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ストーン商会 共和国協定千四百三十四年玄鳥至

 馬のない馬車はすぐにヴィンゼでは話題になった。

 奇妙なものをまたゲリエの旦那がこしらえたと話題になったが、だいたいそれだけだった。

 試作だから爆発するかもしれないとか、町から出た辺りで立ち往生するとか、マジンがそんなことをぼやいていたから、町民はいつぞやの爆発騒ぎのような不謹慎を期待していたし、そんなことに巻き込まれるのはゴメンだった。

 それが実は共和国の根幹を変えうることを作った当人も気が付かぬまま、辺境の緩やかな無関心に守られて静かに実用化された。

 マジンの韜晦混じりの脅かしに反して熱流体振り子機関は順調だった。

 出来てからひと月も使っていない今のところ、とくに問題も起きてはいない。

 冷却と加熱に石炭ガスを使うことでおいそれと補充ができないことや一定運動以上の運転調整が難しいことが問題ではあったが、どちらもなんとかなった。燃料切れは圧力容器の圧力計を監視することと予備のボンベを持ってゆくことで対処した。機関側での出力調整は殆どできなかったが、トルクと回転数の調整は鋼板を帯にした無断階調速機を使って軸比で回転を取り出すことは既に蒸気圧機関でおこなっていたし、複数の出力軸を回すためにクラッチでの切り替えもおこなっていたことで後退も可能だった。

 水素ガスを封入している一次容器が破れて加熱器側にリークすることと機関そのものが想定以上の力で破裂することが心配のタネだったが、ひとまず頑丈な覆いに支えてしまえばできることは少ない。

 速さそのものは、空馬の早駆けと大差なかったが、休ませる必要なく燃料が尽きるまで走り抜けられることが大きく違った。

 圧力容器一本で六十リーグほど走れる感触で館とヴィンゼ中心の町役場までを往復走ってお釣りが来るくらい。ヒトのいるところ全域となると、予備に一本か二本というところで、出かける前に満タンの圧力容器を三本積みこむのが子供たちにはこの機関車を扱えないところで、アルジェンとアウルムもまだひとりでという訳にはいかない。しかし、子供たちの誰もがこの機関車を動かして館とヴィンゼを通えるくらいにはなっていた。

 よほど慌てて馬を潰すほど走らせる用はいつぞやアウルムに保安官一向に賞金首を退治したことを伝えさせたとき以来だったが、そんなふうに使った馬は三日は休ませてやりたかった。日が昇ってから館を出て午後の日が傾きだす前にたどり着くのに、馬に泡を吹かせる必要が無いのは気が楽だった。過日アウルムは最後の数リーグは自分の足で走ったらしい。

 色々やりたいことはあったが、とりあえず半日かからずヴィンゼと館をつなぐことができるようになったことを思えば細かなところで後回しでよかった。

 館からヴィンゼまでの道のりも下草が生い茂っていないという程度の意味と、迷わない程度に足跡と轍が残っているという程度の意味でしかない田舎道は機械がそれなりの速度で車輪を回せると言っても危険だった。銅管を円環状に閉じたものに高圧空気を吹き込んで円形バネとして車軸と車輪の間に挟んで足しにしていたが車輪の痛みは避けられなかった。そろそろ鋼管や銅管でない柔軟材料がほしいところだったが、セルロイドやセロファンでは流石に問題もあった。

 速度を上げるにつれ跳ねまわる車にしがみつくには馬車の平たいベンチではダメで取っ手かいっそベルトが必要で人も荷台も帆布でできた帯と厚い毛布のクッションで固定することになった。肘付き椅子に毛布ではこの先暑いが、小石に乗り上げては跳ねまわるクルマにしがみつく労力を考えればいずれは換えるにしても必要な物だった。

 むしろ交換の容易さで敢えて使い続けている木製の車輪のほうが道中には問題になるかもしれない。バネ下荷重の軽減が振動の抑制や路面摩擦力が運転制御に与える効果を考えると空気入りゴム車輪の効果の大きさを感じずにいられない。

 裁判所の召喚に従ってデカートに赴くついでにストーン商会に機関部を持ち込むことにした。

 その旅程に機関車を使うことにした。

 理屈の上では丸二日。夜道を避けても三日いっぱいで館からデカートまでの約八十五リーグの旅路をこなせる算段が立ったことになる。圧力容器も三本か四本で往復には足り、見込みを含めて六本は架台に平たく詰める。駅馬車が通える道があるなら問題はなさそうだった。

 召喚期日の前の駅馬車に間に合うように朝早く迎えに来たマイルズ保安官と馬の休憩の間に別れ、昼前に狼虎庵に立ち寄って半月ほどデカートにいると娘達に伝えて旅の途についた。

 その日のうちに地図上の町の外縁を越えて実は町の外であるヴィンゼの看板の立つ道標と井戸までたどり着いて日の登るのを待つことにした。

 翌朝、月と星が明るく目が慣れているのを良いことに、日が昇らないうちに野営を切り上げた。

 熱流体振り子機関はその特性上、運転領域が安定していて加熱部がコンパクトで蒸気圧機関に比べて再始動性が良いことが特徴だったけれど、一方で蒸気圧機関がおこなえる水量や燃料のその場での増減によって出力を調整するということが難しく、ちょっとした坂では取り出す回転を減らしてやる必要があったりもした。

