狼虎庵が順調に営業実績を伸ばす中でマジンは結果として邸内の掃除を自身独りでする機会が増えた。
アルジェンとアウルムは幼いにもかかわらず働き者で、生活感覚という意味では、よほどマジンよりもマシな判断ができたし、寝食の自分の世話はもちろん常識的な受け答えという意味ではマジンよりもよほどマトモな価値観での会話能力もあった。
馬車で丸一日離れた土地に子供だけで店を開くというのは、常識の上ではどうかしているという感覚は、マジンの常識の上からは抜け落ちていた。
またそういう感覚を埋めるようにアルジェンとアウルムは先回しに二人で勝手に成長し大人にむかっていた。
いまはちょっと自慢の懐中電灯を持って、館の探索を遅ればせながら行っている。
真空引きによってつくられる真空管の幾割かの不良品はだいたいそのまま電球として転用していた。
電池も多少使い勝手を改良して、倒してしまっても大丈夫なようにした。
一年目にいろいろ欲張り過ぎたせいで息切れをしたというのもあるが、本来さっさと自分でやるべきことを今まで先延ばしにしていた。それをこなしている。
ローゼンヘン館の地下室はちょっとばかり複雑な作りで二つの塔と本館をつなぎ、酒蔵やチーズ蔵などを備えた食料庫や地下牢を備えている。水濠につながっているらしい水の流れがあり、乱暴者共が使っていた割には汚くなってはいないが、いまでもアルジェンとアウムルは地下の掃除に苦労している。
地下室地下牢といっても、一層目はカタコンベのような埋まり方はしておらず、明かり取りの窓があるわけだが、更に下の階の地下牢は本当に明りのない壁に枷のある重罪人をつなぐための牢獄だった。ここには野盗の逃げ損ないが隠れていたこともある。
この灯りのない暗闇の区画には百人からの盗賊の寝泊まりのために上の階層にあった家財の一部が押し込められる形でつめ込まれている。広さに余裕のある建物のせいで乱雑に投げ出されるような形になっていた。
光画箱――似顔絵師がよく使うレンズを組み合わせた謄写版の一種で、取り込んだ風景を蝋を引いた透かし紙に写したのを鉛筆でなぞり絵に起こし、後のその紙を水に晒し鉛筆を落とし謄写印刷する。という精密版画技術のひとつ――があったり、色々な標本があったりとした。
鉱石標本と地図を見つけたときはすこしばかりときめいたりもしたが、とりあえずは上の階の整理が終わるまではここに手を付けるわけにはいかず、子供二人とやる気のないひとりではこの建物は掃除だけでも無限の迷宮にも等しい広さを持っている。
そんなわけで敢えてマジンは地下二層より下についてはあまり興味を持たないようにしていた。
久しく使っていない牢獄は雑多な家具のせいで多少の賑わいを見せてはいるし、髑髏のひとつも転がっているわけではないが、明りのない牢獄で日を過ごす苦痛は想像に耐え難く、少々気を滅入らせながら奥を探すと落とし戸の下にまだ下に続く階段があった。左右からはかすかな湿り気の風があり、それぞれ格子扉に塞がれ井戸に通じていた。片方はふさがっていたが見覚えのある管が伸びており、どこいらかはわかった。そう言えば馬屋側の井戸はいまだに鶴瓶だったことを思い出した。いずれ上に蓋をのせるにしても中から開けられるようにしようと誓った。
まだ道が伸びている他にさらに地下があることに奇妙さを感じた。
井戸への抜け道とどうやら川の支流の方角に向けて伸びているらしき地下道。
敵を何者と想定しているのか見当もつかないが、広場の鉄柵の様子や広場を囲む水濠。更には胸壁を持つ塔を複数建てるというのは尋常でない何かを感じる。
更に下にある何かを見定めるか、どこへ通じているかわからぬ先を見極めるか。
耳を澄ませてみることにする。どちらも水音がするような気がするが、頭の上の蒸気圧機関が管を揺らす音で聞き取れない。
井戸の内側にはしごのようなものがあったか覚えがないが、井戸は正面からは見えず塔の戸口を見える位置。馬舎に飛び込みに脱出を図るか、塔の戸口に迫る敵を討つためか。そんなところだろう。
もう一つ伸びているのは反撃目的ではなく純粋な脱出路かなにかか。
更に下というのはなんだ。
見ておく必要を感じた。
それはこれまでに比べて深かった。そして階段を下ると石積みが次第に乱雑に怪しくなっていった。落盤があったか手が足りなくなったか。ともかく明りがあっても如何にも危険な下りになっていた。水音というか、滝の音が聞こえる。驚くべきことに明かりが見えた。
向きを持った光条というよりはキラキラと天井に跳ね返す光はホタルや夜光虫或いは光苔という雰囲気ではなく、なにか天窓でも開いているのかと思えるような色合いと光量を持っているようだったけど、建物の中庭はガラスを嵌めこむような風流酔狂ではない。降りてきた深さや位置を考えれば、そういう仕掛けができるわけもない。
心の安寧のために拳銃を手にして先を確かめることにした。
それは全く想像もしていない光景だった。
滝という言葉では表し足りない飛瀑が地下にあって湖を作っていた。
それを照らすのは立派な樫の大樹。
ロウソクやカンテラとは一味違う手元の電灯の光を、更にかき消すような圧倒的な光量だった。
その幹には巨大な血晶石が、虚のように或いは奇妙な鳥カゴのように嵌り込み、日の光の色に輝いていた。
樫の根本へ近づいてみる。しかし奇妙な光景でどういうことなのか理解できない。水面が見えるのに流れの先が見当たらないのに地底湖の水が樫の根本まで流れ込んでいない。
