか」

 マジンが断ると判事はメモをとりながら簡素に尋ねた。


「既に事業をしており引っ越しは不可能です」

「どのような条件なら引っ越しが可能ですか」

「お相手の信用につながるので具体的には語れませんが、引っ越しを必要とする場合、取引自体の破綻や莫大な損を引き起こす影響が出ます。敢えて言うならデカート司法の名のもとに全ての取引先に一切の損害と責任をデカート司法が弁済するという弁明状を出していただけるなら」

「どのような破綻と損ですか」

「大きな金額と事業としか言いようがありません」

「百万とか億万タレルとかそういう金額ですか」

 判事はようやくメモから目を上げるとマジンにそう聞いた。


「具体的にはいえません。まあ、それくらいかと思っていただいて結構です」

 マジンは判事が誂っていることを理解した上で言った。


 マジンの言葉に判事は侮りを含み微笑んだ。

「冗談ではありませんよ」

「商売をする人々にとって信用は億万の価値を保つことは我々も知っています」

 判事はあくまで一般論としての理解を示した。


「お尋ねになりたいことはそれだけですか」

 マジンはリンス判事にそう聞いた。


「今日はもう結構です。来週また来てください」

 そう言うと判事は手元の用紙に裁判の番号と次回の接見期日とを埋めてマジンに渡した。


「さようなら」

 二度と会いたくないタイプだと思いながらリンス判事の部屋を出た。

 渡された書面について受付で確認しようとしたが、受付は既に閉まっていた。


 空振り承知で改めてメラス検事長を訪ねてみた。

 検事長はまさに執務室から出るところではあったが、マジンが訪ねてきたのを見て機嫌よく執務室に取って返してくれた。

 そして、玄関先でリザが非業の死を遂げた両親の相続手続きの不備を判事接見で責められたとこぼしていた件と、リンス判事に自身の取引が絵空事であるかのように誂われた件を訴えた。


「彼女の訴えにボクが妥協する気は全くありませんが、おそらくは彼女の感じた不愉快をボクも体験していることをお知らせいたします。元来、司法の手の届きにくい辺境で起きた出来事をきっかけで起きた、司法と行政の齟齬について調整を協力するためにきたつもりでいたのですが、恰も我々が故意に面倒を引き起こしたかのような態度は全く不愉快です。司法が我々二人の訴えを玩弄するなら、司法に頼らず古式に則り決闘で決着を着けることにいたします。無論そうあった場合には法の無力をリンス判事には体験していただくことになると思います。ゴルデベルグ嬢が決闘に挑んだ後はリンス判事には寝るなとお伝え下さい」

 マジンがそう言うと検事長は苦い渋い顔になった。


「なぜそれを私に伝えに来たんだね。私は彼の上司ではない」

 メラスは確認するように言った。


「ですが、裁判所の内部で自浄作用を求める立場にあるはずの方だ。もちろん他の方法もある。ボクは形のみとはいえ元老院の選挙権があるらしい。或いはもっときちんとわかりやすい形でカネを積んでもいい。でもそうすると、ボクはボクが怒っていることをよりはっきりした形で公に晒しながらリンス判事に示すことになってしまう。それはきっと恥ずかしいことだと思うのです。でもそれでもきっと誰かの命が失われるよりはずっといい。このままなら、ボクとゴルデベルグ嬢は決闘以外の選択肢を持てないままになってしまうと危惧しております。無論そうなったら今日この日にボクを怒らせたリンス氏のことをボクは絶対に許さないでしょう」

