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狼虎庵製氷店 共和国協定千四百三十二年夏

 夏になって、ローゼンヘン館の若主人が氷を買う気があるかと酒場や食料品店で訪ねてきた。


 夏になにをバカなと誰もが思ったが、試しに樽にいっぱいの氷の塊を詰めて持ってくるという話だったので、話の種に頼むことになった。

 やはり夏のことでいくらか溶けてはいたが、それでも店には赤ん坊よりもだいぶ大きな、マジンの下の娘くらいはありそうな氷の塊が届いた。同じ量の石炭くらいの値段で買ってみることになった。それでも真夏の肉の痛みを考えれば氷の価値は黄金並だった。


 雑貨屋に方位磁石、羅針盤は売れるかと聞いてきた。あれば便利だがとても高いことは知っていたので、聞いてみると安くもないが驚くほど高価ではないので試しに並べてみると旅商人には売れた。

 物が小さく数がでない割に便利に使えるのでそこそこ安定して売れるらしい。


 本人はあまり町には出てこないが、かつては盗賊から町を救った英雄であり、今はどういう伝手か便利な物を商う人物であり、町に出てくれば金離れよく商いをして酒を飲み女を抱く。若くて見栄えも並の上。

 盗賊退治の噂を試してやろうと腕自慢が絡んでみれば、あっさり凌いでみせるほどに腕も立つが、今のところ町中で殺しはしていない。


 結局、アイツは何なんだ。なんでこの町に流れてきたんだ。ということはヴィンゼの町の一年あまりの焦眉だった。

 魔法使いか錬金術士の類だろう。

 マジンってのもアレだろ、魔法とか秘術とかそういう意味の名前風に訛ったヤツだろ。

 言われてみれば、マとかマギとかジンとかいう音節はそういう風に使われることが多い気がする。

 そう言われればそうなのか。

 なんでこの町にきたんだ。

 いられなくなって逃げてきたのか。

 盗賊の頭目が魔法使いだったらしいな。

 女房が途中で死んだって言ってたな。

 追手か敵討ちか。

 あの若さでお付きに獣人二人ってのはやっぱり国元では身分があったからか。

 どこぞの姫さま孕ませて駆け落ちとかもあり得るな。


 無責任な言葉だったが、外野にとっては想像を巡らせるのは安い娯楽だった。


 マジンの少し付き合い方が変わったのは翌年の春先頃だった。

 食い物を扱っている店の店主がもっとたくさん氷がほしいと言い出した。

 安くもない氷だったし元はないものだったからと諦めていたが、小さくても夏場にも氷室があるのは食べ物の痛みが違った。氷が途切れると目に見えてすぐに痛むのがわかったのも大きかった。


 肉の卸をしている屠殺場でも気温の管理はやはり面倒事のひとつで、氷がたくさん手に入るなら毎日でも欲しいということだった。

 結局、町の寄り合いがあって、ゲリエ家の卸している氷を少し増やしてくれということになった。


 少しというのがどれくらいだというところで一悶着があって、毎日これまでの倍の量がほしい、となった。


 三日四日間隔を毎日にして更に倍量というのは、如何にもふっかけすぎだが、夏の間は氷が途切れると困ることは一度使った者たちの実感としてあったし、話を聞いたり氷をみたりしたものはやはり毎日でなくともほしいと思っていた。毎日三十樽の氷。荷馬車一台では積み切るにしても馬の足が遅くなるのは間違いない量だった。そうなると誰かが取りに行かないとならないのか。カネを出すのはともかく人手を出すのは面倒と微妙な牽制が場に起こった。


 ゲリエは大工と樽職人の手配と町の近くにマトモに飲める井戸がある家を町が準備してくれるならと、請け負った。

 いくつか候補がある中で近所に家がない土地を選ぶと、現場で煉瓦漆喰の氷室とその覆いになる屋舎の図面を起こし、大工の手配を町長のセゼンヌ・ヴィンゼに頼んで図面の写しを渡して引き上げていった。


 ひとつきほどマメに代理が訪れるのに仕事が遅いのにしびれをきらせたか、マジン本人がソラとユエをつれて乗り込んできて大工衆をクビにすると、ひとりでひと月かからずに氷室と屋舎を組み上げてしまった。

 その後アルジェンが荷馬車いっぱいに積み込んで持ち込んだ機材を組み付けてゆくとマジン本人が氷室の壁を塗り固めた。

 初夏の終わりに滑りこむように奇妙な鞴の音を立てる氷室がヴィンゼの町に出来た。


 その氷室からの最初の氷の出荷を待たずにマジンは引き上げてしまった。

 狼虎庵製氷店というのが店の屋号だった。

 代わりに氷を届けたのはソラとユエだった。もちろん力仕事にアウルムがついていた。


 幼い女の子が運んできたことも、樽の水がほとんどすべて凍ったままの氷も、去年の氷水を想像していた人々を困惑させたが、氷が割安で手に入ったことには違いないし、暑い夏に井戸水よりも冷たい水があることは大変ありがたかった。

 氷屋は真夏だというのに鍛冶屋でも使わないほどに石炭を使っており、奴隷を抱える良家のお嬢のはずのソラかユエかが炉の前で煤に汚れた顔を輝かせているとあれば、町の人々の多くは困惑せざるを得なかった。




 マジンは氷屋はアルジェンとアウルムに交代でやらせるつもりでいた。

 だが、大工が仕事の手の遅いことを咎めたアルジェンを侮った発言をしたことを聞き、ソラとユエはほとんど初めてマジンに願いをせがんだ。二人だけでは流石に心もとないので、一週間交代でアルジェンとアウルムが手伝うことになった。

 夏までに氷屋を始めて、そのお店を任せてほしい、というその願いは齢四つの娘の願いにしては途方も無いものだったが、無線電話の実験にはもってこいのように思えた。


 月末の精算をツケ払いでのり切ろうと思っていた不届き者も、一生懸命働いている年端もいかないお嬢さんの請求を理由もなく断るのは外聞が悪かった。しかもまちぐるみで頼んだことでもある。結局、眼力を向けているソラとユエではなくうしろで控えているアルジェンかアウルムにガンを飛ばし返して精算に応じた。


 素直に精算に応じてくれないと、翌日の夕方ふらりと訪れたマジンが支払い条件の確認と販売契約の停止を告げに町長を伴って訪れることになる。

 人々の支払いは最初の月に二軒をマジンが訪問することになった以外はひと夏順調だった。


 真夏の氷というものが受けて、一樽積んでゆく駅馬車もあった。

 売上は夏の盛りを超えると急激に減りはしたものの、しばらくは氷屋の引き合いは残っていた。だが、昼が短くなり本格的に秋の冷え込みがはじまると、流石に高い氷にカネを突っ込む道理もなくなった。


 農場の収穫が一通り終わり秋の冷え込みが明らかになった頃、狼虎庵製氷店も年内の営業を終了した。


 店舗一年目の売上は投資分をすべて回収するには足りなかったけれど、当年分の金額としては十分に黒字で、来年度機械に面倒がなければ早々に回収できる目処も立っていた。


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