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第12話

 眼前に広がるのは黒々とした巨大なとぐろ。

 思わず仰ぎ見るしかないその威容は、酔いに酔ってもはや丸まるしかなくなった雨龍黒さんなのでした。


「我なんて、我なんて......」


 地響きにも似た呻きとともに、雨龍黒さんの悲し気な嘆きが聞こえます。その万里の長城を思わせる巨躯は絡まりに絡まってもはや威厳も何もありません。


 彼もそのことは承知なのか、せめてもの抵抗として、毛玉のように丸まったその体にお顔をうずめてらっしゃいます。


 自罰的なその言葉に心を痛めます。しかし、私にはそのお心を救う手管はありません。私は力のない小娘なのです。正しさと正しさのあいだで揺れ動く一匹の龍を救うことのできない、矮小な存在でしかないのです。


 ゆえに、私にできることはただ一つ。雨龍黒さんが暗い失意の底から抜け出せるように、燦然と光る太陽を両の手で掲げて、彼がしっかりと歩けるよう、足元を照らしてあげることだけなのです。


 すべての準備は整いました。

 天上の世界にて、その一角を占めるのは白を埋め尽くさんばかりの御馳走の数々。空魚の刺身に始まり、桃の盛り合わせ、空鮫のソテーと、桃の盛り合わせ、鯛兜たいかぶとならぬ空魚兜そらざかなかぶとに、桃の盛り合わせ等々。限りある食材で私と茶ヶ龍さんはあらん限りの技量をもってして、まさしく満漢全席を作り上げました。


 酒類に関しても茶ヶ龍さんがいつのまにやら古今東西のお酒をかき集めてくださったようで、夥しい数の酒瓶や酒樽が道標のように並んでいます。そんな天上世界の大宴会場において、その中でも特に目を引くのが、おおよそ中央部のお皿に盛られたお料理です。


 美麗な盛り付けや色鮮やかなディッシュに囲まれる中、そのお皿だけは何の飾り気もなく、ただ一品のみが添えられているのでした。


 猛々しくも清らかで、浴びていると清々しい気持ちになれるマイナスイオン、もとい、神聖さすら感じるオーラを放っています。


 そうです。

 そのお皿にはあのただものではない獣さんが屹立しているのです。


 その姿はまるで剥製です。

 毛並みもつやつや。張りのある筋肉は今にも脈動しそうで、猛々しい瞳はまっすぐと相対する敵を睨んでいるようです。


 それもそのはず。この獣さん、調理しようにも刃がとおらず火も効かぬ、まさに絶対無敵を誇って一切の調理を拒んだのです。


 なれば致し方なし。

 茶ヶ龍さんの提案によって、この獣さんは宴会場を守る霊獣としてお皿に祀られることとなりました。


 いざとなったらあいつは生でも全然食べると思うし、とりあえず置いておこう。

 これは茶ヶ龍さんの言です。


 かくして、すべての準備は整いました。

 あとは各々がその席に座すのを待つばかり。


 そう、あとは雨龍黒さん次第なのです。


「雨龍黒さん、雨龍黒さん。顔を上げてください」

「......なんだ、貴様。この我を笑いものにしにきたのか。不遜な人間風情が。喰ろうてやろうか」

「まあ、まあ。そんなことをおっしゃらずに。とにもかくにも、お顔が見えないままでは寂しいのです。どうかお顔を上げてください」


 脅迫というにはあまりに覇気の抜けた言葉をかわして、私はとにかく面と面の向き合った対話を望みます。


 しかし、雨龍黒さんはしばらくの沈黙ののち、ぐにゃぐにゃに丸まった体をキュッと縮めて、さらにお顔を隠されました。


「おや、どうして隠れてしまうのですか。これでは頭隠して尻隠さず......いえ、お尻がどこかもわからないほど丸まっているので、頭も隠して尻も隠す。完璧ですね」

「ほざけ。もう我に構うな。もう萎び鯉のことなどどうでもよい。貴様のこともだ。どこへなりともね」

「そんなご無体な。まさか、私に情けない姿を見られるのがお恥ずかしいのですか?」

「ああ、そうだ。我は我のことがおそろしく情けない。栄誉ある龍でありながらこの体たらく。このような我の生に意味などない」

「そんなことを言わないでください。ただ生きるということには意味はないのかもしれません。しかし、生きとし生けるものはみな、ただ生きるという意味に突き動かされて、その旅程でさまざまな意味を作り上げていくのです」

「ふん、そんなものは詭弁だ。現状に満足している楽観主義者の阿保の考えだ。そのような陳腐な言葉が我に聞き入れられると思うたのか」

「思いません。しかし、言わなければなりません。私は阿呆です。私は楽観主義者です。とってもご機嫌で阿呆な楽観主義者です。ですので、私は雨龍黒さんにかける言葉を持ち合わせておりません。しかし、だからと言ってこのまま引き下がるわけにはまいりません。それは私が見つけた、私の生きる意味に反します」