 ムチを入れても走らないが文句も言わない気の太いロバのような機械だと思った。

 とはいえ、その気の太さはどんなロバよりも太く、名馬と比しても劣らない速さで日が落ちる頃にはデカートの天蓋が見える位置にたどり着いていた。



 古い町であるデカートは外縁の整備が進んでいて少し入ると日が落ちていても町へ急いで道を通う人の姿がパラパラとみられた。

 贅沢に灯りを点しているマジンの荷車に引いている馬がいないことを驚く者もいたが、夜道を急ぐ人々にはいちいち魔法の道具に驚くよりも頭を悩ますことがそれぞれ他にあった。

 ストーン商会にたどり着いたのは、日が落ちて星が闇に明るく見えるようになった頃だったので、門も戸締まりされていたが、戸口でディエモン・グリスの名前を出すと中から見たことのある手代が顔を見せた。

 機関車が馬を必要としないことに手代は首をひねっているようだったが、中庭から案内された馬舎に機関車を停め、応接室でしばし待つようにとマジンを礼儀正しく案内した。

 実用一点張りではあるが気取らない掃除のしやすい作りの応接室は如何にも商館の旅慣れた者たちの気風にそぐっているようで、慌てて火を入れたはずの暖炉も広すぎない部屋を暖めるのに適度な火が熾されており、家人の行き届いた目が感じられた。

 日持ちする果物の代表格のリンゴも初夏と云うにはもう遅いこの時期まで綺麗に保たせるのはそれなりの努力が必要で冷蔵が容易なローゼンヘン館でもいくらかしくじることもあった。

 商談に入る前に酒を入れられないという来客の喉を潤す気配りのリンゴも、この時期は交易の贅沢品とわかりやすい茶の類と比べても高級品になる。

 一言で言うなら流石は豪商であった。

 賑わいぶりや家人用人の素振りからわかってはいたが、時期外れのリンゴの張りをみると本当に大したものだと思う。

「おまたせいたして申し訳ありません」

 そう言ってグリスがマーシーともうひとりを伴って現れた。

 フワリと載せた執務中を示す室内帽に余る毛先から、刺繍の目の揃った柔らかげな室内履きまで隙のない男性だった。とくに紹介はなくともここでの身分の高さは見ればわかる。年の頃は三十前という若者の目と姿をした大人だった。

「夜分申し訳ありません」

 手の中で割ってしまったリンゴをどうしたものかと思ったものの、マジンはそのまま挨拶した。

「こちらの依頼の件でおいでいただいたとあれば、感謝こそすれ厭うことなぞありません。ようこそおいでくださいました。……それは冬摘みの最後の一樽の一つです。なかなか出来が良かったリンゴです。残っているうちにおいでいただけてよかった」

 グリスはマジンの手の中のりんごを見て微笑んだ。

 では、と四つに割り、マジンは礼儀は気にせず一同に差し出した。

 確かに時期外れにしては実の詰まった張りの良いリンゴだった。

「紹介いたします。こちらは当家の嫡子でアエスター・ハリス・ストーン様です。……アエスター様、お越しいただいたお客様はゲリエ・マキシ・マジン様ご当人に間違いございません」

 リンゴを食べ終わったところで、グリスが二人を紹介した。

「本日はようこそお越しいただきました。貴方のお話は家の者たちから聞くことがあり、一度お目にかかりたいと思っておりました。無理を言って同席を願う無礼をご容赦いただければありがたく思います」

 如何にも年若い見た目のマジンの急な来訪に厭う素振りもみせず、そういったアエスターの声はその姿通りよく通りたくましい声をしていた。役者として舞台にたてばそれで身を立てることもできるだろう笑顔だった。

「門扉も閉じた後に突然に押しかけまして誠に恐縮です。こちらの若君にお目通りいただけるとは望外でした。今後ともよろしくお付き合いいただければありがたく思います」

「当商会の早馬であれば夜ッピで門を叩いております。昼夜のことについてはお気になさらず、御用とあらばいつでもお越しください」

 マジンの挨拶にアエスターはすこぶるにこやかにそう応じた。

「……。早速ですが、ご用向きのお話を伺いましょう。こちらでどうぞ」

 グリスが咳払いをすると席を示した。

 マジンの対面にはグリスとマーシーが座り、アエスターは細い辺から遠く見渡す席についた。

「本日のお越しいただいた件は、製氷庫の建設についてのことと伺っておりますが、どのような内容でしょうか」

 グリスは隙なく切り出した。

「私、先日もご説明いたしましたとおり裁判に召喚されまして、この度デカートに出向いたわけですが、道よく旅程に余裕ができまして、四日ほど手空きになりました。よろしければこちらでお願いしていた工事の状況なぞ教えていただければと思いましたのと、冷凍機関の主要部をお持ちしたのでお預かりいただけないかと思いまして、お願いに上がりました」

