狼虎庵の企み自体は全く成り行きだったが、結果として単なる思いつき以上の動機を作ってくれた。
高圧真空ポンプを使って様々な工作をしたことで、蒸気圧機関の応用や課題が見えてきた。
思いのほか手間取ってあまり研究に没頭し成果に埋没できる状態ではなかったのが予定外だったけれど、それも却って整理の時間が取れたようにも思う。
たとえば、子供たちに現場を任せるにあたって間に合わせのようにつくった無線電話はようやく使えるというものだった。
白金線を真空管に使った無線電話はひとつ大したものなはずだけど、スピーカーとマイクの性能はまだしばらく追究が必要だろうし、送信受信回路自体も様々に問題がある。
作っては見たけれども、まだ色々手間が掛かりそうで、後回しにするしかなかった。
副産物というか、不良品の二極真空管を転用した電球の明るさのほうが娘たちには受けていた。
火を使わないで済むので、氷室の中でも明りを取れるし、ろうそくやランタンよりも遥かに明るく扱いも簡単だった。電化という意味では広いローゼンヘン館よりも狼虎庵のほうが遥かに進んでいて、冷凍機も蒸気圧機関が止まったあとは電池と電動機で動くようになっていた。真空管の数が揃ってからはそれなりに複雑な回路も作れるようになっており、温度計や圧力計と連動した蒸気圧機関の状態を電気的に読み取ることもできるようになっていたし、冷凍庫内の温度も室内や蒸気圧機関の脇でポンプ圧力や機関圧力とともに確認できるので実のところ、娘たちが四六時中釜の前に張り付いている必要があるわけではないのだが、火の番という用心のためと仕事をしている気分を味わうためにも石炭の山の脇にいるのは大事だった。
蓄電池の容量は一晩中冷凍庫を動かすのにはやや足りないのだが、日中配達が終わった後に新しい樽に水を注いでおけば、朝日が登り切って明るくなるくらいまでは氷点下を保てていた。
ローゼンヘン館と大きく違うところのもうひとつは冷凍機の排熱をためている機関の貯水槽がお湯を蓄えていて風呂にちょうどいいというのもあった。
油断すると井戸水が温まらないままに流れこむが手間少なく風呂に入れるのはちょっとした贅沢だった。
そんなわけでソラとユエは狼虎庵の生活をとても気に入っていた。
二年目には冷凍装置と給湯装置がローゼンヘン館にも完成した。狼虎庵のそれとは配管が異なっていて長期の運転に絶えるように銅鉛合わせ加圧引伸管を使っていた。厨房から近い地下室を一室冷凍庫にしたのはやり過ぎだったのかどうかよくわからないところもあるが、食料のの保存には都合が良かった。
それとは別に試していることがあった。石炭ガスの抽出と骸炭窯の自動運転だった。
石炭から出てくる硫黄は重要な材料である硫酸の材料だったからローゼンヘン館にある蒸気圧機関には煤煙回収器を取り付けて回収していた。ただ石炭灰の扱いがそろそろ面倒くさくなってきた。
大きなコークス窯をつくるか。と思いついた。
骸炭については以前から少量づつは作っていた。だが、周辺の装置や技術が揃ってきたので副生成物を回収できるだけの準備も整ったし、自動機械を作ってみることにした。
構造は巨大なパン焼き器のようなものだった。レンガとプラチナの網で鉄の板を支えて釜を作り綺麗に均等に蒸し上げる。装置本体は本棚状の焼き窯と燃焼室を長屋状に並べたもので天秤状の支えによって焼き窯の重量が十分に軽くなると待機していた次のの焼き窯に押し出され交代する。押し出された次の部屋では散水を受け、高温蒸気を提供しつつ冷却と窒息でくすぶっていた石炭が鎮火する。一行程概ね一昼夜でそんな作りだった。
圧力と温度の関係が把握できていたから、加減圧分溜によって段階的に加圧液化していった。
当面の石炭の蓄えを全部骸炭に変えたところで回収できたものは意外と多かった。硫安や硫酸というこれまでも手に入ったもののほかに石炭ガスやタールピッチなどの副生成物がかなりの量で手に入った。アンモニアも専用窯が必要ない量が手に入ったので、当時は苦労したが専用装置は撤去することになった。
一年目に苦労したダブルベース装薬を一樽ほど蓄えたところで小分けにして湿式保管庫に蓄えた。
大砲を撃ったり、城門を粉砕したりするには少しもの足りないが、ローゼンヘン館を倒壊させるには十分だったし、理屈の上では五万発を超える銃弾に足りるだけの火薬量だった。
練り方が良かったのか悪かったのか、自作した火薬は直に火をつけても破裂するというよりは高温を上げて火花を散らしながら燃える感じで、わかりやすい爆発という雰囲気での燃え方ではなかったが、必要以上にたくさんあっても危ないだけであった。
何より、作れるか試してみたかった、という工作の楽しさと挑戦の部分を満足した課題にあまり拘泥するつもりもなかった。そうやって作った銃弾を千発づつ準備して、火薬についてのあれこれはなんとなく自分の中ではケリがついていた。
骸炭を元の石炭と同じ値段で売り、蒸留物を利益として使う。分流した燃焼性のガスは過半が骸炭炉の燃料になったが、それでもローゼンヘン館の蒸気圧機関を動かすには多少余る程度に足りた。
ローゼンヘン館は大量に石炭を買い蓄えていたが、石炭をそのまま使うことはなくなっていた。
