私は生来より身軽なわんぱく小僧でありましたので、幼き頃、地元では悪ガキで勇名を馳せておりました。そんな私も齢二十。すっかり落ち着きを得た淑女ではありますが、その身軽さと身のこなしは今を以て最盛期を迎えております。
もちもちと弾力を備えた雲の上を、私は大きく踏みしめて疾走します。気分は春風、あるいは天翔けるペガサスです。
いつの間にやら遠くにいた標的が目前まで迫ります。私は大きく跳躍すると、手にした得物で眼前の
声なき叫びを上げて斃れ伏すのは、細長い扁平とした身体の側面にヒレを整列させた半透明の生き物。
彼は真っ白な雲の上でぴくぴくと痙攣すると、すぐにこと切れて動かなくなりました。私は立ち止まり南無と合掌して、すぐに次の獲物を探して走り始めます。
これこそが先ほど茶ヶ龍さんが肴にしていたお刺身の正体。空魚です。
地上に生息する魚とは姿かたちは似ていませんが、大気中をすいすいと泳ぐその姿は、確かに魚と言って差し支えがありません。形態だけ見ればどちらかといえば虫に近いような気もしますが、美味しければ何も問題はありません。
そう、上等な宴に必要なものは何か。それは上等なお酒と、上等な肴なのです。お酒に関しては、残念ながら私に宛がないので茶ヶ龍さんにお任せしました。つまるところ、私は上等な肴を作るために、この空魚の狩りを行っていたのです。
久しぶりの運動にご機嫌な鼻歌を垂れ流しながら、私は宙を泳ぐ空魚をバッサバッサと叩き伏せていきます。
いやはやしかし、茶ヶ龍さんに貸していただいたこの包丁、なんとも素晴らしい切れ味です。まん丸な月に掲げると、その三尺ほどの刃は月光を反射してヌラリと輝きます。もはや包丁というより剣と言って差し支えないでしょう。どこか危ういほれぼれとする魔性が、この剣には備わっているのでした。
ふと、背後からぐるるという唸り声を聞いて、私はゆっくりと振り返りました。そこには、ホオジロザメを彷彿とさせる巨大な生物が、ゆっくりとこちらを見据えて回遊しているのでした。
空魚同様、その身体は半透明になっており、あまりの現実感のなさから、なんだかチープな合成を見ているようで、私は面白くなってクスリと笑いました。
さしずめ
その余裕ある泳ぎからはナワバリに闖入した愚か者への怒りが滲み出ており、異様な気迫に包まれています。
ピタリ、と。空鮫は私の前方で動きを停止させます。
どうやらあちらの狙いは定まったご様子。私は腰を深く落とし、抜き身の剣を腰だめに添えて、深く息を吐きます。
思い描くは明鏡止水。風に
風に雲が流れていく。髪が靡いてうなじをくすぐる。
刹那、一閃。
目にも止まらぬ速さの一太刀は、空鮫の身を撫でるように切りつけました。瞬く間に三枚おろしの切り身となって、ふわふわの雲の中にその身をうずめます。
「......また、つまらぬものを切ってしまった」
決め台詞は夜風に流されて儚く消えていくのでした。
◇
ウソです。
空鮫と遭遇した私は情けなくも可愛らしい叫び声を上げて、その叫びを聞きつけた茶ヶ龍さんが易々と空鮫を三枚におろしたというのが事の顛末です。
そも、私は護身術程度に武術の心得はございますが、剣術やそれに類する道は極めていないのです。
空魚たちはその警戒心のなさからただ近付いて闇雲に剣を振っていればよかったのですが、あんな獰猛な生き物、私程度の小娘が相手取るのはいくら何でも無理があります。度胸と無謀を履き違えると痛い目を見るのです。
さて、無事食材を手に入れることができた私は茶ヶ龍さんの背に大量の空魚と空鮫を載せて悠々と宴会会場に凱旋していたのですが、道中、なにやらおもしろいものを発見いたしました。
それはしっとりとした常闇と鮮烈な月光に満たされる天上世界において、まるで砂漠に突如現れたオアシスのように、ぽわぽわとした優しい光を放ちながらぽつねんとその存在を主張していました。
無論、私がそのような不思議を見逃すはずございません。
私は茶々龍さんの背中から飛び降りて、誘蛾灯に誘われる羽虫のようにふらふらと雲海のオアシスに足を向けたのです。
「おお!これは、なんとキレイなんでしょう......!」
果たして、そこは天上の楽園とも言うべき場所だったのです。