 マジンは改めてメラスに訴えた。


「なるほど。リンス判事の接見の応対に問題があったということはわかった。で、ゲリエくん。キミはなにを望んでいるのかね」

「リンス判事を交代させてください。彼があの態度のままでは彼女とボクが決闘をして、ボクが彼を殺しにゆく未来しか見えない」

 繰り返していた内容ではあったが、あまりに直截な言葉にメラスはマジンを睨みつけた。


「脅迫かね」

「楽しくない幻想に悩まされている、と文学的に言ってください」

 マジンは自身も避けながら思わず出た言葉を咎められたことで、肩をすくめるようにして言い訳をした。

 メラスは若者の態度に軽く溜息をついた。


「リンス判事がこの件から降りたら、その幻想に悩まされることはなくなるのかね」

「おそらくはより慎重な方が、こちらの裁判所の判事の方がいらっしゃると思います。ボクら若輩の苦悩を照らしてくださる判事が必要だと感じています。事の起こりは、やむにやまれぬ勘違いと、手続き上の齟齬と、遠い地にいる人の生死を一処で管理する難しさだと理解しています。だから行政司法の根幹にある人の善意を信じます。信じさせてください」

 メラスはマジンの本心を探ったが、何処に本心があろうがなかろうが、マジンの語る筋になんら欠けはない。事の起こりはよくある遺体のとり違えであって、いくらかは避け得ない事柄であった。マジンが買った土地で事業をしているというのも必然であった。とり違えられていた本人が遠い地で生きており、家に帰ってみれば他人がいたとなれば怒り狂うのも当然であった。


「仮に引っ越すとしてどうするね」

「ストーン商会の件が終われば流れ旅に出るだけです。そろそろ娘たちも自分たちでなんとか出来ているようですし、四人で何とかやっていけるようですから、銀行の口座の名前を誰かに書き換えておけば生活に困ることもないでしょう」

「面白い冗談だが、それでは」

 メラスはそう言ったがマジンには笑いどころがわからなかった。


「いえ、四人でそれぞれに八十万タレルづつくらいあって、小なりとはいえ事業が回っていれば暮らしていけると思いますよ。娘たちは。まぁうち上の二人は獣人なんで面倒も多いでしょうけど、そこは下の二人が面倒見るでしょう。或いはいずれ独り立ちするわけでしょうが、そのためにも今引っ越しを受け入れるわけにはいかないのです」

 メラスにはマジンが冗談として言っているわけでないことがわかった。


「事情はわかった。それで弁護士はどうしたね。必要なら紹介するが」

「是非とも。できれば直接ご紹介いただきたく思います。……やはりなんといってもボクは年若いので。全く残念なことにこういう正しさだけでは終わらない事柄の裁量には、年長けた方の先達が必要だと思います。似たような事例を扱われたこともあるかと思います」

 マジンの子供っぽい不遜さと謙虚さの入り混じった態度は辺境のならず者によくいる率直すぎる者の特徴としてメラスは理解した。実のところこういう者たちは敏すぎ賢しすぎ疎まれときに乱暴に振る舞うが、上手く扱えば物事を凄まじい勢いで引き回す猛る軍馬のような者たちだった。


「いいだろう。晩の食事の予定がないならついてきたまえ。紹介したい人物がいる」

 メラスは鈴を鳴らし人を呼び言伝の紙片を渡すと、マジンを連れ立って事務所を退室した。




 メラスの案内で訪れた店は食堂と言うには奥まっており、料亭と云うには開かれ賑わっていたが、つまりは人を選ぶ質の会食をもてなす店であった。

 食事の席での話題は専らもうすぐ川祭りの目玉になる船足競技の話だった。

 乗り込みの上限と船の大きさには制限があるが、事実上の無制限のなんでもありで帆船も過去に幾度か挑戦しているが、流れの速さや風向きが変わったりということの多い長丁場の船足競技ではあまり成績が良くないという。結局、よく鍛えられた櫓方と船頭が必要で、ここ一番では人を捨てるのもアリだが、結局は人死を出すような舟は勝てない。