その企みは、マジンには最初からこうしておけばと思うほどの革新だったが、そうするためにはいろいろな実践や実験の結果が必要だったので、それはそれだった。
蒸気圧機関が圧力容器や圧縮式冷凍庫というアイテムを揃えたように、そろそろ次のステージらしい。
二年目で他にやった大きなことといえば、水濠へ通じる水路に捨てていた屎尿を水路を見なおして下水路を厠に引き込み屋根を付けたということか。用の済んだ木のおまるを炉に放り込むということも工房では当たり前に行うし、今のところはそちらのほうが面倒が少ないのだけれど、窯の火が落ちているときにはできないし、寝ぼけた子供をひとりで工房に入れるわけにもいかず、いちいちおまるを準備するのも焼き捨てるのも高くつく。
庭のある家では便所として深い穴を時たま掘って埋め直すわけだが、やはり子供には恐怖となっていると聞く。
町中では水を好きに使えないが、ローゼンヘン館に限って言えば十分潤沢な水がある。水汲みの手間はとうの昔になくなった。そういうわけだった。
各階を縦に貫くように下水配管を貫いて厠を作った。
明りが常にあることと館の各層に厠が出来たことは子供たちには大いに喜ばれた。
そんな風に秋を迎え狼虎庵の年内の営業を終え、マジンは配管内のアンモニアを回収して油に置き換える作業をしていた。
銅配管が痛むのも気になったし、木くずを溶かして繊維を作ってみようと思ったからでもある。
もっと言えば、機械力といえば紡績織機だ。となんとなく思いついたのである。
糸玉のひとつの幅に対して均等に糸玉を割り振らないと布地全体の糸の張力を均等にするために調整が必要になる。
娘たちと一緒に取引先に挨拶をしながら町中を一周りしつつ、そんなことを娘たちとリネンに刺繍をしていたときにふと思いついた。
こういうことは気になるとなんとなく気になり始め、リネンの目を数え始めてしまった。
ポインタル・ペロドナーの手紙に労務で畑に出られない天気の日は機織りをしている、という一文があったからかもしれない。アルジェンとアウルムには二千百五十タレルと呼ばれているペロドナーは二ヶ月に一回か二回のペースで手紙を送ってきており、その厚さに最初は戸惑ったほどの日記かと思うようなそれは、おそらく本当に日記で心情はほとんど記されていないままペロドナーの日常が記されていた。それとは別に律儀な時候の挨拶が記された本当の手紙が付されており、日記の内容の長さにマジンが放置していたそれをユエが発見し、ソラとユエとがペロドナーと文通を始めていた。ペロドナーは礼儀正しくあくまでも宛先はソラとユエではなくマジンとして主文もマジンであったが追伸部分のほうが長くなり、ときに便箋をまたぐこともあった。
絵だったり押し花だったり優しい言葉だったりお店の商売の様子という内容や、文字が揃ってきたり文法が整ってきたりという技術的なものの子供たちの成長が認められてマジンとしてペロドナーと子供たちの文通を妨げる理由はとくになかった。
ペロドナーは二人が氷屋を切り盛りしていることをうまく理解できなかったようだが、会うこともないだろう人間に説明するようなことでもなかった。
ただ、残暑の暑さをこぼす文章にふたりの作った氷で寝台を作りたいというような記述があった。
狼虎庵から回収してきたアンモニアに銅をさらに飽和させ、それを水に加えたもので藁屑を溶かし残るまで溶かしたものを網でこし鉄板の上に塗り広げ水中で均し、酢で洗い、水ですすぐ。
それをヘラを使って剥がす。
子供たちは最初、狼虎庵の機械の中から取り出してきた液体が薄い銅箔をボロボロにしてゆくさまや、それを水に薄めたものでさえ藁束をみるみる溶かしてゆくのを見て驚いていた。更には試験管の中の危険を理解したアンモニアが暑くもない部屋の中で冷たいまま煮え立ち、異臭を残しながら飛び散り消えたことで、子供たちは白衣とメガネとマスクの重要性を理解した。化学工房の換気扇は足元と天井付近と二つ設けていることや暖炉やストーブがないこと、専用の換気扇が設けられた作業机がある理由などが説明された。
怖い話はさておいて、セロファン紙つくりはなかなか楽しい作業だった。一回タネを作ってしまえば、タネそのものはどこかに付けたら洗えばいい程度のものだった。
タネに絵の具を混ぜたり、水で均したあとに水面に油で溶いた絵の具を落として模様を描き掬い上げると色紙が出来た。絵の具の落とし方で裏と表の図に違いが出ることに気がついたアルジェンは驚くほどの熱心さを見せて色紙づくりに没頭した。
溶かす植物の種類や絵の具の配合落とし方やそれを流す道具、酸の種類。果ては漉き器までアルジェンの研鑽は続いた。研鑽はしばらく続き、ほぼ透明な膜を作り出すことに成功し、花びらやおしばなを閉じ込めたり、咲いたままの形で花を留めたりという作品をつくりだした。
地下にあった光画箱に興味を持ったのはユエだった。
作ったセロファンを蝋紙にしてやると光画箱に篭って風景を写し始めた。
出来た絵を酸で洗い版下として、雑貨屋で手に入れた染料やインクを使って印刷をしてやると大喜びだった。
ペロドナーへの冬至の年越しの挨拶状は子供たち四人の合作だった。
そのおすそ分けに色とりどりの紙の花とともに町の人々にも配られ狼虎庵の玄関にも貼られることになった。