透き通った真円の泉がぼんやりと淡い光を放って、そしてそれを囲むように青々と茂る樹木がわさわさと密集しています。
泉に近づいてみると、その光の正体がわかりました。
それは蝶々です。見たことのない紋様の蝶々が、水場を求めてひらひらと宙を舞って、その燐光を辺りに散らしていたのです。
そしてその色は蝶々の一匹一匹によって違うようでした。
赤に橙、黄に緑、青と藍に紫と、おおよそ七色と呼ばれる極彩色が、カクテルライトとなって泉を幻想的に彩っているのでした。
まるで天竺蝶々の舞踏会のようです。
あまりに美しい光景に私は心奪われながら、半ば朦朧とした意識で泉を覗き込みます。こんな素晴らしい舞台を作り上げた泉なのです。きっとその水面も絵画のように美しいに違いない。そんな確信をもって覗いた先は、果たして、思わずくらりとしてしまうような光景が広がっていました。
まるで不純物を一切含んでいない水は、ふんわりと浮かぶ蓮の花が咲き誇っていないと、そこにあることを感じさせない無垢な
腰ほどの深さの水中では、見たこともない美しい魚たちがゆらりゆらりと優雅に水中を舞っていたのです。鯉のような、あるいはクマノミのような、大きさはさまざまで紋様も一つとして類似しない。けれど、そのどれもが完成されたある種の美を形容しているようで、私は思わず合掌してしまいました。
月光を反射してきらきらと光る鱗がなんとも言えない神秘的な美を感じさせます。この楽園には美しいものしか存在しない。私はそう確信しました。
なれば、木々の密集する林はいかがか。
楽園の縁を作るそれらは、一見にして何の変哲もない樹木です。雲の上に木が生えていること自体が変哲の極みではありましょうが、それはさておいて。
私は目を凝らしてぢっと見つめます。瑞々しく新緑を感じさせる生命の煌めきは感じますが、蝶々や泉のそれには欠けます。
まだ何か秘密があるはず。そう言った考えのもと、私はそろりそろりと一本の樹木に近づきました。そっと触れます。固く、ごつごつとしてひんやりしています。しかし、それ以上を感じ取ることはできませんでした。
落胆の影が心に差すそのとき、頭にポトリと何かが落ちてきました。
鳥のフンかしら。この楽園の鳥ならフンもさぞかし美しいのでしょう。しかし、その割には重量があってまん丸とした感触でした。
そのような阿呆なことを考えながら頭の上のものを手に取ると、それは熟れて芳醇な香りを立たせる桃なのでした。
思わぬ収穫に私は目を剥いて頭上を見上げました。そこには、ヤシの実のように、梢のあたりに実を付ける桃の姿があったのです。
なるほど、美しいの次は美味しいときましたか。
しゃくりと桃に噛り付いた私はしたり顔で頷いて、すぐさま
するすると登るさまはおサル、あるいは孫悟空と言っても過言ではないでしょう。一本、二本と踏破するにつれて、収穫した桃の数も加速度的に増えていきます。やがて小高い桃山ができるころには、私は木の幹にもたれかかって清々しい汗をかいているのでした。
「いやはや、大量、大量」
鼻孔を刺激する桃の洪水に私はご満悦です。
「しかし、食材を集めたはいいものの、肝心のメニューはどうしようかしら」
ひと汗かいたところで思考が現実に戻ってきました。
私は雨龍黒さんのために最高の宴を開くべく、満漢全席の材料を調達しに来たのです。美の観賞は心が浄化されるのでいつまでも続けていたいのですが、今日ばかりは如何ともしがたい理由があるのです。
私は泉と蝶々を名残惜し気に眺めると、万感の思いを込めてその視線を切りました。
ここまでの旅程で空魚に空鮫、そして大量の桃を手に入れることができました。それらでなにができるのか。いくら考えども妙案は思いつきません。そも、魚と鮫、そして大量の果物だけではインパクトに欠けます。ここはなにかひとつ、ドーン!と雨龍黒さんの度肝を抜かすような食材が欲しいところ。
今思えば、おそらく、私の願いは聞き届けられたのでしょう。
なにせ私が立つこの場所は正真正銘、天上世界の只中。いわゆる神さま仏さまお天道さまのテリトリーでございましょう。
そんな場所で願おうものならそこら中に潜んでおられるご歴々の方々がなんだなんだと顔を出して耳を傾けてくれるのは必定。なんと神頼みに適した環境なのでしょう。