 やはり水面にも良し悪しがあって舟が絡む狭い水路では櫂の凌ぎ合いや事実上の殴り合いも起こるが、要所要所で目を光らせるというのが、陸での争いのひとつである。

 メラスも若い頃は祭りの船頭の補欠にまでは食い込めたということだった。その縁で今も狩りよりも専ら釣りを趣味とするメラスはザブバル川の流域についてはかなり詳しかった。どうやら過日のローゼンヘン館の話も付け焼き刃というわけではなかったらしい。


 古い記録によればローゼンヘンが築いた砦は初期には資材の主だったところを船で運んでいて、石材の類も川で送られたという。当時は流れの豊かな沢が館のそばまで流れていて、ソリのような舟を馬に引かせて持ち込んだらしい。なぜわざわざ流れの細いところに館を築いたかの意図までははっきりしなかったが、そののち川の流れが幾度か変わったところを考えると、川沿いは数百名からの調査隊を一処に集めるには不安のある地質だったのかもしれない、とメラスは語った。

 舟でどれくらいだろうかというマジンの問いにメラスが少し考えて腕の良い船頭と漕ぎ手を揃えて上りでおそらく八日から十日下りで四日かそこいらだろうと答えた。下りの速さには、流れで夜明かしするだけの技量が必要になるけれど、なれた櫓方なら流れに乗せて一眠りするくらいはできる、そういうことだった。

 記録によると支流にはいくつか難所と呼べるところがあったらしいが館を築く過程で石積みの舟を通せる程度の工事もおこなったらしい。なぜそこまでというのはメラスにも定見があるわけではないが、ひとまずの北限を目指すに当たっての拠点をということだろうと述べた。

 豊かに広がる森はどういう植生であっても動物も寄せるし燃料にもなる。山は地に伏せている水を探しやすい。数百からの人員の探検隊を休ませる上で往来が確保できるなら山裾や森に頼ることは面倒ばかりでもない。

 もっとも、ローゼンヘンがそうまでして築いた石造りの拠点を自身で使うことは殆ど無く、木造の砦を石積みに変えてしばらくして天墜盆地という地域に伸びる支流域に拠点が移り、そこで複数の鉱脈の発見に至ったという。フラムからさらに上流域にあたる天墜盆地は降魔戦争の時代に決戦場に選ばれた土地で星が墜ちた後であると言われている。真偽は当然に定かではないが、ともかく大きな地殻変動があったことは間違いなく高さで一リーグをゆうに超える山脈に十重二十重に囲まれた差し渡し八十リーグほどの巨大なカルデラ地域では周辺にない鉱物が見つけられ、大きな宝石の原石が見つかる鉱脈もある。


 だが、短くも夏至の一時期白夜が訪れる高緯度帯で農耕には一般に寒冷に過ぎ、集落を構えるにはあまりに厳しい環境で鉱山というものが開かれたという話はない。

マジンは長いこと旅をしてローゼンヘン館にたどり着いたわけだが、実のところ旅そのものが目的ではなく単にその場から離れるために歩いていただけと感じる名調子でメラスはローゼンヘンの遺蹟を語ってみせた。


「こんばんは。珍しくお呼びがかかったようだからお邪魔するよ」

 そう言って席を訪れたのは福々しい印象の老人だった。

「やぁ。遅かったな。食べ終えてしまったよ。まぁ座ってくれ。食事がまだなら頼んでくれていいよ」

「ああ、いや、もう食べてきた。ここはお茶とお菓子が旨いからそっちがいい」

 老人は肉付きの良すぎる体を些か苦しげにひねり振り返り、給仕を呼ぶ。

「お茶なんて何処で飲んでも同じものだと思うがね」

 メラスは不思議そうにいう。


「確かにできるところと銘柄はどこでも似たり寄ったりだが、扱いが違う。ここではきちんと図った量をちゃんと沸かした湯に決まった時間だけ浸けて客に出す前に濾して出している。苦ければ上等とばかりに真っ黒だったり味がしない色付き水だったりということはない。同じもの同じ道具を使っているからといって同じ味にならないことが料理の難しいところだよ。手間や時間を掛けたからといって美味しさを保証するわけでもない。ここで真っ黒焦げのパイが出てきたことがあったかね。それでいて毎月別の料理を一品必ず献立にのせる。私はここの料理人たちの塩梅と領分を知った仕事が大好きなんだ。……さて、君のことだから、きっと私の仕事について褒め上げるつもりで私を呼んでくれたと思うわけだが、私もそろそろその若い人物のご紹介に与ろうじゃないか」