「貴様の生きる意味とはなんだ」

「私は、その時その時に胸のうち燦然さんぜんまたたいた情動によって突き動かされています。私はゆらゆらと揺らめく煙なのです。雨龍黒さんにガハハと笑ってほしい。その一心でここまでやってきました。私の今の生きる意味とは、ただそれだけなのです」

「阿呆で楽観主義者なのに加えて、考えなしの刹那主義者と来たか。もはや呆れてものも言えぬ」

「人生とはライブなのです!日々移ろい、トラブルもあり、苦しいこともあり、悲しいこともある。けれど、そこから見渡す景色は一度として同じもののない美しく尊いもの。なれば、その時その時を乗り越えて楽しまなければ損というものでしょう。我々は人生という大舞台で人々を虜にするアイドルなのです!」

「くだらん言説だ。貴様の言葉を借りるなら、我の舞台は閑古鳥の鳴いたさぞさもしいものであろうよ。みすぼらしい偶像を誰が崇める?そのような舞台で、どうしてやる気が出るというのだ」

「違います!私です、私がいるのです!」

「貴様一人がいたところで何になる。我の人生において貴様など塵芥も同然、一瞬の泡沫よ」


 侃々諤々《かんかんがくがく》の議論は白熱の一途を辿ります。


 暖簾に手押しとはまさにこのこと。

 私がいくら雨龍黒さんに言葉を尽くそうとも、固く殻に閉じこもった彼の心はその裡を開いてくれることはありませんでした。しかし、それも道理でありましょう。痛みや悲しみはその人だけの遺産であり、同時にかけがえのない宝物なのです。それを理解しようともせずに我が物顔で詭弁を弄しても、そんなものはノイズでしかないのです。


 だからこそ、なんびとたりとも犯せない心の領域が立ちはだかるというのなら、私は同じく、相互理解困難な命題である、生きるということを曝け出すことによって、少しでも雨龍黒さんと同じ土俵に立とうとしたのです。


 その結果は惨憺たるものでした。

 雨龍黒さんは不貞腐れたようにいまだ顔すら上げず、私の言葉をぐるぐると逆巻いた解釈で己に角を突き立てていきます。

 その様があまりにも物悲しく、なんだか私まで悲しくなってくる始末です。


 私程度の言葉が雨龍黒さんの道しるべとあろうはずがないことは端から理解していたことです。


 それでも、私は伝えずにはいられなかったのです。失意に塗れて自暴自棄になってどうしようもなくなる人々を私は知っています。今の雨龍黒さんからはそれと似通った空気を感じるのです。このままではいけない。雨龍黒さんをこのまま放っておくことはできない。その一心で私は雨龍黒さんの心を砕こうと尽力いたしました。


 けれどそれもここまでです。

 いくら尽くそうともそれが実ることはないと理解しました。それと同時に、私の心は怒りと不甲斐なさで満たされたのです。


 雨龍黒さんを救う手管を持たない愚かな自分に。

 頑固でわからんちんな雨龍黒さんに。


 私はこの世のすべてに怒り心頭です。ぐずぐずと煮えたぎる瞋恚しんいは私の心の隙間に入り込み、奥底で眠っていた我が分身を刺激します。


 すなわち、天上世界のど真ん中。雨龍黒さんとの問答の結果、情けなくも怒り心頭。幼児退行の末、二十歳児を誕生させたのです。


 その結果は察して余りあるもの。

 なんと見苦しく愚かなのか。しかし、私は私を止めることができなかったのです。


「この、雨龍黒さんのわからず屋さんッ!!」


 嗚呼、母よ。お許しください。


 私は今生にて初めて、龍に暴力を振るいました。 











 私が選択したのは蹴りでした。

 特に理由はありません。咄嗟の行動ゆえ、意図を見出す方が難しいのです。


 衝動的に動いた脚は目の前に鎮座する雨龍黒さんへと吸い込まれていきました。


 そしてその柔軟で弾力のある筋肉に弾かれて、なんの痛痒も与えることなく、私は人生初めての暴力を終了しました。


 それどころか弾かれた拍子に態勢を崩して無様に転げた私の方がダメージを負っている始末。さすがは天上の世界。疾風がごとき天罰です。


 しかし、ダメージは与えられずとも、一つのきっかけとなったのは確かなようでした。


 突然の衝撃に雨龍黒さんが思わずといった様子でお顔を上げたのです。その顔からは先ほどまで纏っていた自暴自棄で物悲しい雰囲気は消え去っていました。殺伐としていて、凛々しい瞳の奥には黒々とした怒りが見て取れます。