背後でガサリと音がしました。
茶ヶ龍さんが桃の匂いに連れられて来たのかしら。そんなことを考えながら振り返ってみると、そこには、草間を掻き分けてこちらを覗く、一匹の獣がいるではありませんか。
その獣を形容するならば、獅子がいちばん近いのでしょう。
王者の風格を漂わせる体躯に反して、その耳は兎のように長く、だらんと側頭部に垂れ下がっています。それは、ゾウに匹敵する巨躯とのギャップも相まってどこか愛らしさを感じさせます。
そして極めつけはその身から迸るオーラでしょう。見るものの魂を灼き尽くすような、それでいて透明な清涼感すら感じさせる雰囲気。有り体にいえば、なんだかマイナスイオンのようなものを放っている気がしたのです。
獣さんはジッと私を見つめていました。もしや、天上世界の住人との邂逅か。あるいは仏さまからの遣いか。そんなことを考えていたのもつかの間、その瞳に灯るのが血に飢えた食欲であることに気がついて、私は茶々龍さんにお貸しいただいた巨大包丁を即座に構えました。
その拍子に桃山から転げ落ちた桃が獣さんのもとへころころと転がります。それを契機に、グルルと喉を鳴らしてのっそりと彼が草陰から出てきます。
桃はぐちゅりと潰されて見るも無残な姿です。やがて、隆々とした筋肉で覆われた全貌が
私も間合いを測るようにゆっくりと動きます。一触即発の空気。張り詰めた集中を極限まで高めます。
どちらが狩人で、どちらが獲物か。次の瞬間には決まる。そんな殺気に満ち溢れた視線を、私たちは交わしたのです。
「......いざ、尋常に」
沈黙を破ったのは、私の踏み込みの音でありました。
◇
逃げました。
それはもうくるっと尻尾を巻いて脱兎のごとく。疾風迅雷がごとく。あまりの私の逃げっぷりに獣さんも度肝を抜かれたようで、しばし唖然としておられました。その一瞬の隙があったからこそ、私は今こうして命を繋いでいる訳ですから、ハッタリというのも案外バカにはなりません。
しかし、腐っても獣は獣と言ったところでしょうか。彼は即座に気を持ち直すと、体躯に似合わぬ俊敏な動きで私の背後に迫ってきたのです。
振り上げた爪の影が私をすっぽりと覆います。
もはやこれまでか。脳裏に駆け巡る宝石のような走馬灯に見惚れつつ、しかし、私はまだ諦めません。私は諦めが悪い淑女なのです。
包丁の柄を握る拳に力を籠めます。強張る足をむりやり動かします。
そして、私は脱兎の勢いのまま、踵を返して振り向きざまに横に一閃。大きく薙ぎ払ったのです。
ズシン、と。巨躯の倒れる音がしました。
訪れるべき痛痒は感じません。
なぜなら私の目の前に、脱力して斃れ伏した獣さんの姿があったからです。
奇跡というほかないでしょう。
包丁を握った私、斃れ伏した獣さん。勝者と敗者、狩人と獲物。その立場が今、ここにはっきりと証明されたのです。
「......また、つまらぬものを切ってしまった」
高鳴る心臓を押さえつけながら、私はしたり顔で例の台詞を吐くのでした。
そこへ、獣さんの斃れた音を聞きつけたらしい茶ヶ龍さんが駆け付けました。
彼は獣さん、そして天へ拳を掲げて勝利のポーズをする私を見て、たいそう驚かれた様子です。
「キミが仕留めたのかい?」
「ええ、この私が一太刀にて」
勝者たる私は格好よさげなポーズで包丁を構えて、ニヒルに笑って見せました。
茶ヶ龍さんはそれを見て呆れたような苦笑を漏らしたのです。
そうして私たちの艱難辛苦に満ちた食材行脚は無事、幕を閉じたのでした。
いやはや、一時はどうなることかと肝を冷やしましたが、結果的にはお肉も手に入って、収穫としては大漁というほかありません。しかもその旅程であんなにも素晴らしい光景を見れたのです。文句のつけようのない素晴らしき旅路でした。
最後に所望していたドーン!とインパクトのある食材も、この獣さんなら十分に花丸満点でしょう。
なにせ食べごたえ抜群と思われるゾウ程の巨躯に、明らかにただものでは無い雰囲気。雨龍黒さんはきっとびっくりするに違いありません。
なんだか呆れた雰囲気の茶々龍さんとそのようなことをお話しつつ、帰還した私は早速お料理に取り掛かるのでした。