 メラスは男の口上に軽く笑った。


「こちらの若者は、ゲリエ・マキシ・マジンくん。かつてローゼンヘン館の盗賊ども一党を単身一掃した人物だ。初めて会ったときは少年というのも躊躇われるような若さであったわけだが、たくましく育ちゆく若者の姿を見るのは我々老人にとっては、宝石の輝きよりも眩しく見える。今はデカートでなにやら事業を開く予定とか」

 マジンは着座のまま深くうなずき会釈の代わりにする。


「――ゲリエくん。新しくお越しの人物はポラート・バラ・イノール。私の旧来の友でしばしば仕事の上では論敵でもあるなかなか手ごわい人物。とくに不能犯の線引は一級品で、彼が引き受けた最重要の容疑者の幾人かは事実怨恨や動機は十分であっても実行に及ぶには手段が不足している者たちで無罪、或いは従犯主犯として別の人物の検挙に繋がることで減刑ということになった実績がある。司法の健全を私とは別の立場から照らす有能な男だ」

「よろしく。ゲリエさん」

 そう言ってイノール氏は立ち上がって腹をつかえさせながらマジンに握手を求め、マジンも立ち上がって応じる。


「ところで、ローゼンヘン館のゲリエさんということは近くデカートで氷屋を開くとかお聞きしていますが、間違いありませんか」

 イノールがそう言った。

「ええ。ですが、どうして」

 特に話になるようなところはなかったはずだが不思議に思ってマジンは笑顔で尋ね返した。


「ストーン商会が定期的にというか、毎日氷を納入販売する計画を持っているらしいのだがと、こちらの店の主人に相談されたことがあるのです。ストーン商会が目算もない杜撰な詐欺をするとも思えないので、すこしばかり調べたことがありまして、お名前と業績だけは多少存じております」

「なるほど、そうでしたか。夏のうちにできればと思っているところですが、裁判で時を削がれるのも致し方無いかと、諦めかけておりました。ご助勢いただければ幸いです」

 マジンがそう言うと、イノールはマジンの手を放し席に腰を収めた。


「裁判の内容は、とり違えと差し戻し、ということだが、死んだと思っていた相続人が現れて公売の差し戻しを求めた、というこれまで百万回も起こっているアレで良いんだろうか」

「細かい話は後で埋めるとしてそういうことになる」

 メラスが端的に答えるとイノールが不思議そうな顔をした。

「こう云うのはなんだが、裁判としては学士様の最初に習うような例題集の基礎編にあるような問題だぞ。判事は誰だ」

「ワーズ・リンス判事です」

 マジンが言うとイノール氏は嫌そうな顔をした。


「司法が神の使徒かと勘違いした思いあがりの正義バカか。ゲリエ氏の土地取得を自主的に撤回させようとしたり取得目的をつついてみたり、そういうわけのわからない辻褄合わせをしようとしたとそういうところだろう。おそらく相手の側にも」