轟々と流れ落ちる水が瞬く間に吸い込まれているのか、そもそも水をどこかに弾いているのか、樫の根本は湿り気こそ帯びているもののくるぶしまでも水はなかった。
樫の木は奇妙に輝いているものの、見たところ蠢く様子も口を利く様子もない。
幹に飲み込まれた結晶石の大きさは、ヒトの大きさというよりはクマの大きさで、持ち帰ってステアの胸に押しこむという訳にはいかないし、そもそも運べる大きさでもなさそうだった。
砕くか。と考えてもみたが、この空間の奇妙な釣り合いを作っているのはこの樫の木か血晶石であるのは間違いなく、状況がわからないままにも分の悪そうな賭けと思えた。それにこれまでの血晶石は一部を砕くと破裂するように消えてしまっていた。砂とか粉とかいう程度ではなく、砕かれるとそのひとつがまるごと昇華するのだ。
木の肌は陽の光のしたのそれと変わらず湿り気を帯びた冷たさ暖かさを感じるもので、枯れ木や金物のたぐいでないことは間違いなかった。
これを隠すためにこの建物は奇妙に武張った作りになっているのか。
という想像は説明としては納得できた。
だが確信に至るわけもなく、考えても埒もあかず、説明する者もいなければ、お手上げだった。
地底の木陰は奇妙に爽やかな香りを持っていたが、鳥獣虫魚などの生き物の姿はなかった。
轟々と落ちる水音が場を支配する動きのあるものだった。
樹の幹によじ登り輝く血晶石を苦労してなでてみたが、とくに何かが起こるということもなかった。
強いてあげれば日の当たらない地下にある石の類にしては冷えてもいないし、鉄のような熱さ冷たさでもない。雑多な性質を持つ血晶石の中でもこの巨大な血晶石は大きさと自ら光を発する色の輝きは驚くべきものだが、なにがどうと云われてもそこまでだった。
煌々というよりはテラテラと金銀のような輝きを示す小枝を折ってみても大樹が叫び暴れる気配も枝が腐り枯れる気配もなかった。
見知った限りの拙い判別法ではこの樫の木は魔族ではないらしい。
天啓も財宝もなかったが、おおぶりなドングリのついた樫の小枝を得て引き上げることにした。
翌日、戻ってきたアウルムに出かけることを告げると地下道の行き先を確かめることにした。
途中鉄柵の扉があり鍵がかかっていたが、それは蝶番を打ち壊した。
扉までは滑らかと世辞がいえた足元には次第に水が増えていた。
くるぶしまで深くなることはなかったが流れはそこそこにあり、小さな泉を集めた小川のようだった。
朝から出かけて昼を少し過ぎたくらいで山肌の沢につうじる洞から地上に出た。
まだ森のうちの沢の途中で目印としてはかなり大きな古い切り株が洞の口の上にあったが、その程度だった。沢の流れを頼りに下るとすぐにそれなりの流れに出た。
かつてヒトが暮らしたらしい屋根の落ちた建物の残骸と近くの水辺には古く朽ちかけた木のくいが何本か差さっている。青々とした森の向こう側は水こそあるもののあまり豊かとはいえないらしく野生化した穀物が草原の風景の一部を作っているものの、やがてそれを圧するはずの大樹が森を作るには至っていない。
かつてヒトが使っていたらしい建物には船の残骸があった。大きくはないが複数あるそれはそれなりに頻繁に使われたのだろう。
登記の上ではヴィンゼの町の中のマジンが取得した土地のはずだったが、町の地図の上にはこの辺りに記号はなかったように思う。
山の形を探して向きと距離に見当をつけて、地上を歩くことにする。森の外側をやや北に歩くと先ほどの流れとはまた別の川の流れが森に迫っていた。
既にだいぶ時が経っているようだが、野営の後のかまどや荷駄の轍があった。
追ってゆくと森を割いた道に至った。
森の中の道は獣道と呼べる密やかさはなく、踏みしめられた確かな硬さは野盗の往来にとってはこちらが正面口だったらしいことを示していた。頭数に応じた食い扶持をどこからか運んでいただろう事実は却ってホッとする。
地下道の扉の痛み具合を思えば、この五年で開いたとすればその後の何処かで壊れていたろうし、地下の状態を思うと一番上の層の地下牢と倉庫は頻繁に使われていたようだが、その下はほとんど踏み入れられていなさそうだった。
隠されてはなかったものの落とし戸がされていた更に下の階層には興味がなかった可能性が高い。そんなことを考えながら、村までの道よりよほどしっかりと道が固められあまつさえ丸太を横たえて土留としたところまである道を辿った。
百人からの食い扶持を支えるのはヴィンゼを襲撃するだけでは当然事足りるはずもなく、それなりに豊かななにかを狙うだけの意味がある何かがあるはずだったが、それがなにかはマジンにはわからなかった。
それに夜襲をかけた翌日に新たに訪れた少数の集団は、腕に覚えのある魔法使いだと云うにしても応援にしては手勢が少なすぎるし、偶然にしては間が良すぎる。
あれはなんというか、魔法か無電のような技術があって、事態が起きていることを知り、状況を確認するために先行して訪れたものの、拠点を維持することの無意味さから応援を取りやめた。とかそんな感じだった。
たとえば、そう、幾つもある駐屯地のひとつが襲われたが、その事自体には意味があるわけではない、と見做した上位の組織がある感じだった。
兎にも角にもマジンとしては幼い娘たちを背負ったまま鉄風雷火をくぐり抜ける面倒を避けられたらしいことをようやく一年が過ぎて実感はしていた。
地上に戻っても樫の小枝が腐れることはなかったが、やがて輝きは失せ何の変哲もない小枝と化した。しばらく花瓶に活けておいたが、世話の悪い切り花がそうなるようにやがて葉が枯れ落ちた。