「冷凍機関といいますと、あの蒸気圧で動くとご説明のあった――」

 訝しげにグリスは聞き返した。

「――しかし、まだひとつきも経っていないと思いますが、みつきほどはかかるものかと伺っておりましたが」

「ええ、まだ完成完了したものではありません。据え付けて組み立てる必要があります。ですが面倒なところは一通りお持ちしたので、夏の終わりをお約束した件は相応に順調であるとご理解いただければよいかと思います」

「しかし、氷室は疎か建屋の方も完成はまだ先ですが」

 グリスは互いの思惑が大きく違うのではないかと恐れながら口にした。

「折角作った物でしたので完成の喜びの勢いで運んできてしまったのですが、旅の空で荷物を預けるに足る信用おける相手を思いつきませんでした。そのまま思い余ってこちらに直接持って参りましたが、もしご迷惑でなければ、組み込みまでこちらでお預かりいただけないでしょうか」

 フッとアエスターが笑いを漏らした。

「そういうことなら、お荷物は我が家でお預かりするのがいいんじゃないかな。話に聞くところ荷車一台で積めるような量と聞いている。なんだったら、これからお帰りまで我が家に逗留していただくのもよい。敷地はつながっているけど、商会からは奥まっていてヒトの出入りも限られている。アレスとドゥレには私の客人とその荷物だと言っておけば、馬車小屋に置いても揉めることはあるまい」

 場を渫うような掬うような言い様にグリスはアエスターを睨みつける。

「若」

 グリスが名前でもなく役職でもなくアエスターを呼ばわった。

「なんだい。ひょっとしたらと思ったから、オレの同席を許してくれたんだろう。お前の、商会の商談相手を取ろうって話じゃないよ。大体どうしたって商会でお預かりなら出入りのあるところじゃ目につくし、内々には説明が必要になる。氷作りの絡繰の大事な処をって話になって、緊張しすぎてカリカリに焦げだすと面倒だろう」

「若。その辺で」

 グリスが改めて少し厳しい声を出した。

「いかがですか。大番頭殿。勘定監査からの提案ですが、ストーン商会としてではなくストーン家でお預かりするという形ではどうでしょうか」

 身を乗り出すように晒した地金を包むように身を整えながらアエスターは言った。

「わかりました。アエスター様。ゲリエ様のお荷物の預かりの件、よろしくお願い致します」

「承りました」

 グリスは思わぬ速度で展開した成り行きに苦笑気味に視線を正面のマジンに戻した。

「さて。舞台裏を晒したままのやり取りで申し訳なくありますが、もしゲリエ様の当地での宿泊が定まっておらず、お気が許すなら、当家の主人が直に賓客としてお招きしたいと申しております」

「よろしいのですか」

 マジンはアエスターに視線を向けて尋ねた。

「ご存知ではないと思いますが、父は幾度かヴィンゼに足を向けておりました。うちの商隊も荷に余裕があると一樽買っていました。長い道中では氷が溶けてしまうわけですが、それでも一欠残っていると大喜びするのですよ。ひとつには旅が早く無事に終わった証にもなりますし……。もちろん氷屋の件に商人ならではの算盤勘定があることはそれとして、魔法によらない人の術理として夏の氷を作り出すゲリエ様の手管手際に父は深い感銘を受けております。食事やお茶の席にご一緒いただいてお話できれば喜ぶかと思います」

「そう言っていただけるのは望外です。是非お世話いただければありがたく思います」

 マジンの言葉にアエスターは品よく微笑んだ。

「ところで、私は冷凍機関とか蒸気圧機関というものについてわかるというわけではないのですが、どちらか工房を使えるように手配したほうがよろしいでしょうか」

 アエスターが尋ねた。

「明日、どちらかをお借りして陽の光の下で一度、荷を解いて旅のヤレなど出ていないかを確認したいと思いますが、そこで問題がないとなれば冷凍機関はひとまずは再度梱包してお預けします。まずは建屋の具合を拝見したいと思います」

「わかりました。建屋の方には明日午後にでもご案内しましょう」

 アエスターはマジンの仕事を疑っていないかのように言った。

「私は行けないが、お前はご一緒しなさい」

 グリスはマーシーに命じた。

「今日明日のことでひとまずお話がなければ、荷と車を我が家の馬車小屋に動かしてしまいましょう。……それでいいかな」

 アエスターはそう言うとグリスに尋ねた。

「お客様の件。お任せいたします」

 グリスが念を押すように言った。

「では、拙宅にご案内いたします」

 アエスターが莞爾と笑って立ち上がったのに一同が合わせて立ち上がった。

 アエスターは機関車が馬なしで動いているのを見て、件の蒸気圧機関の一種であろうと見当がついたようで、燃料の釜は何処にあるのかと尋ねた。石炭を乾留したガス、つまり煙を集めて燃料としているという説明にはピンと来ないようではあったが、燃える蒸気の一種らしいというところと、骸炭をつくる際の煙突から炎が上がる光景にはすぐに思い至ったようであった。

「氷を作ったり荷車を走らせたりと、石炭も一捻り咥えると火に焚べる以外の使いみちがあるものですな」

 アエスターは素直に関心したように言った。


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