 光景を見透かすように言ったイノールはメラスをジロリと目根付けた。


「ゲリエ氏が言うにはこのままでは決闘という決着以外にはあるまいと」

「それを望んでいるのだろうよ」

「まさか、そんな」

 メラスは喘ぐように言った。


「民事は示談を以って両者の和解となす、ってのが大原則だ。究極の示談の形として決闘があるわけだが、やつは民事は庭先での犬の喧嘩くらいにしか思っていないのだろう」

 イノールは断ずるように言った。


「しかし事の起こりは遺体の取り違えと戸籍の照らし合わせ損ないだぞ。検事職の筆頭である私が云うのもなんだが、辺境で起きた出来事の殆どは風聞によるものを手がかりにする必要がある。捕物の取り違えなんか幾らもあるし、賞金稼ぎの勘違いによる殺しは跡を絶たん。法の正義を守るためとはいえ、無実の無関係の人々に拳を振るうこともある。回状や書類の書き違えなんかもどう防いで良いのかわからんくらいにある。政庁の膨大な書類の何処に過誤や資料の更新の遅れを元にした矛盾があるかわかったものじゃない。まさか行政への報告と改善案勧告が面倒だからって、示談の斡旋に決闘を奨めているわけじゃあるまいな」

 メラスは冗談めかして言ったがイノールはニコリともしなかった。


「なにが面倒だかはしらんが、死人や刑罰のない事件は裁判に値しないんだろうさ。民事は示談せよ、の左右兼用のドタ靴裁判が本気でいいと思っているんだろう」

「いくらなんでもいいすぎだろう」

「じゃぁ、やっこさん民事判事の配置が不服でことあるごとに刑事に移りたがっているのは知っているか」

 イノールの言葉にメラスは頷いた。


「それは、幾度か聞いたことがある」

「理由はいろいろつけているようだが、お肌に合わないわ、そういうことだろう」

 ワーズ・リンスという人物についての評価がどういうものかが啓かれて、二人は手元の料理に逃げるように視線を移し黙りこんだ。


「それで、裁判の弁護を受けていただけますか」

 マジンはイノールに尋ねてみた。


「もちろんお受けすることは出来ます。ですが、いくらか心得ておいていただきたいことがあります。この件の最初にボタンの掛け違いがあるようだが、つまるところ過去の例が多い種類の事件の裁判なのです。だから、判例は豊富にある。一般には改めて建物分の金額を相続人に支払うことで既に中途又は完了した売買契約を改めて完了させるという形になる。或いは、土地の売買契約の差し戻しに同意するかです。細目については色々あるわけですが、結局は相続人にいくらか支払うというのが一つの形でその算定の基準について争うのが一般的であるといえるでしょう」

「どれくらいの金額になるのですか」

「床面積と構造によるからなんとも言えないところです。前にメラスがたわごとのように語った小城のような石造りの建物であれば、一言で言うなら数百万タレル、ということになるだろうかと」

「バカな。ボクはあの一帯を二十万タレルあまりで手に入れたのですよ」

 思わず、マジンは声をあげていた。


「まぁ、未開拓の山や荒野であればそういうこともあるけれども、二十万タレルというのは経営が順調に安定している中規模の優良採算農場と同じくらいでもある。土地や建物は結局、人のための器でしかないですからね」

 イノールは諭すように言った。


「裁判の最後がカネの勝負だということになるとして、資金はいくら位あるんだね。大方は土地を買うのに使ったのだろうが」

 メラスが口にした。


「二十万といったところでしょうか」

 マジンが口にした骸炭や氷などの事業でふくらんだ数字は若い男が持つには大きな金額だったが、相手の出方次第だった。


「思ったよりはかなりあるな」

「だが、十分かどうかはわからない。事業が順調でストーン商会からの支払いがおこなわれればそれもあてにできるのだろうけれど、今は金額周りの査定の主張をおこなうだけの資料を集める時間が必要になる。提訴をしてきた相続人側としては金額査定を膨らませてこちらの予算を上回る請求金額を立ててくるだろう。相手としてはカネが必要なんじゃなくて、こちらが建物を諦めればいいわけだから、判事が認めるような口実が積み重ねられればそれでいい。正直なところお前さんのいう歴史的価値ってやつが命取りのひとつになりかねない」