「もしや貴様、今、我の身を害そうとしたか?」

「いかにも。それはもう、渾身の力を込めて」


 その報いは最速で受けることにはなりましたが。


「貴様、人間風情が!この我に歯向かおうなど万年早い!気が変わった、今ここでその矮小な肉を喰ろうてくれるわッ!」


 憤怒を纏った雨龍黒さんが猛々しく吠えます。

 情けなく萎れていた頭上の積乱雲もにわかに稲妻を轟かせ、その神威を再び放ち始めます。


 そこに先ほどまでの弱弱しさはかけらもございません。

 そこにはただ、怒れる龍が鎮座しているのみでした。


 怒髪天のごとく。

 龍の逆鱗を蹴飛ばした私はまさに絶体絶命です。


 しかし、これ今こそ勝機である。

 突風でたなびく髪に頓着することなく、私は堂々たる態度で雨龍黒さんと相対するのです。


「お怒りなのですか?」

「愚問ッ!人間ごときに足蹴にされては龍の名折れ!これが怒らずにおられるものか!」

「よかったです!怒ったということは、それすなわち雨龍黒さんの中にはいまだ龍としての誇りが根付いていたという証左。ようやく胸の裡をさらけ出してくれたのですね」


 とうとう雨龍黒さんからネガティブではない言葉を引き出した私は歓喜の笑みを浮かべます。


「しかし、いかような理由があろうとも暴力は許されざることです。いいでしょう、私を喰らうがいいのです!そのかわり、あくまでメインディッシュはこのお御馳走。私はデザートなのです!!」


 矢継ぎ早に繰り出される私の言葉に圧倒されて唖然とする雨龍黒さんは、そこでようやく気が付いたのか、ふと、視線を私の背後へ向けます。


 果たして、雨龍黒さんが何を見て、どう思ったかは定かではありません。


 辺り一面に敷き詰められた御馳走の数々にあきれ果てたのか、はたまたその献身に感動を覚えたのか。あるいは御馳走のその向こう、思わず落ちてしまいそうな雄大で深遠な夜空に魅入られ、龍生の意味というものを悟ったのか。


 いずれにしても、私の特大打ち上げ花火のごとき人生はここで幕を閉じるのです。


 それならばせめて、最後の輝きをもってして、雨龍黒さんの足元を少しでも照らせたのならば本望である。この時の私はそう考えていました。


「......おい、貴様」


 どこか感情を抑え込んだような声で、雨龍黒さんは低く唸るように問いかけます。


「あいつを仕留めたのは貴様か?」


 雨龍黒さんの視線の先にあるのは、お皿の上で雄々しく佇むかの獣さん。


 嘘を知らない純真無垢な私は正直に答えます。


「はい。もちろん、不肖このわたくしめが一太刀にて仕留めてまいりました」

「本当に?」

「本当に、です」


 雨龍黒さんの探るような視線が私を射抜きます。

 私はそれを正々堂々と受けて立ちます。


 果たして、沈黙はそう長くは続きませんでした。

 突如、雨龍黒さんが笑い出したからです。


「――ふ、ふふ、わはははははッ!!!」


 それは心底愉快だとでもいうような、軽快な笑い声でした。

 嘲笑でもなく冷笑でもない。聞いているものが思わず誘われてしまうような、気持ちの良い見事な笑いっぷりだったのです。


「おい、茶ヶ龍!こいつは本当にあの金毛吼きんもうこうを仕留めたとでも言うのか!?」

「どうやら本当みたいだね。私が駆け付けた時には雌雄は決していた。天叢雲あまのむらくもを貸し与えていたとはいえ、まったく大したものだよ」


 それを聞いてさらに面白くなったのか、雨龍黒さんはますます笑いが止まらぬとばかりに笑い転げました。


 のちに聞いたお話では、私が仕留めた獣さん、金毛吼きんもうこうはなにやら龍界隈でもその名を轟かせる恐ろしい霊獣であったらしいのです。


 獅子のような爪は鋼を引き裂き、その大きなお口からは業火を迸らせ、果ては神通力にまで精通しているとか。


 驚愕なのがこの金毛吼きんもうこうさん、なにやら神仏の乗り物でもあるらしいのです。そんな、ただの人間が太刀打ちできるはずのない霊獣を、私が言葉通り一太刀打ちしたことが雨龍黒さんは愉快でたまらなかったそうな。


 しかし、そんなことを知らない当時の私はというと、何が何やらといった状況で頭の上に疑問符を浮かべてはいたものの、雨龍黒さんも陰鬱な空気を莞爾かんじとして吹き飛ばして、さらには褒められているような雰囲気を察したので、とりあえず胸を張って誇らし気にしておりました。


 ひとしきり笑い転げた雨龍黒さんはむくりと顔を上げました。そのつぶらなお目目には涙すら浮かんでいます。


「おい、人間、いいだろう。貴様のことを認めよう。貴様の話を聞き入れよう。貴様ほどの阿呆な小娘が我の生に意味があるというのだ。きっと阿呆なりの意味があるのだろう。相応の格を備える者には相応の対応をしなければならない。これは龍生を生きる基本だ」


 ぐふふ、と笑いをこらえて雨龍黒さんがまっすぐに私を見据えます。

 私もその視線に全霊をもって答えます。


「今宵は宴だ。前途多難で暗澹冥濛あんたんめいもうたる我が龍生と、矮小で愚かな小娘の馬鹿げた所業を存分に祝おうではないか」


 雨龍黒さんはニヤリと笑いました。


「真の蟒蛇うわばみがどういうものか、貴様に教示してやろう」


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