 イノールはメラスに目を向け言った。


「――だが、判事がリンスだというのはこうなればコチラにとっては時間稼ぎにちょうどよい。あのバカはバカなりに事実や正義に目を伏せないくらいの小利口さは持っている。……それにアンタはこの件を甘く見積もっていたようだがね、メラスくん。もしこの歳若い友人を私に紹介していなかったら、彼は本当に決闘以外の選択肢を持てないままだったろうし、そうなっていればお尋ね者になっていたとしても不思議はなかったろう。無論、私が尽力しても力及ばない可能性もあるが、それでも葦の如き助け位にはなるわけだよ。私はキミといけ好かない判事と二人の鼻を明かすという得難い機会を得たわけだ」

「何か策があるというわけかね」

 メラスは自信ありげなイノールに尋ねた。


「ハッキリいえば、まだわからない。だが、ありそうなことは思いついた。いずれにせよ、専門的な調べ物が必要だから時間との勝負になる。だから、力及ばないかもしれないし、空振りするかもしれない」

「それでボクにできることは」

 マジンがイノールに尋ねた。


「明日、うちの事務所で契約を。裁判所で私を訴訟代理人に指名してください。あと、判事の忌避申請の手続きを準備しましょう。ま、手隙の裁判官がいても換えられるかどうかはサンナナで不利なところですが、時間が稼げます。どれくらいかは一概にはいえませんが、二十日からふたつきたらず。感覚的にはひとつき、というところでしょうか」

 イノールはマジンに告げた。


「時間を稼ぐことに意味があるのかね。忌避申請なんて心証が悪くなるだけじゃないのか」

 メラスはイノールに尋ねた。


「メラス。キミは本当に検察側の人間だな。裁判官の裁量の四分の一の原則なんてどっちに転んでもこの場合なんの助けにもなりはしない。三百万だろうと八百万だろうと、有り金全部積むつもりでも追い出されるだけだ。リンスにそういう裁量は期待してはいけない。だから新しい事実を掘り起こす必要がある。もちろん可能ならば金策も。そういうわけで一生懸命に働く必要がある。そしてあまりに前例の多い裁判は放っておけばあっという間に取り返しの付かないところまで話が進んでしまう。裁判ってのは早ければいいってものじゃないのだよ」

 イノールはメラスの懸念を笑うと頼もしげにそう言った。

 翌日、マジンはイノールの事務所で契約書を作り大枠の説明を受けた。


「来週、前回の接見を受けて口頭弁論ということになりますが、その席でリンス判事が失言或いは無礼をおこなったところで忌避申請を申し立てます。巡回窓口でのソレとは違い判事即決での却下はできませんので、三日ほどかかり申請者本人が呼び立てられます。が、忌避申請は同席していた代理人にも権利がありますので、私がおこないます。その後は所在を明確にしていることを条件に自由にしていて構いません。ヴィンゼにお戻りになられても結構ですが、裁判所の審問者所在票を裁判所窓口に示しておいてください。あまりオススメはしませんが、これを示すと保安官事務所で宿が借りられます。また裁判所所在地までの駅馬車の運賃の免除が得られます。駅馬車の往来がない場合、保安官に往来の保護を求めることができます」

 イノールは事務所を訪れたマジンに一様の説明をすると、伴って裁判所で訴訟代理人の手続きをおこなった。


 週が明けての口頭弁論の折にリンス判事の製氷事業への表情の変化をすかさず捕らえたイノールが立ち上がり、判事忌避の申し立てをおこなった。

 事業の内容という元来裁判に関係ない細目の開陳を求めた判事が、確たる証拠根拠の提示もなしにその採算をあげつらうなど、偏見を以ての人格攻撃にも等しい行為で裁判の中立性を期待できない、という申し立てだった。

 リンス判事が鼻で笑ったことは事実ではあったが、それが内心のなににつながったかは当然に証拠がなく、その一行を以って判事の中立性なしということは困難だが、いずれにせよ申し立ては受け付けられ裁判は中断した。

 翌日、ゲリエはひとまずローゼンヘン館へと帰ることにした。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?